うたことば歳時記

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8月15日はどんな日?

2024-08-13 08:51:38 | 年中行事・節気・暦
 8月15日というと、何を思い浮かべるでしょうか。日本人なら、まずは終戦記念日でしょう。そしてお盆、帰省あたりが続くことでしょう。中には、旧暦の8月15日なら中秋の名月という人もいることでしょう。これらは皆相互に関係があるのですが、その辺りをお話してみましょう。
 まずは終戦記念日ですが、これはもちろんたまたまそうなったわけであり、わざわざその日を狙ったわけではありません。一日も早い終戦実現のため、政権の中枢にある人達は、命懸けの奮闘をしていました。そのことについていろいろ見解があるでしょうが、今回のテーマからははずれますから、深入りはしません。
 お盆については、その日付に重要な意味があります。そもそもお盆、正しくは盂蘭盆会は、旧暦7月15日に行われるものでした。盂蘭盆の行事は、全て盂蘭盆経という経典が根拠となっています。そこには以下のように記述されています。「釈迦の弟子である目連(もくれん)は神通力を得たので、その力によって見わたしたところ、亡くなった母は餓鬼道に落ち、飲食もできずに苦しんでいることを知りました。そこで彼は神通力によって母の前に飯を出現させたのですが、食べようとすると燃え上がってしまい、食べることができません。そこで釈迦に訴えると、『おまえ一人の力ではどうにもならない。しかし十方(あらゆる方角、八方に上下を加えたもの)の僧たちの威力によるならば、母を苦しみから解放することができるであろう。孝行の心をもって7月15日に仏と僧に施しをし、また祖先を供養するならば、7代前の祖先に至るまで救われるであろう。このようにして父母の恩に報いなさい』と言われた」というのです。
 盂蘭盆が旧暦7月15日に行われることについては、理由があります。僧が一定の場所に集合して、長期間にわたり集団で修行することを「安居(あんご)」というのですが、4月15日から7月15日までの90日間行われる安居は「夏安居(げあんご)」と称され、特に重視されました。つまり盂蘭盆の行われるのは、夏安居の明ける日に当たります。90日間の厳しい修行に耐えた僧に施しをすることが、亡くなった父母や七代前の祖先の供養につながると理解されたため、この日に行われたのです。『延喜式』という10世紀の法令集の「大膳式」(朝廷の食事を担当する役職の条例)を見ると、夏安居を終えた僧に盂蘭盆会で馳走するための食材がずらりと並んでいて、まるで修行僧の慰労会のようです。苦行僧に施しをすることによって、亡父母を初めとする祖先の供養をするのが盂蘭盆の本質だったのです。
 盂蘭盆の意味については、現在では一般的にサンスクリット語(梵語(ぼんご))で、「逆(さか)さまに吊(つ)るされた」(倒懸)という意味の「ullambana」(烏藍婆拏(うらんばな))という言葉に由来するものとされ、ほとんど全ての年中行事解説書や寺院の解説にはそのように説明されています。中にはご丁寧に盂蘭盆経にそのように記されていると解説する情報もあるのですが、実際には盂蘭盆経には全く記されていません。そもそも盂蘭盆経はインド由来ではなく、中国でできた漢文の経典で、サンスクリット語の原典は存在していません。まことしやかに逆さ吊り説を説いている人は、自ら盂蘭盆経を直接読んだことはないことを自白しているようなものなのです。一般の人が読んだことがないのは無理もありませんが、仏教の関係者が読んだことがないというなら、それは恥ずべき事です。何しろ盂蘭盆経は原稿用紙にして3枚程度の短いものなのですから。仏教には縁の無い私ですら、全文を丁寧に何回も読んでいます。
 その盂蘭盆の逆さ吊り説は、7世紀前半、唐の玄応という僧が皇帝の命によって著した『一切経音義』という書物に拠っていて、次の様に記されています。「盂蘭盆、この言は訛(なまり)なり。まさに烏藍婆拏(うらばんな)と言ふ。この訳を倒懸(とうけん)といふ。・・・・旧(ふる)く盂蘭盆はこれ貯食の器といふ。この言誤りなり」。現代語に直すと、「盂蘭盆という言葉は発音が訛(なまつ)ているのであって、正しくは烏藍婆拏(うらばんな)という。それは倒懸(とうけん)という意味である。古くは盂蘭盆は食器であるとされていたが、それは誤りである」という意味です。この「倒懸」という漢語が「逆さ吊り」に当たるわけです。しかもわざわざ「盂蘭盆は食器のことという説は誤りである」とも記されていますから、裏を返せば、盂蘭盆は食器であるという理解が普通であったということになります。主題からかなり脱線してしまい申し訳ありません。ただ通説がとんでもない出鱈目なものですから、この際なので本当のことをお話しておきたいと思ったわけです。
 まあとにかく、お盆が旧暦7月15日であったことは理解していただけたことと思います。ところが明治6年から新暦が採用されると、公的行事はみな新暦で行われるようになったのですが、1カ月も時期が早まりますから、旧暦で行われていた頃と季節感が合いません。そこで民間では、「月遅れ」で旧来の年中行事を行うこともありました。それが8月15日前後に行われる現在のお盆で、一般には迎え火は14日、送り火は16日に行われます。旧暦7月15日を新暦に直すと、8月15日になるとは限りませんが、毎年一定していないのでは何かと不便です。そこで月遅れにして7月は8月に、15日はそのままにしておいた方が、たまたま終戦記念日に重なりますから、戦没者供養と先祖供養が重なって都合がよく、8月15日のお盆が定着したというわけです。
 江戸時代には、長崎や京都の宇治では明朝の仏教の影響なのでしょう。灯籠流し(精霊流し)が行われていましたが、これが現在では原爆被災地広島の灯籠流しも習合して行われています。
 毎年8月中旬には、日本中で帰省ラッシュとなります。それはお盆には先祖の供養が行われる風習があり、故郷を離れている人が、祖先の墓のある故郷に帰るからと理解されています。もちろんそういういうこともあるでしょう。しかし歴史的には別の理由もありました。江戸時代までは、お盆の次の日である旧暦7月16日と、小正月の1月15日の翌日である1月16日は、故郷を離れている商店などの奉公人の休日とされていました。これは藪入りと呼ばれ、奉公人は新しい服と小遣いを主人から与えられ、故郷に帰ったり、盛り場に遊びに行くなどして、楽しく過ごすという習慣がありました。ですから大層嬉しいことがあると、「正月とお盆が一緒に来たような・・・・」という表現を今でもすることかがあります。そういうわけで、明治時代になっても正月とお盆が年に2回の休暇となる風習が続けられ、商家だけでなく、一般の企業やお役所も、一斉に休暇となる制度となって普及したわけです。
 ついでのことですが、旧暦7月15日はたまたま中国の道教に由来する中元の日でもありました。道教の三大神(三官大帝)の一人である地官の誕生日が7月15日で、地官は贖罪を掌るため、死者のための贖罪の行事が行われていました。ですからすでに中国において盂蘭盆と中元が習合していました。現在のいわゆるお中元は、新暦の7月中頃に御世話になった人へ感謝の贈り物をするという形で残っていますが、本来は旧暦7月でしたから、新暦ならば8月中頃のことなのです。
 8月15日は、旧暦ならば中秋の名月、つまりいわゆる十五夜に当たりますが、実際には新暦の9月のことです。中秋は秋の真中という意味ですから、中秋は8月の30日間の真中である8月15日を意味しています。ただしこの日の夜に満月になるとは限らず、1日前後することが多いものです。藤原道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の・・・・」と謳歌したのは、8月16日でした。ついでのことですが、「仲秋の名月」の仲秋は旧暦8月のことですから、15日とは限らない8月中の満月のことを意味しています。ネット上には仲秋の名月は誤りで、中秋の名月が正しいという解説が多いのですが、これは中秋と仲秋の区別を知らないための誤解です。歴史的には混同されることが多いので、神経質になることではないのですが、「十五夜」という言葉にこだわるなら「中秋の名月」、満月という天体現象にこだわるなら「仲秋の名月」と言えばよいわけです。
 以上の様なわけで、旧暦・新暦の8月15日には、いろいろな歴史的背景があったのです。




藤原道長の物忌 日本史授業に役立つ小話・小技 53

2024-08-11 19:18:51 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

53、藤原道長の物忌
 平安時代の貴族の生活について学習する際は、必ず物忌みや方違えなどの陰陽道に基づく風習を学習します。しかし「・・・・などの風習があった」というだけで、それ以上でもそれ以下でもなく、指導する私自身も長い間その段階で止まっていました。しかしこれではいけないと、王朝貴族の日記には必ず記載されているはずであるから、日記を読んでみようと思いました。それなら誰の日記を読むかと考え、迷うことなく藤原道長の日記である『御堂関白記』を選びました。これは手許になくても、国会図書館に閲覧者の登録をして、「国会図書館デジタルコレクション御堂関白記」と検索すれば、簡単に見られます。その冒頭から読み始めたのですが、私はその筋の専門家や研究者ではなく、所詮は一介の高校教師に過ぎませんから、難解な部分や見落としもあるでしょうが、その私が見ても、あるはあるは、立て続けに記述が見つかるので、呆れてしまいました。初めのうちはどのくらいの頻度で見つかるのか数えていたのですが、多すぎてわからなくなってしまい、数えることは止めてしまいました。専門書で調べたところ、20数年間の日記に三百数十回もあるそうです。
 物忌みの理由がわかるものとしては、死の穢れが多そうです。それも人だけではなく、犬や牛もありました。他には人や動物の産の穢れ、また穢れに関わってしまった人と接触した触の穢れも見つかりました。『御堂関白記』などを直に読むのは骨が折れるでしょうから、具体的な例をいくつか書いてみましょう。
 長保元年(999)九月八日には、「道方朝臣云 内有穢 定家宿所下有死人 八九歳許童也 所所犬喰者 右府被申云 可為五体不具者 有身難為五体不具」と記されています。難しいのですが、全体の意味は何となく理解できます。「道方朝臣が言うには、宿所に死人があり、八・九歳くらいの幼児である。所々犬に喰われているとのことである。右府(右大臣?)は、(身体の一部が欠損しているので)五体不具者と見做すべきであると言う。しかし身体(胴体)があるので、五体不具とするのは難しいであろう」という意味であろうと思います。五体が揃っているかどうかにこだわっているのは、全身の死体ならば30日の物忌、身体の一部ならば7日の物忌という期間の長短があったからです。寛弘八年(1011)正月二九日には、北の対に「死人頭」があったので(どの様な)穢とするべきかと問われたので、「五体不具」の穢であるから「七箇日穢」、つまり七日間の物忌とすると答えたことが記されています。
 余りにも多いので、今回はこの程度で止めておきますが、もっとよく調べたい方は、講談社学術文庫には『御堂関白記』の現代語訳がありますから、一読をお勧めします。それにしても当時は疫病は普通にあったでしょうし、加茂河原は事実上死体の捨て場でしたから、そのたびに一月間の物忌みをしていたのでは、政務が滞ってしまうはずです。現代でも狸や犬猫が車に轢かれているのをしばしば見かけます。そのたびに物忌をしていたら、日常生活も生産活動も政治も滞ってしまいます。単純な比較には意味がありませんが、当時の貴族の生活において、陰陽道が大きな影響を与えていたことを感じ取ることはできることでしょう。