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現代に残る仏教用語 日本史授業に役立つ小話・小技 62

2024-10-11 14:49:00 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

62、現代に残る仏教用語
 日本史学習では、信仰心の有無にかかわらず仏教について学習します。仏教は儒教(儒学)・神道(古来の日本固有の思想)と共に、日本人の思想・倫理観の根幹を成すものです。三者には千数百年の歴史がありますから、思想だけでなく、文化・風習にも大きな影響を与え続け、日本人ならそれから逃れられる人は一人もいません。それがどれ程のものか、現代に残る仏教用語を探して検証してみました。授業では身近なところからそれらの言葉を再確認させ、仏教的思考や習慣が日本人に深く根付いている事の例として話しています。思い付くままに拾い出しますので、系統的には並ばないことは御容赦下さい。なおわかりやすくするために、その様な仏教用語は【 】で表示します。
 【煩悩】は現世における世俗的欲望のもととなるもの。「子煩悩」なら可愛くてよいのですが・・・。【四苦】は、人である以上避けることの不可能な生老病死の苦悩ですが、他に愛別離苦などの4つの苦しみを加えたものは【四苦八苦】と呼ばれます。【利益】は普通は「りえき」と訓み、収益から費用を引いた金額のことですが、「りやく」と訓めば、仏様からいただく福徳のことを意味しています。【醍醐味】は究極の乳製品である醍醐の味から転じて、至高の境地のこと。【食堂】は「しょくどう」と訓めば、市中にある飲食店や食事のための部屋のことですが、本来は「じきどう」と訓み、寺院にある僧侶が食事をするための堂宇のことです。古い寺で「食堂」の表示を見て、そこで昼食をしようと思って行ってみたら、歴史的文化財だったという経験をした人もいることでしょう。【講堂】とは、一般には学校や官庁などで儀式や講演を行う大きな建物や広い部屋のことですが、本来は寺院で師僧が弟子達に講話をするための堂宇のことです。多くの僧が集まりますから、本尊仏を安置する仏殿より大きく、伽藍の中では最も床面積広いことが多いものです。【不思議・不可思議】は人の思考を超越していること。【自然】は、「しぜん」と訓めばnatureや「おのずから」しいう意味ですが、「じねん」と訓めば「あるがまま」を意味します。『自然真営道』の「自然」はもちろん後者の意味です。そもそも「自然」がnatureという意味を持つようになったのは、明治期のことです。【柔軟】は、「じゅうなん」と訓めば一般的に物事が柔らかいことですが、本来は「にゅうなん」と訓み、身や心が柔らかいことを意味しました。【奈落】は、地獄を意味する梵語の「ナラカ」の音訳で、芝居小屋の舞台下という意味でも使われています。【達磨】は、禅宗の祖の名前と理解されていますが、本来は仏法の真理を意味する梵語の「ダーマ」の音訳で、「法」と意訳されることもあります。【舎利】は遺骨のこと、「仏舎利」は釈迦の遺骨のこと。寿司飯がその形状から「銀舎利」と呼ばれるのは、誰もが知っているでしょう。【無事】とは一般には平穏で何の変わりもないことですが、本来は心に何のわだかまりのないことを意味します。【出世】とは、一般には努力や幸運によって社会的に高い地位を得ることですが、本来は仏が民衆を救うために世間に生まれる事を意味していました。日蓮は法華経こそが「釈迦出世の本懐」を説いた至高の経典であるとして、法華経至上主義に立ちました。【娑婆】は一般には日常的な社会や世間、またそこから転じて刑務所の外の世界を意味していますが、本来は煩悩にまみれたこの世界を意味しています。【因縁】は、一般には前世以来の運命、古くからの関係、物事の由来や理由など、広い意味に使われていますが、言いがかりという意味にも転用されています。本来はある結果を生じさせる内的原因である「因」と、外的原因である「縁」を併せたことを表しています。【檀那】は、本来は「布施」を意味する梵語の「ダーナ」音訳で、江戸時代には宗門改により特定の寺に属している人、特に寺を支援する人を指していましたが、奉公人がその主人を、また女妻が夫を呼ぶ場合に使われるようになりました。【乞食】は現在では差別用語として言葉狩りの対象になってしまいましたが、本来は「こつじき」と訓み、僧侶が托鉢をすることです。【愛】は、現在では性的欲情や、倫理的・宗教的に昇華された心の有り様を意味していますが、それは「愛」には慈しむという意味もあったため、聖書が漢訳される時に「愛」という漢字で表現してしまったからです。本来はものに執着することを意味していて、全く異なる意味の言葉でした。
 探せばまだまだ数え切れない程あるのでしょうが、長くなりますのでこの辺りで止めておきましょう。ついでのことに誤用を一つ紹介します。それは「修行」と「修業」の区別です。「行」とは、行者・勤行・苦行という言葉でわかるように悟りに至るための行為を、「業」とは技術や職業を意味しています。ですから宗教的行為以外で「修行」という言葉を使うことは正しくありません。「修業」はある特定のスキルを習得するための行為ですが、花嫁修業や板前修業のように用います。ただ剣術修業のように精神的高い境地を目指している場合は、意図して修行という言葉を用いることは有り得るでしょう。「修行」と「修業」の区別は、NHKや新聞などのマスコミでもしばしば曖昧になっています。