七五三はどういうお祝いなの?
七五三とは、一般には7・5・3歳の男女の幼児が、11月15日前後に近くの産土神(うぶすながみ、その人が生まれた場所の守護神、またその神社)に詣でて健やかな成長を祈願する行事です。もともとは公家や武家の子供の通過儀礼(一定の年齢に達することを祝う行事)でしたが、江戸時代の初期には次第に庶民にも広まりました。江戸時代はまだまだ子供の死亡率がとても高かったので、その年齢まで無事に成長したことは、実にめでたいことでした。
七五三という風習は、髪置(かみおき)・袴着(はかまぎ、着袴)・帯解(おびとき)と呼ばれる三つの通過儀礼から成っています。まず平安時代以来、江戸時代に至るまで、数え年の3歳くらいの年になると、髪置という儀礼が行われました。昔は赤子が生まれると七日目に、性別に関係なく産毛を剃ってしまいます。そのわけを江戸時代の文献(山東京山『歴世女装考』)では、子供はよく発熱するので、熱を冷ましやすくするするためであると説明されています。そして3歳くらいから髪を伸ばし始めるのですが、全面に伸ばすのではなく一部を剃り残すだけですから、事実上坊主頭と同じようなものです。それで江戸時代には男の子も女の子も、「坊」とか「坊や」と呼ばれました。現在、女の子に「坊や」と呼びかけたら親に怒られるでしょう。その様な坊主頭の幼児の頭部に、白髪に見立てて白糸で作った模造の髪を乗せ、白髪になるまでの長寿を祈るので、「髪置」と呼ばれたわけです。
そして5歳くらいになると、剃り残していた髪も次第に伸びて、髪の先を切りそろえるのですが、これを「髪削」(かみそぎ)とか「深曾義」(ふかそぎ)といいます。そして「袴着」(はかまぎ・ちゃっこ)と称して、初めて袴をはく儀礼が行われました。『源氏物語』の薄雲の巻では、光源氏が明石の上の幼女を引き取り、すぐに袴着の儀式が行われているように、本来は男性だけがはくとは限らなかったのですが、近年では女性があまり袴をはかないためか、5歳の祝いはもつぱら男児のみになっています。現代の七五三風俗では、男児の袴姿がとても多いのですが、もともとが袴をはくことが起原ですから、自然なことなのでしょう。数え年の5歳は満年齢なら3~4歳ですから、まだまだはなたれ小僧のままです。それでもこの日ばかりははなみずを拭って、見違えるばかりになったのでしょう。「袴着にゃ 鼻の下まで さっぱりし」(『誹風柳多留』1-5)という川柳は、そのような男の子を詠んでいます。
7歳くらいになると、女児の髪も長くなり、女の子らしくなってきます。それまでは着物に直接縫い付けられていた紐を結んで着ていましたが、これ以後はその紐を取り除き、大人の女性と同じように帯を締めて服を着るようになります。これを「帯解」(おびとき)とか「紐落とし」といい、女性として認められることになるわけです。「帯解は 濃い白粉(おしろい)の 塗りはじめ」(『誹風柳多留』1-6)という川柳は、そのような年齢に達したことを詠んでいます。だからこそ「男女七歳にして席を同じくせず」(出典『礼記』内則)と称して、社会では男女の区別を要求されるようになります。7歳という年齢は子供の成長過程の一つの区切りの年であったのです。
七五三の祝いは、親にとっては大変に嬉しいことで、親はもちろんのこと、乳母や家族がそろって産土神にお参りするのですが、その様子は大変ににぎやかなものでした。幕末の江戸風俗を解説した書物(『江戸府内絵本風俗往来』)には、「親は男子女子を好みのままに贅を尽くして着飾り、親族や養育に関わった乳母や子守役がつき従う。その家に出入りする若衆や威勢のよい鳶職達もおそろいの羽織を着て、皆が打ちそろつて参詣する」と記されています。「痛いこと 帯と袴で 十三両」(『誹風柳多留』25-12)という川柳があるのですが、衣装代に大金をはたいたことが詠まれています。13両は現在ならば100万円近くの金額ですから、誰もができたことではないでしょうが、みなそれぞれに分に応じて買いそろえたのでしょう。7歳の女児をつれてお宮参りに行く時は、父親や出入りの若い衆が、着飾った娘を肩に担ぎ上げて行く習慣がありました。衣の裾が長くて、歩くに歩けないのですが、豪華な衣装を自慢げに見せたいという親心もあったのでしょう。「帯解」は「被衣初」(かつぎぞめ)とも呼ばれましたので、「被衣」と同音の「担ぐ」を掛けて、肩に担いだのかもしれません。「神前へ 車で参る 七五三」(『川柳評万句合勝句刷』安永七年)という川柳があるのですが、「車」とはもちろん肩車のことです。現在もしそのような情景を見かけることがあれば、それは甘やかしているのではなく、そういう風習だったのです。参拝後には親戚の家々を廻り、親戚や知人を招いて祝宴を設け、また祝儀として赤飯を配ったりしていました。「髪置に 庭の南天 坊主にし」(『誹風柳多留』102-6)という川柳は、赤飯を配って祝ったことを詠んでいます。
期日については、現在では11月15日ということになっていますが、江戸時代では江戸時代後期の歳時記に「当月始の頃より下旬まで。但し十五日を専らとす」(『東都歳時記』1838年)と記されているように、15日に固定されているわけではありませんでした。それでも旧暦の11月は現在のほぼ12月ですから、江戸時代の七五三は冬至に近い寒い時期の行事でした。11月15日であることの起原については、天和元年(1681年)11月15日に、館林藩主徳川徳松(将軍徳川綱吉の長男)の健康を祈願して始まったという説が有力ということになっていますが、幼児の健康な成長を祈願する通過儀礼はそれ以前から個別に行われていますし、俗説に過ぎません。しかもその徳松自身は、何と5歳で若死にしています。
年齢と男女の区分については、初めは固定されていませんでした。『俳諧歳時記』(1803年)によれば、三歳の男女児が髪置、五歳の男児が着袴、七歳の女児が帯解と記されていますから、江戸時代中期の18世紀末には、現代の形がほぼ定まっていたようです。
「七五三」という呼び名は、一般には明治になってからと説かれていますが、正しくはありません。「七五三」という言葉は、たとえば「七五三膳」というように、おめでたいことを表す言葉として江戸時代以前からありましたが、通過儀礼としての七五三という言葉が確認できるのは、18世紀後半のことです。江戸時代には画題に「七五三」を含む七五三風俗の浮世絵(三代目歌川豊国川「七五三祝ひの図」)がありますし、「七五三」と詠み込まれた川柳もあります。しかし歳時記類には、項目として「髪置・袴着・帯解」はありますが、「七五三」という項目は見当たりません。江戸時代詳細な国語辞典である『和訓栞』(わくんのしおり)にも見当たりませんから、定着はしていなかったのでしょう。
七五三の行事食は何と言っても千歳飴でしょう。「千歳」とは長寿のことですから、子供の長寿を祈願して、細長い飴を食べるわけです。柳亭種彦という流行作家の著した『還魂紙料』(かんごんしりょう1826年)という書物には、18世紀初めの元禄宝永年間に、江戸の浅草で「千年飴」(せんねんあめ)という名前で売り出されたと記されています。「長袋」と呼ばれた独特の縦長の袋も江戸時代以来のもので、浮世絵にも描かれています。その長い袋には、長寿のシンボルである鶴亀や松竹が現在も描かれているのは、七五三が子供の成長と長寿を祈願する祭りであったことを示しています。千歳飴の原材料は水飴で、まだ熱い飴を延ばしては折り曲げることを繰り返していると、次第に空気の泡が混じって白く濁り、あの飴になるわけです。甘いお菓子がたくさんある現在では千歳飴の影も薄くなっていますが、江戸時代には子供達にとって最高に嬉しいお土産だつたことでしょう。
七五三とは、一般には7・5・3歳の男女の幼児が、11月15日前後に近くの産土神(うぶすながみ、その人が生まれた場所の守護神、またその神社)に詣でて健やかな成長を祈願する行事です。もともとは公家や武家の子供の通過儀礼(一定の年齢に達することを祝う行事)でしたが、江戸時代の初期には次第に庶民にも広まりました。江戸時代はまだまだ子供の死亡率がとても高かったので、その年齢まで無事に成長したことは、実にめでたいことでした。
七五三という風習は、髪置(かみおき)・袴着(はかまぎ、着袴)・帯解(おびとき)と呼ばれる三つの通過儀礼から成っています。まず平安時代以来、江戸時代に至るまで、数え年の3歳くらいの年になると、髪置という儀礼が行われました。昔は赤子が生まれると七日目に、性別に関係なく産毛を剃ってしまいます。そのわけを江戸時代の文献(山東京山『歴世女装考』)では、子供はよく発熱するので、熱を冷ましやすくするするためであると説明されています。そして3歳くらいから髪を伸ばし始めるのですが、全面に伸ばすのではなく一部を剃り残すだけですから、事実上坊主頭と同じようなものです。それで江戸時代には男の子も女の子も、「坊」とか「坊や」と呼ばれました。現在、女の子に「坊や」と呼びかけたら親に怒られるでしょう。その様な坊主頭の幼児の頭部に、白髪に見立てて白糸で作った模造の髪を乗せ、白髪になるまでの長寿を祈るので、「髪置」と呼ばれたわけです。
そして5歳くらいになると、剃り残していた髪も次第に伸びて、髪の先を切りそろえるのですが、これを「髪削」(かみそぎ)とか「深曾義」(ふかそぎ)といいます。そして「袴着」(はかまぎ・ちゃっこ)と称して、初めて袴をはく儀礼が行われました。『源氏物語』の薄雲の巻では、光源氏が明石の上の幼女を引き取り、すぐに袴着の儀式が行われているように、本来は男性だけがはくとは限らなかったのですが、近年では女性があまり袴をはかないためか、5歳の祝いはもつぱら男児のみになっています。現代の七五三風俗では、男児の袴姿がとても多いのですが、もともとが袴をはくことが起原ですから、自然なことなのでしょう。数え年の5歳は満年齢なら3~4歳ですから、まだまだはなたれ小僧のままです。それでもこの日ばかりははなみずを拭って、見違えるばかりになったのでしょう。「袴着にゃ 鼻の下まで さっぱりし」(『誹風柳多留』1-5)という川柳は、そのような男の子を詠んでいます。
7歳くらいになると、女児の髪も長くなり、女の子らしくなってきます。それまでは着物に直接縫い付けられていた紐を結んで着ていましたが、これ以後はその紐を取り除き、大人の女性と同じように帯を締めて服を着るようになります。これを「帯解」(おびとき)とか「紐落とし」といい、女性として認められることになるわけです。「帯解は 濃い白粉(おしろい)の 塗りはじめ」(『誹風柳多留』1-6)という川柳は、そのような年齢に達したことを詠んでいます。だからこそ「男女七歳にして席を同じくせず」(出典『礼記』内則)と称して、社会では男女の区別を要求されるようになります。7歳という年齢は子供の成長過程の一つの区切りの年であったのです。
七五三の祝いは、親にとっては大変に嬉しいことで、親はもちろんのこと、乳母や家族がそろって産土神にお参りするのですが、その様子は大変ににぎやかなものでした。幕末の江戸風俗を解説した書物(『江戸府内絵本風俗往来』)には、「親は男子女子を好みのままに贅を尽くして着飾り、親族や養育に関わった乳母や子守役がつき従う。その家に出入りする若衆や威勢のよい鳶職達もおそろいの羽織を着て、皆が打ちそろつて参詣する」と記されています。「痛いこと 帯と袴で 十三両」(『誹風柳多留』25-12)という川柳があるのですが、衣装代に大金をはたいたことが詠まれています。13両は現在ならば100万円近くの金額ですから、誰もができたことではないでしょうが、みなそれぞれに分に応じて買いそろえたのでしょう。7歳の女児をつれてお宮参りに行く時は、父親や出入りの若い衆が、着飾った娘を肩に担ぎ上げて行く習慣がありました。衣の裾が長くて、歩くに歩けないのですが、豪華な衣装を自慢げに見せたいという親心もあったのでしょう。「帯解」は「被衣初」(かつぎぞめ)とも呼ばれましたので、「被衣」と同音の「担ぐ」を掛けて、肩に担いだのかもしれません。「神前へ 車で参る 七五三」(『川柳評万句合勝句刷』安永七年)という川柳があるのですが、「車」とはもちろん肩車のことです。現在もしそのような情景を見かけることがあれば、それは甘やかしているのではなく、そういう風習だったのです。参拝後には親戚の家々を廻り、親戚や知人を招いて祝宴を設け、また祝儀として赤飯を配ったりしていました。「髪置に 庭の南天 坊主にし」(『誹風柳多留』102-6)という川柳は、赤飯を配って祝ったことを詠んでいます。
期日については、現在では11月15日ということになっていますが、江戸時代では江戸時代後期の歳時記に「当月始の頃より下旬まで。但し十五日を専らとす」(『東都歳時記』1838年)と記されているように、15日に固定されているわけではありませんでした。それでも旧暦の11月は現在のほぼ12月ですから、江戸時代の七五三は冬至に近い寒い時期の行事でした。11月15日であることの起原については、天和元年(1681年)11月15日に、館林藩主徳川徳松(将軍徳川綱吉の長男)の健康を祈願して始まったという説が有力ということになっていますが、幼児の健康な成長を祈願する通過儀礼はそれ以前から個別に行われていますし、俗説に過ぎません。しかもその徳松自身は、何と5歳で若死にしています。
年齢と男女の区分については、初めは固定されていませんでした。『俳諧歳時記』(1803年)によれば、三歳の男女児が髪置、五歳の男児が着袴、七歳の女児が帯解と記されていますから、江戸時代中期の18世紀末には、現代の形がほぼ定まっていたようです。
「七五三」という呼び名は、一般には明治になってからと説かれていますが、正しくはありません。「七五三」という言葉は、たとえば「七五三膳」というように、おめでたいことを表す言葉として江戸時代以前からありましたが、通過儀礼としての七五三という言葉が確認できるのは、18世紀後半のことです。江戸時代には画題に「七五三」を含む七五三風俗の浮世絵(三代目歌川豊国川「七五三祝ひの図」)がありますし、「七五三」と詠み込まれた川柳もあります。しかし歳時記類には、項目として「髪置・袴着・帯解」はありますが、「七五三」という項目は見当たりません。江戸時代詳細な国語辞典である『和訓栞』(わくんのしおり)にも見当たりませんから、定着はしていなかったのでしょう。
七五三の行事食は何と言っても千歳飴でしょう。「千歳」とは長寿のことですから、子供の長寿を祈願して、細長い飴を食べるわけです。柳亭種彦という流行作家の著した『還魂紙料』(かんごんしりょう1826年)という書物には、18世紀初めの元禄宝永年間に、江戸の浅草で「千年飴」(せんねんあめ)という名前で売り出されたと記されています。「長袋」と呼ばれた独特の縦長の袋も江戸時代以来のもので、浮世絵にも描かれています。その長い袋には、長寿のシンボルである鶴亀や松竹が現在も描かれているのは、七五三が子供の成長と長寿を祈願する祭りであったことを示しています。千歳飴の原材料は水飴で、まだ熱い飴を延ばしては折り曲げることを繰り返していると、次第に空気の泡が混じって白く濁り、あの飴になるわけです。甘いお菓子がたくさんある現在では千歳飴の影も薄くなっていますが、江戸時代には子供達にとって最高に嬉しいお土産だつたことでしょう。
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