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『風姿花伝』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-11-28 11:13:18 | 私の授業
風姿花伝


原文  この比(ころ)よりは、大方、せぬならでは、手立(てたて)あるまじ。「麒麟(きりん)も老(おい)ては駑馬(どば)に劣る」と申事あり。去乍(さりながら)、真(まこと)に得たらん能者(のうじや)ならば、物数(ものかず)は皆々失(う)せて、善悪見どころは少なしとも、花は残るべし。
 亡父にて候ひし者は、五十二と申しゝ五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間(せんげん)の御前にて法楽(ほうらく)仕(つかまつ)る。その日の申楽(さるがく)、殊に花やかにて、見物の上下、一同に褒美(ほうび)せしなり。
 凡(およそ)その比(ころ)、物数をば早(はや)初心に譲りて、安(やす)き所を少な
〳〵と、色へてせしかども、花は弥(いや)増しに見えしなり。是(これ)、真(まこと)に得たりし花成(なる)が故に、能は枝葉も少く、老木(おいき)になるまで、花は散らで残りしなり。是、眼(ま)のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。

現代語訳  この年頃(五十歳代)になれば、大概、何もしないということ以外には、これという方法はあるまい。「麒麟(きりん)も、老いてはのろい駄馬にもかなわない」という諺(ことわざ)がある程である。しかしながら、真に奥義を会得した能役者ならば、演目の数は(肉体が衰えて)ほとんど無くなり、善くも悪くも見せ場は少なくってしまうが、芸の奥深さである「花」は残るであろう。
 亡き父観阿弥は、五十二歳という年(至徳元年、1384年)の五月十九日に亡くなったが、同月四日に、駿河国の浅間(せんげん)神社の御神前で申楽能を奉納した。その日の能は殊の外(ほか)華やかであり、貴賤上下の見物人は、皆一様に賞賛したものである。
 およそその頃には、数々の演目を若い者に譲り、楽にできる演目を、少しずつ彩(いろど)りを添えて演じていたが、芸の奥深さはますます見とれるほどであった。これは真に体得した花であるが故に、枝葉である演技の動きは少なくなったが、高齢の老木になっても、「花」は散らずに残っていたのである。これこそ私が目の当たりに見た、老の身にもなお残った「花」の証(あかし)なのである。
解説 『風姿花伝(ふうしかでん)』は、能楽(猿楽・申楽(さるがく))を大成した世阿弥(ぜあみ)(1363~1443)が著した能の芸能理論書で、序章を別にして七篇から成っています。最初の三篇は応永七年(1400)頃までに成立し、その後応永二十五年(1418)までかかって増補改訂されました。世阿弥の子孫の能役者のために、秘伝の書物として書かれたため、公開されたのは明治の末年です。秘本であったからか保存状態がよく、第六・七篇は世阿弥の自筆本が残っています。
 書名の『風姿花伝』は、何とも美しい呼称です。第五篇に、「この芸、その風を継ぐといへども、・・・・その風を得て、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名付く」記されています。「風姿花伝」には色々な解釈が可能であるとは思いますが、この場合の「風」を「芸風」と理解するならば、「伝統の芸風により伝えられる花」と理解しました。次に鍵(かぎ)となるのは、「花」という言葉です。世阿弥には他に『花鏡』という著書もあり、「花」という言葉には思い入れがありました。第七篇「別紙口伝」には、「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり」と記されています。古語の「面白し」は「風情がある」、「めづらし」は「賞賛すべき」という意味ですから、花とは、「風情があり、素晴らしい演技の魅力」と理解してみました。
 『風姿花伝』にはこの「花」について、若い頃の「時分の花」(一時的な花)と「真(まこと)の花」が説かれています。若い時(少年期と青年期)には、若さゆえの鮮やかな演技の魅力があります。これが「花」であり、観客を感動させます。しかしそれは長続きせず、「やがて散る時分」があります。しかし若い頃に絢爛(けんらん)と華やいだ表面の花が枯れたとしても、精進すれば密(ひそ)やかに内面に咲くようになります。この「時分の花」から「真の花」の芸境に至る精進が、芸の道であるというのでしょう。
 『風姿花伝』には、能の修業法から始まり、演技や演出、能の歴史や美しさなどについて叙述されています。あくまでも能楽について述べていますが、「能」を他の芸能に置き換えれば、そのままその芸能の理論書となり、芸能を越えて「道」に置き換えれば、そのまま教育論や人生論にもなります
 世阿弥の父観阿弥は、春日神社を本所とする、結崎(ゆうざき)座に属していました。そして応安七年(1374)に京の今熊野(いまくまの)社に奉納された演技が、第三代将軍足利義満(十七歳)に注目されました。飛び切りの美少年であった世阿弥に対する、義満の寵愛ぶりは尋常ではなく、観阿弥・世阿弥(十二歳)父子はその庇護を受けるようになりました。しかし応永十五年(1408)に義満が没すると、義満を快く思わない将軍が続き、世阿弥の出番は激減します。そして永享六年(1434)には、七二歳で佐渡に流されてしまいます。その後のことは不明だったのですが、近年、奈良県の曹洞宗補厳寺(ふがんじ)(現田原本町(たわらもとちよう))の禅僧竹窓(ちくそう)智厳(ちごん)に帰依し、田畑施入帳に世阿弥夫妻の法名と忌日が確認され、後に故郷の大和国に帰ったことが明らかになりました。
 ここに載せたのは、第一篇「年来稽古(けいこ)条々」の一部で、年齢に応じた稽古の心得が説かれています。まずは七歳の幼年期から稽古を始め、「心のまゝ」に自由にやらせるべきである。十二~十三歳の少年期になると、稚児(ちご)であるというだけで、姿や声がそのまま「花」となるが、それは「時分の花」である。そしてそれに気を取られずに、基本を丁寧に稽古せよ。十七~十八歳になると声が変わり、身体が大きくなる。そのため一時的な花が失われるので、最初の壁に直面する。それで「生涯にかけて能を捨てぬ」と覚悟を決めて稽古しなければならない。ここで諦めると、そのまま芸の上達は止まってしまう。二四~二五歳の青年期になると、芸の要である声と身体が安定し、芸の品位が定まり始める時期である。褒められて舞い上がってしまうことがあるが、これは本人のためにならない。この時期の「花」はまだ「真の花」ではなく、ようやく「初心」の段階である。三四~三五歳は芸の全盛期で、この時期に一流と認められないならば、「真の花」を会得できない。芸の上達はこの頃までであり、四十歳代には芸は衰え始める。四四~四五歳になると、演じ方が変わる。「身の花」(身体的な「花」)も「よそめの花」(観客から見た「花」)も次第に失われる。大切なことは良き助演者を得ることである。若い助演者に「花を持たせ」、身体の衰えを見せるような演技をしてはならないと説きます。そうしてここに載せた五十歳代の、何もしないのに「花」は残っている境地に続くのです。
 五十歳代になると無駄な動きは一切なく、わずかな動きの中に風格が滲み出るような存在になるのでしょう。これは剣道に譬えるとわかりやすいと思います。激しい打撃戦となる全日本選手権大会では、四~五段の壮年の剣士が勝つことが多いのですが、七~八段級の高齢の剣士は、見かけは静かに構えているだけでも、隙がないので、そう易々(やすやす)とは打ち込めないそうです。ただし現在とは平均寿命が違いますから、年齢の数字をそのまま現代に当てはめられません。古来四十歳から十年ごとに長寿の祝いが行われましたから、その頃の五十歳代は、現代ならば七十~八十歳代かもしれません。
 室町文化には、今日の「和風」文化の起原となったものがたくさんあります。能楽・水墨画・書院造・庭園・俳諧・生け花・茶の湯・禅などは、いずれも代表的「和風」文化ですが、どれも動作・色・装飾・植栽・言葉などを極限まで削ぎ落とし、象徴的に美や奥義を表現することが共通しています。能楽ならば、役者の動作、「作り物」(大道具)や能舞台の設(しつら)えを見れば、それは一目瞭然です。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『風姿花伝』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。


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