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端午の節供はもとは女性のための節供だったの?(子供のための年中行事解説)

2022-04-30 10:30:05 | 年中行事・節気・暦
端午の節供はもとは女性のための節供だったの?
 新暦の5月5日は今は男児も女児も関係なく、「こどもの日」として祝われています。しかし戦前までは勇ましい武者絵や鯉幟を飾る男児の節供でした。ところが伝統的年中行事の解説書には、ほぼ例外なしに端午の節供は本来は女性のための節供であったと説明されています。これはいったいどういうわけなのでしょうか。
 民俗学者の和歌森太郎が著した『花と日本人』の中に、次のようなことが記されています。「五月五日の節句は、この時代まだ男児のそれではない。サツキとしてサナエをもって田に植える月、サオトメを中心として、精進のために忌籠りの一夜を過ごすことに由来する節句であったから、どちらかといえば女性にとっての節句なのである」。「この時代」とはこの文章の前後の脈絡から、平安時代を指すものと思われます。「平安時代の端午の節供では、田植えに際して女性達が忌籠りをしていた」というのです。
 その影響なのでしょうか、伝統的年中行事の解説書などには、およそ次のように記されています。「旧暦の五月は田植えの月で、昔は早乙女と呼ばれる若い女性がするものであった。田植えは神聖な行事であり、早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた。これを『五月忌』と呼び、女性が大切にされる日であった。日本の端午の節供は、この五月忌と中国から伝えられた端午の風習が、習合したものだと言われている」というのです。誰もが男児の節供と思っているところに、「実はその反対であった」というのは、話としては大変面白く、誰もが興味を覚えることでしょう。しかしそれは本当なのでしょうか。
 鍵となるのは「五月忌」(さつきいみ)という言葉にありそうです。そこで現代の古語辞典類で検索してみると、「五月忌」は載せられていません。江戸時代の口語辞典である『俚言集覧』には、「五月には男女が相逢うことを敢えて避けることで(五月の婚を忌むを云)、『伊勢物語』などにも見える古い言葉である」と記されています。江戸時代の膨大な百科事典的随筆『嬉遊笑覧』 (1830) にも「五月忌」という見出しのもとに、「今世も正・五・九月には婚姻を忌む。これを齋月といふ」と記されています。
 一方、一般的に説かれているような早乙女の「五月忌」についての文献史料は、何一つありません。あるなら見せてほしいものですが、何一つありませんから、見せることは出来ないでしょう。早乙女の五月忌みを説いている人は、何一つ出典を確認することなく、都合よく我田引水に解釈しているのです。それがないのに、どのようにして「早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた」などと、まるで見てきたかのように具体的な様子がわかるというのでしょうか。そのような言い伝えがあるという反論がありそうですが、伝聞ではいつまで遡るか全くわかりませんし、検証のしようがありません。また伝聞なら伝聞でよいのですから、そのような言い伝えがあったということの、根拠となる文献史料がなければなりません。
 田植えは豊作を祈願する神事でもあり、もっぱら女性たちが主役であったことは、多くの文献・絵画史料によって確認できますから、田植えの前には女性が心身を清めたであろうことは十分にあり得ることです。しかしそれを「五月忌」と称したということの根拠となる文献史料は何一つありません。そもそも田植えの時期はそれぞれの地域の気候条件により異なります。農作業の時期はその年その地域によって異なるもので、端午の節供の日に行わなければならないのでは、稲の育成に不都合が生じる地域が少なくないはずです。
 端午の節供が女性の節供であったことの根拠として必ず指摘されるのが、18世紀の初めに活躍した近松門左衛門の書いた脚本『女殺油地獄』下巻の冒頭部にある、「五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」という記述です。これは女性にとっては本当に安らぐことのできる場所はどこにもないという「女三界に家なし」という諺を説明するもので、端午の節供の日の夜は「女の家」と呼ばれるというのです。しかしこれだけで早乙女が菖蒲を葺いた小屋に集まって「忌籠り」をしたことの根拠にはなりません。江戸時代には本格的に男児の節供になっていましたから、その江戸時代の劇の脚本の一句を根拠にして、平安時代には女性の節句だったと論証することには無理があります。
 江戸時代に五月五日を「女の家」と呼んだのには、別な理由がありました。江戸時代後期の文化年間に幕府の学者が全国の風俗について書簡で問い合せ、返ってきた報告書が昭和になってから収集されて、『諸国風俗問状答』という書物に編纂されているのですが、その中の三河国吉田領からの報告には、「五月五日・・・・この日一日は男子出陣の留守にて、家は女の家なりなどいふなり。但、これみな武家のみのこと」と記されています。武家では、五月五日は男児の節供で、主役の男達は出払っているので、家には留守番の女達しかいない。それで「女の家」というわけです。そうすると江戸の歳時記である『東都歳時記』に、「五月・・・・六日、今日婦女子の佳節と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠る所を知らず」と記されていることがよく理解できます。五月五日が男児の節供であるからこそ、翌六日は「婦女子の佳節」となるが、その由来は不明であるというのです。

 長くなりましたが以上のようなわけで、端午の節供は本来は女性の節供であったと認めることはできません。一般に流布している年中行事の解説書には、根拠もなく説かれているものが多いので、十分に注意しなければなりません。「・・・・と伝えられています」という書き方をしている場合は、まず疑ったかかった方がよいでしょう。年中行事も立派に歴史の一部なのですから、歴史的根拠に基づいていなければなりません。根拠があるならば、「・・・・によれば」と書くはずです。根拠がないので、「・・・・と伝えられています」としか書きようがないのです。



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