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和製漢語 日本史授業に役立つ小話・小技 64

2024-10-30 08:20:21 | 私の授業
64、和製漢語
「漢字」という言葉が示すように、漢字は中国伝来の文字です。もちろん和製漢字もあるにはありますが、漢字全体の中では、その割合は多くはありません。ところが、漢字熟語、つまり漢語となると、話は全く異なります。漢字を用いていても、日本で新たに作られた和製漢語は極めて多く、これらがなかったならば、現代日本人は思考そのものが不可能なのです。和製漢語は長い歴史の中で少しずつ増えていますが、明治維新期に欧米の科学技術や思想を摂取するため、西周・福沢諭吉等の啓蒙思想家や学者により、実に膨大な数の和製漢語が創造されました。そしてそれらは現代の生活には欠かせないものとなっているため、どれが新しい和製漢語なのか、そうではなくて中国由来の本来の漢語なのか、全く区別が付かなくなっています。
 中国でも遅ればせながら近代化のために新漢語が作られましたが、その分野では日本が先行していたため、新たに作るよりも和製漢語を借用する方が手っ取り早く、多くの和製漢語を受け容れました。中国で作られた新漢語が淘汰され、和製漢語に置き換えられたことについては、日本語が中国語より造語に適していたことが理由の一つです。
 基本的に漢字というものは、1字ごとに意味があるので、新しい漢字を作ることには向いていません。ですから欧米の文物を中国語で表そうとすると、音訳せざるを得なくなります。例えば英語の「telephone」を中国人は「徳律風」と訳していました。日本人は「電話」と訳したので、初めのうちは中国では両方使われていました。しかしどちらが使いやすいかは一目瞭然です。結局、「徳律風」は淘汰され、「電話」が生き残ったのです。
 それに対して日本語は、漢字の組み合わせによって、新たな漢語に新たな意味を持たせることに適しています。「科学」「哲学」「郵便」「野球」などはその例です。また近年では「~性」「 ~制」「~的」「~法」「~力」「超~」など、接尾語や接頭語のように用いて、新しい概念を融通無碍に創作できています。また言葉そのものは古くからの漢語であるのに、新しい意味を付与して転用したり再生した漢語も、広い意味では和製漢語と言うことができ、「自由」「観念」「福祉」「革命」などの例があります。
 日清戦争後、数え切れない程の中国人が日本に留学してきました。そして彼等により実に多くの和製漢語が中国に伝えられました。日清戦争後は、中国は列強によってその主権が蚕食されていましたから、時間的にも経費の面でも、日本に留学生を派遣して摂取する方が早道でしたし、同じ漢字の国でしたから、文化的にも障壁は低かったことでしょう。つまり、清は日本語を媒介して西洋の科学技術や思想を取り入れた部分が大きかったのです。その結果、社会科学と自然科学のあらゆる分野の訳語では、和製漢語が 70%を占めるということが研究の結果明らかになっているのです。ですから中国人は和製漢語がなかったら、思索そのものが不可能なのですが、そのことを知っている中国人はどれ程いるでしょうか。恐らく知らないでしょうし、もし知ったら愕然とすることでしょう。
 因みに「中華人民共和国」という国名は、中華・人民・共和国の3語から成っていますが、人民と共和国は、和製漢語です。在日中国人の友人が、もちろん冗談半分で「日本は中国から文字を学んだのだから、もっと感謝しなさい」と言うので、「あなたの国の国名は、三分の二が日本語だよ。もっと感謝しなさい」とやり返し、友人同士で仲良く喧嘩をしたことです。
 和製漢語が全て中国語に採り入れられているわけではありませんが、日常的に日本で使われている和製漢語をあげてみましょう。あまりに数が多いので、重複を避けるためにあいうえお順に並べたことは御容赦下さい。
意志、意識、意味、入口、右翼、運動、鉛筆、階級、会話、改善、科学、化学、革命、関係、慣行、感性、簡単<幹部、企業、喜劇、客観、共産、恐竜、共和、銀行、空間、組合、経験、警察、経済、景気、系統、化粧品、健康、原子、広告、国際、固体、固定資産、根本的、財政、財閥、財務、材料、左翼、時間、思想、市場、自転車、質量、失恋支配、資本、資本主義、社会、社会主義、宗教、住所、出席、柔道、主観、出版、自由、処刑、上告、初歩処方、承認、抽象、進化、人格、人選、人文主義、信用、政治、政党、政策、接吻、煎茶、倉庫、出口、哲学、電気、電話、投資、図書館、肉彈、日程、入超、入場券、任命、熱帶、背景、舶来、派出所、悲劇、美術、必要、表情、表現、病院、病理学、日和見主義、不動産、不景気、物理学、文化、文学、分子、分配、文明、弁護士、便所、弁当、法律、簿記学、保健、保険、保障、保証、保釈、抹茶、漫画、味噌、民主、民族、目的、野球、野蛮、唯物論、溶体、溶媒、理性、理想、理論、旅行、歴史、労働力
 未だ探せばあるのですが、余りに多く、この辺で止めておきます。これらの和製漢語を学習すれば、主に明治初期の西欧思想や学術の受容が、どれ程日本の近代化に寄与したか理解できるでしょう。また明治期に限らず、古来、日本が外来文化受容と消化に独特の特性を持っていることを再確認できることでしょう。  
ただし現在では余り使われなくなったり、日本とは異なる意味で使われている言葉もあります。

明朝体と原稿用紙 日本史授業に役立つ小話・小技 63

2024-10-17 17:34:39 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

63、明朝体と原稿用紙
 印刷物に用いられる文字の書体には明朝体が多く、日常的にパソコンを使用している生徒で、明朝体を知らない高校生はまずいません。明朝体の特徴は、横画は細く、その末尾には毛筆の楷書のような筆を止めたような三角の突起があります。また縦画は太いため、横画が多い漢字も無理なく識別できます。そして縦画と横画は直交することが多いため、一字一字を正方形の枠内に収めることができ、活字印刷用の書体として適していました。現在、さすがに活字印刷はもう行われていませんが、その利便性はなお有効であり、日常生活の中で広く用いられています。ところがなぜ明朝というのか、その理由を説明できる生徒は極めて少ないものでした。生徒にとっては「明るい朝の体操」なのかもしれません。
 江戸時代初期、長崎ではオランダと明(後には清)が貿易を許され、長崎には多くの中国人が居留していました。そして承応三年(1654)、彼等の度重なる招聘に応えて、明の禅僧隠元隆琦が崇福寺の住職として来日し、黄檗宗を伝えます。隠元自身は3年で帰国するつもりだったようですが、周囲がそれを許しません。4代将軍徳川家綱は山城国の宇治に寺領を寄進し、中国にあった黄檗山万福寺と同じ名前の禅院を創開。そしてついに隠元は帰国を断念せざるを得ない状況になったのです。
 この隠元の弟子に、鉄眼道光という日本人僧侶がいました。彼は寛文四年(1664)、一切経(大蔵経)全巻の開版を志しました。一切経とは、簡単に言えば仏教の経典の大全集のことで、一人の人間が一生掛かっても読み切れない程の量があります。彼は数々の苦難を乗り越えて、ついに延宝六年(1678)に完成させました。読むだけでも大変ですのに、それを版木に彫って印刷するという、途方もない大事業です。大蔵経は室町時代には朝鮮から輸入されていたのですが、余程の財力がなければ入手できませんから、国内で出版できるとなれば、需要はあったのでしょう。版木はそれぞれが26㎝×82㎝×1.8㎝の大きさで、総計約6万枚に及ぶそうです。版木は桜材で、節のないこの大きさの板を採れる桜の木が何本必要であったか。桜の名所の吉野に近かったことは、材料を得やすかったとはいえ、それにしても9年の歳月を要する大事業だったのです。これらの版木は「鉄眼版」と呼ばれ、現在は万福寺の塔頭である宝蔵院に6万枚が伝えられています。そして驚くべき事に、今なお刷り立てが行われているのです。
版木には、見開き2ページで左右にそれぞれ10行、1行に20字が彫られているのですが、これが原稿用紙の書式の原点であり、そしてその書体こそが隠元が明から伝えた書体、即ち明朝体なのです。生徒は冗談を承知で、「明るい朝の体操」などと、わけのわからぬ説明をしていました。そしてこの版木で摺られる紙の大きさなのですが、江戸時代に美濃判と呼ばれた紙の大きさで、9寸×1尺3寸(273×393㎜)となっています。これはB4判(257×364㎜)より一回り大きなサイズになっています。これには思い当たることがありました。江戸時代の和本を入手し、生徒に回覧するためにコピーすると、B4判がほぼちかい大きさになるので、不思議なこともあるものだと思っていました。よくよく調べてみると、B判の規格には国際規格(ISO B列)と日本独自の規格(JIS B列)があるそうで、JIS B列は日本独自の規格に基づいて定められたそうで、なる程と納得したものでした。
 私の授業では、日常生活の中に残る歴史の痕跡について意図して触れるのですが、明朝体と400字詰め原稿用紙の話は、よく生徒の記憶に残るようで、年度末に書かせる授業の感想には、よく登場しています。

現代に残る仏教用語 日本史授業に役立つ小話・小技 62

2024-10-11 14:49:00 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

62、現代に残る仏教用語
 日本史学習では、信仰心の有無にかかわらず仏教について学習します。仏教は儒教(儒学)・神道(古来の日本固有の思想)と共に、日本人の思想・倫理観の根幹を成すものです。三者には千数百年の歴史がありますから、思想だけでなく、文化・風習にも大きな影響を与え続け、日本人ならそれから逃れられる人は一人もいません。それがどれ程のものか、現代に残る仏教用語を探して検証してみました。授業では身近なところからそれらの言葉を再確認させ、仏教的思考や習慣が日本人に深く根付いている事の例として話しています。思い付くままに拾い出しますので、系統的には並ばないことは御容赦下さい。なおわかりやすくするために、その様な仏教用語は【 】で表示します。
 【煩悩】は現世における世俗的欲望のもととなるもの。「子煩悩」なら可愛くてよいのですが・・・。【四苦】は、人である以上避けることの不可能な生老病死の苦悩ですが、他に愛別離苦などの4つの苦しみを加えたものは【四苦八苦】と呼ばれます。【利益】は普通は「りえき」と訓み、収益から費用を引いた金額のことですが、「りやく」と訓めば、仏様からいただく福徳のことを意味しています。【醍醐味】は究極の乳製品である醍醐の味から転じて、至高の境地のこと。【食堂】は「しょくどう」と訓めば、市中にある飲食店や食事のための部屋のことですが、本来は「じきどう」と訓み、寺院にある僧侶が食事をするための堂宇のことです。古い寺で「食堂」の表示を見て、そこで昼食をしようと思って行ってみたら、歴史的文化財だったという経験をした人もいることでしょう。【講堂】とは、一般には学校や官庁などで儀式や講演を行う大きな建物や広い部屋のことですが、本来は寺院で師僧が弟子達に講話をするための堂宇のことです。多くの僧が集まりますから、本尊仏を安置する仏殿より大きく、伽藍の中では最も床面積広いことが多いものです。【不思議・不可思議】は人の思考を超越していること。【自然】は、「しぜん」と訓めばnatureや「おのずから」しいう意味ですが、「じねん」と訓めば「あるがまま」を意味します。『自然真営道』の「自然」はもちろん後者の意味です。そもそも「自然」がnatureという意味を持つようになったのは、明治期のことです。【柔軟】は、「じゅうなん」と訓めば一般的に物事が柔らかいことですが、本来は「にゅうなん」と訓み、身や心が柔らかいことを意味しました。【奈落】は、地獄を意味する梵語の「ナラカ」の音訳で、芝居小屋の舞台下という意味でも使われています。【達磨】は、禅宗の祖の名前と理解されていますが、本来は仏法の真理を意味する梵語の「ダーマ」の音訳で、「法」と意訳されることもあります。【舎利】は遺骨のこと、「仏舎利」は釈迦の遺骨のこと。寿司飯がその形状から「銀舎利」と呼ばれるのは、誰もが知っているでしょう。【無事】とは一般には平穏で何の変わりもないことですが、本来は心に何のわだかまりのないことを意味します。【出世】とは、一般には努力や幸運によって社会的に高い地位を得ることですが、本来は仏が民衆を救うために世間に生まれる事を意味していました。日蓮は法華経こそが「釈迦出世の本懐」を説いた至高の経典であるとして、法華経至上主義に立ちました。【娑婆】は一般には日常的な社会や世間、またそこから転じて刑務所の外の世界を意味していますが、本来は煩悩にまみれたこの世界を意味しています。【因縁】は、一般には前世以来の運命、古くからの関係、物事の由来や理由など、広い意味に使われていますが、言いがかりという意味にも転用されています。本来はある結果を生じさせる内的原因である「因」と、外的原因である「縁」を併せたことを表しています。【檀那】は、本来は「布施」を意味する梵語の「ダーナ」音訳で、江戸時代には宗門改により特定の寺に属している人、特に寺を支援する人を指していましたが、奉公人がその主人を、また女妻が夫を呼ぶ場合に使われるようになりました。【乞食】は現在では差別用語として言葉狩りの対象になってしまいましたが、本来は「こつじき」と訓み、僧侶が托鉢をすることです。【愛】は、現在では性的欲情や、倫理的・宗教的に昇華された心の有り様を意味していますが、それは「愛」には慈しむという意味もあったため、聖書が漢訳される時に「愛」という漢字で表現してしまったからです。本来はものに執着することを意味していて、全く異なる意味の言葉でした。
 探せばまだまだ数え切れない程あるのでしょうが、長くなりますのでこの辺りで止めておきましょう。ついでのことに誤用を一つ紹介します。それは「修行」と「修業」の区別です。「行」とは、行者・勤行・苦行という言葉でわかるように悟りに至るための行為を、「業」とは技術や職業を意味しています。ですから宗教的行為以外で「修行」という言葉を使うことは正しくありません。「修業」はある特定のスキルを習得するための行為ですが、花嫁修業や板前修業のように用います。ただ剣術修業のように精神的高い境地を目指している場合は、意図して修行という言葉を用いることは有り得るでしょう。「修行」と「修業」の区別は、NHKや新聞などのマスコミでもしばしば曖昧になっています。


鏡を作る 日本史授業に役立つ小話・小技 61

2024-10-05 09:01:43 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

61、鏡を作る
 卑弥呼や古墳文化の学習では鏡について必ず触れるのですが、図説資料集に載せられている鏡の写真は、例外なしに模様のある裏面(表面?)だけです。生徒にしてみれば、鏡というからにはどの程度映ったのかが気になるのでしょう。反対の面はどうなっているのかとよく質問されますが、緑青色の錆で覆われていて何も映りません。それなら当時はどの程度映っていたのかを知りたくなるのは自然なことでしょう。そこで庭先で青銅鏡を作ってみました。
 ただしそう簡単にはいきません。青銅鏡の原材料である錫の融点は232度ですから、卓上コンロでも簡単に融解するのですが、銅の融解温度は1083(1085?)度もあるからです。ところが融解した錫に銅を投入すると、875度で合金ができるのだそうです。物理化学が不得手な私にはその理由を説明できないのですが、刀鍛冶の知人に教えてもらいました。それなら何とかなりそうだと思い、坩堝(るつぼ)・七輪・木炭・コークス・鋳型とする鉄製の皿とふいご代わりのドライヤーを用意し、何とか直径5㎝の青銅製品ができました。錫と銅の比率は、論文を参考にして20%にしました。5%のものも作ってみましたが、黄金色になり、銅鐸としてはよくても、鏡にはならないと思いました。錫の割合が多い程割れやすく、少ない程展延性があることは、いくつか作っているうちに体験できました。後はひたすら砥石で表面を研磨しただけです。もちろんレリーフ状の模様などはなく、ただ鮮明に映るだけなのですが、結果は十分に満足できるものでした。限り無く細かい研磨材を使用すれば、ガラスの鏡には及びませんが、それに近いレベルまでにはなりました。
  こういう体験談を紹介すると、「物作りの好きな人にはできるかも知れないが、私にはとてもできない」と思われることはわかっています。そこで誰でもできる鏡もどきの作り方を御紹介しましょう。近くに鉄工所があれば、丸い鉄板をプレスで打ち抜いてもらいます。工業高校の先生に知り合いがいれば、頼んでもよいでしょう。それもできなければ、100円ショップで丸いケーキを作る型を買えばよいのです。それは多分ステンレス製ですが、青銅の鏡とほとんど見た目は同じです。それを研磨材で磨くのですが、まずは粒度の粗い紙やすりである程度磨きます。紙やすりなら粒度2000番までありますが、それでは不十分で、それから先は粒度3000~5000番くらいまで細かくすれば完璧です。使い方はホームセンターの店員に相談するとよいでしょう。卑弥呼が100枚の銅鏡を贈られたこと、前期の古墳に鏡などの呪術的な物が副葬されたことなどに関連して、役立つことでしょう。
 北畠親房が著した『神皇正統記』の冒頭に近い部分で、鏡について次の様に述べられています。「鏡は一物をたくはへず。私の心なくして万象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源也」。現代語に直せば、「鏡というものは、(自分自身のために)何一つ貯えることがない。私心なく全ての事を照らし映すならば、正しいことと誤っていること、善いことと悪いことなど、物事の本当の姿が現れないということはない。そのものの姿にそのまま感応することが鏡の徳であり、これが正直の根原である」という意味です。もっと短く表現すれば、「清明心」でしょうか。これは「きよきあかき心」と訓み、古来理想的な心の有り様とされていました。卑弥呼がそのように感じたかどうかはわかりませんが、少なくとも『古事記』の神話からはその様に理解できます。 授業ではそこまで話せなくとも、私は次の様に話しています。「いいかい、君たちは鏡を見たことがないと思いなさい。だから自分がどんな顔なのか知らないとしましょう。そして初めて鏡を見たとします。その時の驚きを想像してご覧なさい。鏡が神聖で権威あるものとして扱われたことが、理屈抜きに感じられることでしょう」と。

蟻ときりぎりす 日本史授業に役立つ小話・小技 60

2024-10-01 15:30:19 | 私の授業

60、蟻ときりぎりす
 前回、キリシタン版『平家物語』についてお話したついでに、キリシタン版のイソップ物語(ESOPO NO
FABVLAS、エソポのハァブラス)についての小話を一つ。「蟻ときりぎりす」の話は、イソップ寓話の一つとしてよく知られています。目先の快楽に耽るきりぎりすと、日頃から勤勉に働く蟻を対比させ、予測される困難に備えるべきことを説く話は、小学生にもよく理解できます。イソップ寓話が初めて日本に伝えられたのは、実はキリシタン版によるものでした。低俗な話は排除されていますから、信仰的な内容ではなくても、西洋の倫理観を教えるためのテキストとしようという意図があるのでしょう。この蟻の話も収められているのですが、「蟻ときりぎりす」ではなく、「蟻と蝉」となっていて、蝉をきりぎりすに置き替えれば、
よく知られている「蟻ときりぎりす」と粗筋は同じです。いったいどうなっているのでしょうか。
 日本に伝えられたイソップ寓話には、大きく分けて三つの系統があります。まず一つ目は、宣教師によって伝えられたキリシタン版です。もともと部数は少なかったでしょうが、江戸時代末期のイギリス外交官アーネスト・サトーが発見し、本国に持ち帰ったので、世界でたった一冊、大英図書館に現存しています。日本にないのは残念ですが、彼が発見しなかったら現存しないでしょうから、感謝しなければなりません。二つ目はキリシタン版とは別系統で、江戸時代初期の慶長年間に『伊曾保物語』と題して木活字で出版されたもので、ここでは「蟻と蝉の事」となっています。その他には、「京といなかのねずみの事」「獅子王とねずみの事」「かはづが主君を望む事」「烏と孔雀(くじゃく)の事」「鳩と蟻の事」「ねずみども談合の事」など、現在でもよく知られた話が収められています。そして明治初期に、英訳本から翻訳された『伊蘇普物語』が出版されました。これには「兎と亀の話」「獅子と鼠の事」のように、教科書や童謡に採用された話もあり、広く流布しました。そしてこの『伊蘇普物語』では、「蟻と螽」となっているのです。
「螽」は「いなご」と訓むのですが、確か「きりぎりす」とルビが振られていたはずです。蝉がきりぎりすになってしまった理由は単純なことで、北欧には蝉が生息していないため、きりぎりすやいなごに替えられてしまったからです。
 人から聞いた話ですが、日本に観光に来る北欧の外国人は、蝉の鳴き声を聞いたことがないので、夏の蝉時雨に驚き、騒音として感じてしまうそうです。日本人なら「静かさや 岩にしみ入る 蝉の声」を理解する感性を持ち合わせているのですが、西洋人にはそうではないとのことです。直接に外国人から聞いた話ではないので、憶測で言うのはよくないことですから、いつか尋ねてみたいものです。この小話は、日本史の授業では本筋から外れてしまいますが、生徒の感想では、大いに関心を持ってくれました。

 ついでのことに蛇に足を一本書き足しておきましょう。平安時代にはコオロギのことを「きりぎりす」と呼んでいました。江戸時代には、芭蕉の俳諧に、「きりぎりす忘れ音に鳴くこたつかな」という句があるように、コオロギをまだ「きりぎりす」と呼んでいます。ところが賀茂真淵の歌を集めた『八十浦之玉』(やそうらのたま)には、「我が如く妻恋ふるかも蟋蟀(こほろぎ)のころころとしもよもすがら鳴く」という歌がある様に、明らかにコオロギを「こおろぎ」と呼んでいるのです。また十八世紀はじめの百科事典ともいうべき『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)では、現在と同じ様に説明されています。つまり現在のコオロギは、江戸時代のはじめには「きりぎりす」と呼ばれていましたが、十八世紀のうちには、次第に「こほろぎ」と呼ばれるようになったのです。