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冬至にはどんな風習があるの?  子供のための年中行事解説

2021-12-07 06:55:41 | 年中行事・節気・暦
冬至にはどんな風習があるの?
 冬至は、北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年で昼が最も短く夜が最も長くなる日です。新暦では12月21日か22日で、約10日後には年があらたまりますから、いよいよ年の瀬も押し迫ってきたことが実感されます。
 現在では誰でも秒単位の正確な時間がわかりますが、昔は正確な時計がありませんから、昼間の時間が最も短いと言われても、計りようがありません。しかし太陽高度の変化による影の長さの変化や、日ざしが部屋の床に届く位置については、毎日記録していれば一目でわかりますから、昔の人は時間より影や日ざしによって冬至を実感しました。紀元前2世紀の『淮南子』(えなんじ)という中国の書物によれば、8尺(当時の8尺は2mより少し短いくらいか)の棒を立て、その影の長さを観測したそうです。この書物は7世紀には日本に伝えられていたとされていますから、影の長さで冬至を知ることは、古代日本の知識階級は知っていたことでしょう。『続日本紀』という8世紀の歴史書には、遣唐留学生の吉備真備(きびのまきび)が、唐から暦と「測影鉄尺」を持ち帰ったと記されています。長さは記されていませんが、これもおそらく同じくらいの長さだったでしょう。
 6世紀の中国の歳時記である『荊楚歳時記』には、「冬至の日には影の長さを計り、小豆粥を食べて疫病をはらうこと。また宮中では観測用の棒の影を特別に赤い線で記録した」と記されています。おそらく冬至と夏至以外の日の影は、赤以外の線で記録されたのでしょう。冬至に小豆粥を食べる風習は現在でも行われていますが、日本ではあまり注目されていません。しかし韓国では現在でも広く行われているそうです。
 冬至を境に日照時間が再び長くなり始めますが、このことは昔の人には重大問題でした。つまりこの日には陰の気が極まり、一転して陽の気が成長し始めます。そのこと自体は「一陽来復」と称して喜ぶべきことではあるのですが、このように陰と陽が入れ替わる時は不安定であり、邪気が働かないように慎まなければならない日であると信じられていました。『日本歳時記』(1688年)には、「冬至には行動を謹み、働かずに家の中で静に過ごし、使用人を働かせてはいけない。また餅を作って祖先の霊前に供え、また家族や使用人にも分けて、一陽来復を祝う」、と記されています。冬至に餅をつくことは、江戸時代の歳時記類にも共通して記されています。
 現在はこの日には柚子湯に入るという風習があり、「冬至」と「湯治」(とうじ)、或いは「柚子」と「融通」(ゆうずう)を懸けていると説明されています。『東都歳時記』(1838年)には、「銭湯で柚湯を焚く」と記されています。またそれよりやや後の『守貞謾稿』にも、輪切りにした柚子を湯に入れ、「柚子湯」というと記されています。柚子にはさわやかな香りがあり、蓬(よもぎ)や菖蒲など芳香のあるものには、邪気を除く呪力があるという理解に通じるものがあるのでしょう。
 『日本歳時記』(1603年)、『俳諧歳時記』(1803年)、季語の解説書『華実年浪草』(1838年)や百科事典類には、柚子湯に関する記述はありません。これらの歳時記は、よもや書き漏らすことなどあり得ないくらいに詳細な記述で満たされていますから、それには記述されていないということは、柚子湯の風習は江戸後期の天保の頃から徐々に始まったものと考えられます。もっとも江戸時代で最も詳しい歳時記である『俳諧歳時記栞草』(1851年)にも記されていませんが・・・・。
 また柚子に融通、冬至に湯治が懸けられていたということについては、江戸時代の歳時記には全く記述がありません。明治時代の『東京風俗志』(1899)や『東京年中行事』(1911)にも、柚子湯については記述されていますが、「湯治」や「融通」を懸けるという記述はありません。『新撰東京歳時記』(1898年)にも見当たりません。そのようなこじつけ的な理屈は、どう見ても明治時代まで遡ることはなさそうです。おそらく最近になって誰かがもっともらしく説いたものが、検証されることなく広まったものでしょう。とにかく歴史的にはそのような風習はなかったのです。
 また現在ではこの日に南瓜(かぼちゃ)・南京(なんきん)や蒟蒻(こんにゃく)や「ん」の付く物を食べる風習があると説かれていますが、江戸時代の歳時記の類には一切記述はありません。江戸庶民の生活を詠んだ膨大な数の川柳でも、冬至南瓜の風習を確認できません。『東京風俗志』(1899)には「南瓜を食べると中風を防ぐ」と記されていますが、「かぼちゃ」とルビがふられていて、「なんきん」ではありません。『東京年中行事』(1911)には柚子湯の他に、「南瓜を食べると夏の患いをしない」と記されていますが、「たうなす」(とうなす)とルビがふられて、これも「なんきん」ではありません。また蒟蒻についても記述がありません。もし当時「ん」の字が付くものを食べる風習があったならば、「かぼちゃ」や「たうなす」とルビをふるはずがないではありませんか。「ん」が「運」に通じて運がよくなるという理解も、最近になって誰かが根拠もなく説いたものが、広まったものなのです。ただし江戸時代末期に、「運気そば」と称して、新年の開運を祈念して年越しそばを食べる風習があったことは、庶民の日記で確認することができます。
 「ん」の字の付く物をを食べる風習について、「冬至七種」(とうじななくさ)と称して、南瓜(なんきん)・蓮根(れんこん)・人参(にんじん)・銀杏(ぎんなん)・金柑(きんかん)・寒天(かんてん)・饂飩(うんどん)を食べる風習が古くから行われてきたと説明されることがあります。しかしこれも現代に創作された「伝統的風習」であって、歴史的にはそのような風習は全く存在しないのです。
 このようにもっともらしく説かれている伝統的年中行事の中には、根拠もなく誰かによって説き始められたことがたくさん混じっていますから、余程気を付けないと、日本の良い伝統を間違って後世に伝えることになってしまいます。

コラム「現在の1月1日が年始の日になったわけ」
 冬至や立春が年始の日となるとすれば、その理由ははっきりとわかります。しかし現在の1月1日には特別な天文学的事象があるわけではありません。もともとは現在の太陽暦の基礎となったユリウス暦で、紀元前46年の冬至の直後の新月の日を、紀元前45年のJanuarius(1月)の1日としたことによっています。つまり現在の太陽暦の1月1日は、もともとは冬至を起点に考案されたものなのです。




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