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「庭の千草」の秘密

2013-12-16 14:05:36 | 唱歌
 立冬も過ぎ、庭に咲く花が急に少なくなる頃、赤紫色に移ろいながらも健気に咲いている白菊の花を見ていると、唱歌『庭の千草』がふと思い起こされます。明治十七年に『小学唱歌集』の第三編に載せられた古い歌なのですが、今も多くの人に歌い継がれている名曲です。このことは『庭の千草』の情趣が、時の移ろいを超えて、現代の日本人の感性に訴えるものを持っているということなのでしょう。しかしその歌詞に込められた作詞者の意図を理解している人は極めて少なく、誤解されたまま歌われているのが残念でなりません。一般には、冬枯れの庭に咲き残る白菊を歌ったものと思われていて、表面的にはそれに違いありません。しかし実は、伴侶に先立たれて残された人が、健気に生きる姿を歌ったものなのです。そんな歌を小学唱歌として歌わせるはずがないと言われそうですが、まずは歌詞を見てみましょう。

 一、庭の千草もむしのねも  かれてさびしくなりにけり あゝしらぎく嗚呼白菊  ひとりおくれてさきにけり

 二、露にたわむや菊の花   しもにおごるやきくの花  あゝあはれあはれあゝ白菊  人のみさをもかくてこそ

 菊を歌っていますので、よく秋の歌に分類されていますが、それは明らかに誤りで、初冬の庭に咲き残る白菊のあわれを歌ったものです。「おごる」「みさを」など難しい言葉もありますが、全体としてはそれ程難解な歌詞ではなく、意味はだいたい理解できることでしょう。しかし表面的な自然描写の背後に、実は人の心情描写が隠されていることに気付いている人は少ないのです。古来の和歌には、同音異義語・掛詞や比喩などの修辞法を用いて、表面では自然を描写しながら、裏面では人の心を描写する重複構造になっている歌が極めて多いのです。例えば、木の葉が紅葉するのは、実は紅葉そのものを詠んでいるのではなく、木の葉(このは)ならぬ言の葉(ことのは)が色変わりして、恋人の心変わりを嘆く内容であったりする。また雨が降ることは泣いていることであり、霞や霧がかかるのは心が隔てられていることであり、穂が出ることは本心が現れることであったりするのです。心情を直接的に露骨に表現するのではなく、何か自然の物に託したり喩えたりして、間接的に奥ゆかしく表現する。このような大和歌独特の重複構造を読み解かなければ、その歌を本当に理解することは出来ません。現代短歌ではそのような技法は手垢の付いた下らぬ技巧として退けられてしまうので、せっかく奥深い意味があるのに、それに気付かないのです。
 この『庭の千草』にも、そのような重複構造が隠されています。その鍵になるのは、まずは「かれて」という言葉です。素直に漢字を当てれば「枯れて」なのですが、同音異義語の「離れて」(かれて)の意味が隠されています。もし信じられないというなら、古語辞典を検索してみて下さい。古語の「離る」は「かる」と読み、遠ざかるとか、心が離れることを意味しています。百人一首におさめられている「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」の「かれ」はまさにこのよい例で、人目も「離れ」草も「枯れ」た寂しさを訴えている歌なのです。「かれて」を敢えて平仮名で表記することには、もちろん漢字が目立つと見た目の印象も堅くなり、小学生には読みにくいという配慮もあるでしょうが、「枯」と「離」を掛けているため、どちらの意味にもとれるように、意図して漢字を避けるねらいもあるのでしょう。そうですから、「かれてさびしくなりにけり」という歌詞は、春から秋の間は多くの花が咲き、虫も花に誘われて集まるように、多くの人達と共に楽しく過ごしていたものを、晩秋から冬になると、花は枯れ、虫も死に絶えるように、一人去り、二人欠け、ついには独りぼっちになってしまったことを表しているのです。
 次に鍵になる言葉は、「おくれて」です。これも素直に漢字を当てれば「遅れて」でしょう。実際に多くの歌詞情報がそのように表記されています。現在では促成栽培が自由にできるようになり、冬に花咲く外来の花も多く、一年中花の絶える時期がありません。しかし古には、菊がその年最後の花と理解されていました。「目も離(か)れず見つつ暮らさむ白菊の花より後の花しなければ」(後拾遺和歌集 三四九)(「花し」の「し」は強調)の歌は、そのことをよく表しています。ですから、白菊だけが遅い時期まで咲いていると歌詞に詠まれるのももっともなのです。しかし「おくれて」には「後れて」という意味が隠されています。古語の「後る」(おくる)には、死に後れて残されるという意味があります。ですから、白菊の花は、愛する者が先に死んでしまい、独り寂しくしている人の比喩なのです。
 この「後れて」の意味がわかってこそ、二番の歌詞もよく理解できるというものです。古来、「露」は涙の比喩でした。独り残された寂しさの故に、白菊は涙に濡れてうなだれるのです。「霜」は人生の艱難の比喩でしょう。「おごる」には、「驕り高ぶる」という意味の「驕る」「奢る」ではなく、「傲る」という漢字が当てられます。「傲る」とは、相手に負けずに堂々としていることを意味しています。「傲霜」(ごうそう)、つまり「霜に傲る」とは、霜に屈しないこと、転じて強く正しく、凶暴なものでも恐れたり屈しない人の比喩なのです。
 また霜にも屈しないという意味で、菊を形容する慣用的表現として、しばしば菊の漢詩に好んで詠まれる言葉です。また古歌にも霜に負けずに咲く白菊の花が詠まれています。「草枯れの冬まで見よと露霜の置きて残せる白菊の花」(詞花和歌集 一二九)。近くは、童謡『野菊』に「霜がおりても負けないで」という歌詞があることでも明らかなように、「菊は霜にも負けずに咲く」という理解が、かつては古くから一般に共有されていたのです。
 そうすれば、「人のみさをもかくてこそ」の意味も明白でしょう。「みさを」は「操」で、心変わりしないで志を堅く守ること。転じて一人の伴侶を愛し続けることを意味しています。「かくて」は「このように」、「こそ」は強調で、「かくてこそあれ」となるべきところ、「あれ」が省略されているのでしょう。
 秋も往き、冬の寒さが次第にいやまさる頃、かつて庭に共に咲いていた草花は、みな枯れ果ててしまいました。しかし愛する伴侶に先立たれてしまった白菊の花は、まだ独り咲き残っています。かつては美しかったその容貌も、長い年月を経て見る影もなく衰えてしまいました。共に咲いた日々を思い起こしては、涙にむせんでうなだれます。友の励ましや労りも嬉しくないわけではありませんが、溢れる涙を堰くことはできません。しかし厳しい冬の夜の艱難には、毅然として立ち向かい、最後の力を振り絞って凛として咲く。そうして大切にしてくれた伴侶の愛に応えるのです。その姿は何と健気なことでしょうか。
 ここまでお話すると、深読みしすぎではないかとよく言われます。しかし以上のような理解が私の独断でないことは、『庭の千草』の原詩である『夏の最後の薔薇』の歌詞と見比べてみれば、一目瞭然です。この歌はアイルランドの国民的詩人トマス・ムーアの詩『The Last Rose of Summer 』に、ジョン・スティーブンソンが作曲したということです。私の英語力不足のため、自分では正確には和訳しきれません。英語の歌詞やその和訳は皆さんで検索してもらうこととして、作詞者は最後に一輪だけ残された薔薇に呼びかけます。「寂しい薔薇よ、仲間が永遠の眠りに就いている花壇に、おまえを散らしてあげよう。そして共に眠るがよい。そして私もその後に続くだろう。愛する者達がいないこの寂しい世界に、誰が独りで生きてゆけようか」と。要するに、最後に咲き残っている薔薇になぞらえて、孤独な晩年の寂しさを歌っているのです。
 『庭の千草』の作詞者里見義は、当然のことながら原詩を読んでいます。そしてそれに感動したからこそ、日本語に翻案したのです。赤薔薇は日本風に白菊となりました。しかし原詩では孤独な晩年の懐旧の情と厭世感が色濃く漂っているのに対して、訳詞では健気な生き様が表現されている点で、少し印象が異なっています。しかし異なってはいますが、晩年の孤独という点では共通しています。訳詞者は薔薇の花の美しさ、最後の薔薇の寂しさそのものに感動したわけではありません。薔薇はあくまでも象徴に過ぎません。同じように白菊も象徴です。象徴である以上、象徴されている本質に触れなければ、真にこの歌を理解したことにはならないではありませんか。いかがですか。私の理解が、決して独断ではないことをご理解いただけたものと思います。歌詞が「遅れて」と表記されている場合は、この歌の真実が理解されていない可能性があるのです。やはり「おくれて」と平仮名で書くのがよいのでしょう。
 見逃してしまいがちですが、「さびしくなりにけり」「さきにけり」の「けり」という言葉にも注目したいものです。この「けり」は詠嘆の助動詞で、それまで気が付かなかったことに初めて気が付いた感動を表す言葉なのです。白菊だけが取り残されるようにして咲いていることに、ある日はっと気が付いて、「そうだったのか」と驚いているのです。また「あはれ」は「かわいそう」という意味の「あはれ」ではありません。本居宣長が「もののあはれ」とよんだ「あはれ」という言葉は、あるものに接したとき、自ずから湧いてくるしみじみとした情趣のことです。霜に負けずに凛として咲き残っている白菊を見たときに、思わず理屈抜きに心に迫ってくるものがあるというのです。
 もう一つ、常々不審に思っていることがあります。それは歌の題のことです。現在は『庭の千草』で知られていますが、訳詞者が付けた原題は『菊』でした。歌い出しが「庭の千草」であるため、いつの頃からかそうなってしまったのでしょうが、よくよく読んでみれば主題は白菊です。「庭の千草」は題には相応しくありません。私なら、咲き残った菊を表す優雅な大和言葉である「残んの菊」(のこんのきく)としたいところ。「ざんぎく」では響きがよくありません。せめて元の「菊」に戻したいものです。
 私は古い和歌の歳時記を専門に勉強していますが、霜に負けずに咲き残る白菊のことを知るに及んで、私は庭に枯れ残る菊をなかなか整理できなくなってしまいました。もちろん新年を迎えるために年内には整理はするのですが。白菊は、霜に当たると赤紫に色が移ろいます。古人はそれを一年に再び咲くとか、色がまさるといって愛でたものです。それも一つの風情ではあります。しかし衰えゆく過程ですから、瑞々しい美しさではありません。しかし試みに菊の花の香りを嗅いでみてごらんなさい。その香りの何と香しいことか。色は衰えたりといえども、香りは全く衰えていないことに驚かされることでしょう。
 これを人に当てはめるならば、「色」とは見えるものですから、表面的な美しさのことです。若いときには「色」の美しさが人目をひきます。それに対して「香」は目には見えない美しさ、つまり品格・人格と言いましょうか、内面から滲み出てくる美しさのことです。「色」は歳を重ねるにつれて衰えるもの。しかし「香」は絶えず磨き続けさえすれば、歳を重ねても決して衰えることはないのです。私の人生もそう長くはないことでしょう。今は夫婦そろっていますが、いずれどちらかが先に逝きます。その時、残された方はこの『菊』の歌を歌いつつ、凛として健気に生きられるよう、霜枯れの白菊を見るにつけしみじみと思うのです。私は書斎に「無尽堂」と名付け、銘木の板に揮毫して掲げてあるのですが、もし私が先に逝ったら、我が家を「傲霜庵」(ごうそうあん)と呼ぶようにと家内に話し、板の裏面にもう書いて用意してあります。
 それにしても『庭の千草』の本当の意味は、なぜ知られていないのでしょうか。それは同音異義語の掛詞などによる大和歌の重複構造を、現代短歌がつまらぬ技巧として切り捨ててしまったため、隠された意味に触れることがなくなってしまったからであろうと思っています。古歌ではしばしば見受けることなのですが、現代短歌にはまず見当たりません。この歌の重複構造については、明治期の教育を受けた文化人なら、誰もが理解できることでしたから、わざわざ説明する必要もなかったのでしょう。私はたまたま王朝和歌の研究を趣味にしているので、誰に説明されなくとも自然に理解できました。この歌の秘密を知ったならば、どれ程多くの高齢者の方が、わけても伴侶に先立たれて寂しくしている方が、励まされることでしょう。私も高齢者の一人ですが、この歌一つを持って高齢者の施設を訪ねてみたいと思っています。全国には懐かしい童謡や唱歌を歌う会がたくさんあることでしょう。そのようなところで紹介されることを切に願っています。
 おそらく訳詞者が参考にしたと思われる和歌が、『夫木和歌抄』に伝えられているので、ご紹介しておきましょう。「秋暮れて千草の花も残らねど独り移ろふ霜枯れの菊」(夫木和歌抄 残菊 六五一一)。併せて、夫に先立たれて寂しくしている女性を励ますために、私が詠んで贈った歌二首。「露に泣き霜に傲りて移ろへど籬(まがき)の菊の香ぞあらたなる」「年を経てうつろひゆくぞあはれなる人に後るる庭の白菊」(「籬」とは、柴や竹で粗く編んだ垣根)。
 You Tubeで「夏の最後の薔薇」と検索すると、何人かの歌手の歌声を聞くことが出来ます。また「庭の千草」でも同様です。私はHayley Westenraの歌声が好きです。日本人歌手の「庭の千草」も悪くはないのですが、おそらくはこの歌の本当の意味を理解して歌っているのではないのでしょう。歌い方が早すぎたり少し軽いような感じがします。その点で、Hayleyが歌う「夏の最後の薔薇」は、晩年の寂しさを歌っているだけあって、心に染み渡るように感じます。まあプロの歌手には及びませんが、残される日々、寂しく辛いときには、冬枯れの白菊を思いながら、自らを励まして口ずさんでいただきたいものです。もしこれをお読みになって御感想でもあればお聞かせ下さい。


最近この拙文を読んで下さる方が少しいらっしゃるようですが、まだまだ歌の本当の意味は知られていません。どうぞ多くの高齢者の方に御紹介下さい。きっと生きる勇気をもらえると思いますので、拡散をお願いします。私があちこちでお話ししてとても間に合いませんので。感想をお聞かせ下さるととても嬉しいです。  

5 コメント

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「庭の千草」の秘密を読んで (中尾宏幸)
2023-06-17 19:59:53
10年前に書かれた記事へのコメントとなり恐縮です。
のどに衰えを感じるようになり、先月から市民講座のコーラスのクラスで歌うようになりましたが、そこで取り上げられた「庭の千草」の歌詞の意味を深く知ろうと調べたところ、こちらのBlogに行き当たりました。人の心情描写の重複構造や掛け詞など丁寧に細かく解説されていて大いに勉強させていただきました。一昨年冬に妻に先立たれて、まさに自分自身の心情そのもののように感じます。コーラスのクラスは高齢者ばかりなので、次回にでも歌詞の意味するところを紹介しようと思います。ありがとうございました。
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Unknown (木澤洋子)
2023-06-23 23:33:37
高齢者の市民講座から発生したグループで「庭の千草」をフランス語で歌うことになりました。
訳の分からないフランス語より以前から格調高い日本語の歌詞が大好きだったので、この際本格的に歌詞を調べようとこちらのブログに辿り着きました。まさに目から鱗!
技巧を凝らした文体と古典的教養をふまえ、人生の終焉をいかに過ごすべきか高らかに美しく歌い上げた歌詞だったのですね。
素晴らしい解説を有難うございましたました。
高齢者の皆さんに広めたいと思います。
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Unknown (安田葉子)
2023-10-28 07:25:52
私は市民FMラジオで、【夢のながさき詩ものがたり】という番組を放送しています。「庭の千草」を改めて、丁寧に歌おうと思いました。ありがとうございます。
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ありがとうございました。 (うな)
2023-11-08 23:33:13
歌詞と歌われ方に疑問を感じ調べて、こちらに行き当たりました。

理解が深まりました。
ありがとうございました。
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Unknown ()
2023-12-20 00:01:41
さきほど(three bilboards in ebbing,Missouri)を見ました 三度目です ファーストシーンで美しい田園風景に庭の千草が流れます マックドーモンが素敵ですが、マックはアイリッシュ系と云うことでしょう スタッフにもマックの付く人がいるよーで、それも選曲の理由かなとおもいました (夏の最期のバラ)をいろいろ聴いてみます
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