旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

3-2 知の探検・蒙古に茸を食草とする蝶は存在するのか? (その2)

2023-04-01 | 探検
前回で述べた結果、やはり茸を食草とする鱗翅目(蝶・蛾)は蝶ではなくて蛾のようであるとわかったところで、本題の「茸を食草とする蒙古の蛾は?」に移ることにする。


モンゴル(蒙古)では上掲のような草原(森林ステップ、ステップ)が国土の60%を占めている。モンゴルへ茸栽培の指導に行かれた日本人研究者の「モウコシメジとモンゴルのきのこ事情」というホームページが目に止まったので、ひょっとすると「草原の記」の蒙古茸はモウコシメジを指しているのでは、と思い読んでみた・・・モウコシメジは、草原に発生するきのこで、全体は白色で傘の径が5~15cm、表面は平滑だが後に亀裂を生じる。古い子実体では褐色を帯びる。傘の周辺は幼時内側に巻きこんでいるが、後に開く。ヒダは白い。柄は短く、長さ2~7cmで、ずんぐりしている。柄は中実で肉質はしっかりしている。乾燥すると独特の香りがある。発生の時期には、遠くからもきのこ狩りに自動車でやってくる。モウコシメジの生息地は、標高600~1,800mで、土壌中に大量の腐植質(18~20%)を含んでいる所が良いとされる。生息地では、6~8月に年降水量の60~70%が集中し、8月上旬が子実体発生の最盛期になる。草原では放牧を行っているので、家畜の糞や枯れた草が発酵してできた腐植質がモウコシメジの絶好の栄養源になっている。モウコシメジの子実体は下に示した画像のように草原上にリング状(菌輪)に発生する。 

モウコシメジのシロ(菌糸層)は、外側へと生育場所を移動するので、リングの直径は毎年大きくなる。モンゴルでは均一な条件の草原が続いているので、直径が数十mの見事なリングが遠くからも数多く見られる。現地人は、馬に乗ってモウコシメジのありかであるリングを見つけ、採りに行くという。ところでモウコシメジ以外のきのこは、もったいないことに、ほとんど利用されていない。・・・
上掲のオレンジ色で表した文章を読むと、前回(3-1)に引用した「草原の記」の蒙古茸はこのモウコシメジを指していると考えて間違いないと思われた。残念ながらこの研究者は蝶・蛾の研究者ではないので、当然蝶や蛾への言及はない。
インターネットを駆使してモウコシメジを食草とする蛾の正体を探ったが、検索で引っかかる材料は残念ながら出てこなかった。モウコシメジを食べる蛾の存在は確実であるが、茸を食べる蝶はやはりいないだろうなとの思いを強く抱きながら今回の「知の探検」を終えようと思った時に大きなニュースが入った。次回の「3-3 知の探検・・・」をお楽しみに。

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3ー1 知の探検・蒙古に茸を食草とする蝶は存在するのか? (その1)

2023-03-01 | 探検

司馬遼太郎の作品に蒙古という国とモンゴル民族を主題とした「草原の記」がある。全編大変興味深い内容が書かれているが、蝶好きのぼくにとって特に見逃せない部分があった。歴史学ではなく当然自然科学の分野であった。ぼくが注目した部分を少し長くて恐縮だが、次に紹介する。

「いまの日本は蒙古茸(もうこきのこ)だ」
と、当時の中国軍閥の親分のひとりが言ったということを、戦後、なにかの本で読んだことがある。一夜で大きくなり、いずれ消える、というのである。
 それほど、河本大作や板垣・石原たちが、統帥権的冒険に乗りだしてからの日本は、唐突に膨れあがり、それまでの日本の国家行動とは別趣の観があった。いずれ消えるとは、日本もろともにほろびるということらしかった。
 蒙古茸という比喩が、いかにも田舎の軍閥のぬしの言いそうなことで、なにやらおかしい。もっとも、当初、それを読んだとき、私はこの乾いた草原に茸がはえるなどは、まったく知らなかった。
 しかし、雲が湧く以上は、ときに雨がふる。茸がはえてもおかしくはなさそうである。
 ただし、茸にとってはいそがしいにちがいない。天地が湿るやいなや、一夜で大きくならねばならず、でなければ、つぎの日は乾いて枯れてしまいそうにおもわれた。
 この植物のことを私は何十年もわすれていて、1990年にツェベクマさんに再会したとき、一袋の食べものを頂戴した。あけると、灰色の乾燥した茸であった。
「蒙古茸です」
 ツェベクマさんがいった。宝石のように稀少で、珍味だという。
 モンゴル人たちは、サークルをなしているこの茸を遠くからみつけるという。かれらの視力の強さは解剖学的に目の構造がちがうのかとおもえるほどで、雨後、騎走しながら地平線のあたりのかすかな色彩の変化をみつけ、数キロ走って獲る。
「蝶もすばやいんですよ」
 と、鯉渕教授が、教えてくれた。蒙古茸があがるや、蝶たちは飛んできて卵をうみつけるという。鯉渕教授は、亜細亜大学の研究室に乾燥茸をつつんでおいておいたところ、ある日、研究室いっぱいに蝶が飛び舞っていて閉口したらしい。
“満州”は、昭和初年の参謀本部にとっても、蝶の大量孵化をもふくめた蒙古茸のようなものだったかもしれない。

鯉渕教授は生物学ではなく、モンゴル語学の先生なので、この部分を読んで蝶ではなく蛾ではないかと思った。新潮文庫で「草原の記」を読んだ当時(2010年)、茸を食草とする蝶の存在を聞いたことがなかったからである。その後折りに触れて数名の蝶・蛾研究者に尋ねてみたが、どなたも茸を食べる(食草とする)蝶(の幼虫)の存在はご存知なかった。
では蛾の種名は 興味は膨らんだ。残念ながらモンゴル在住の専門家とは縁がなかったので、モンゴルの夜蛾を調べておられる日本のK氏に問い合わせた。モンゴルで茸を食する蛾はご存知なかったが、日本産の蛾は3種ほどいることを教えていただいた。ムラサキアツバ Diomea cre-mata  ナミグルマアツバAnatatha lignea ヨコハマセニジモンアツバ Paragona multisigna-ta などがシイタケの害虫として報告されているとのことであった。このうち古くからシイタケの害虫として知られているムラサキアツバはカワラタケ(サルノコシカケ科)をも食するとの記述があった。サルノコシカケ科の茸を食する蛾の幼虫がいるという事実を記憶にとどめておいていただければ幸いである。下に上述の蛾を3種参考のために図示する。

ムラサキアツバ


ナミグルマアツバ


ヨコハマセニジモンアツバ

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My wife Tomoko HAYASHI passed away.

2023-02-01 | その他
You will see the larger size photos, if you click on the original photos.


Tomoko HAYASHI
May 9, 1945 - December 11, 2022
Died at Koudoukai Hospital, Higashinari-ku, Osaka, Japan, at age 77.
Tomoko loved to sing and often sang while doing housework. She and her daughter would even sing together at any given time, and there was always music in the house. Everyone said that time spent with her was a tender time. Everyone who knew her said they loved her because she was so sweet and always had a smile on her face.

Tomoko was born as the eldest daughter of Mitsuo Yahata in 1945. Raised in Osaka
City, she graduated from High School Attached to Osaka Kyoiku University Tennoji
Campus, Tennoji-ku, which produced the 2012 Nobel Prize winner in Physiology of
Medicine, Shinya Yamanaka, and the Akutagawa Prize-winning author,
Noboru Tsujihara, etc.
While studying English literature at Osaka Women's University, she also served as
the head of the ESS (English Speaking Society) club. After graduation, she helped
her father's company, Yahata Koundo, a manufacturer of party horns, to export its
products to the U.S., using her English ability. In 1970, she married
Hisakazu Hayashi, the eldest son of Matsutaro Hayashi, the president of
Osaka Senbei Matsuya,
a traditional Japanese confectionary company. After their marriage, she took charge
of the Hayashi family's household chores, raising their two daughters, Mio and
Natsumi, and supporting her husband, Hisakazu, an amateur butterfly researcher
specializing in Southeast Asian Lycaenid butterflies. With her dedicated support,
Hisakazu discovered many new butterfly species in the Phillippines and Borneo,
and some of them were named after the entire member of the Hayashi family.
After Hisakazu gave up his family's traditional Japanese confectionary company,
Tomoko helped Hisakazu start an English cram school, which produced
many students.
Later, she assisted in managing the building where the traditional Japanese
confectionary company was headquartered. Her devotion continued with Hisakazu's
father, Matsutaro Hayashi (died in 1978 at the age of 67),
and mother, Toshiko Hayashi (died in 1997 at the age of 87), Tomoko's father,
Mitsuo Yahata (died in 2005 at the age of 90), and mother,
Fumi Yahata (died in 2015 at the age of 95).
In December 2019, just a year and a half after she was happy to finally have some time to herself after giving up the building and retiring, she suffered an aortic heart
dissection that caused her to suffer a stroke. She was 74 years old. Paralyzed on
the left side of her body, with brain damage and a tracheotomy, she spent
most of her time in bed at the hospital but worked hard at rehabilitation for the sake of her family.
However, due to the COVID-19 pandemic, visits were restricted during
her three years in the hospital, and she was rarely able to see her family.
The only means of communication was an iPad the family left with a medical
social worker at the hospital. On December 10, 2022, Hisakazu reported with
some photos that Natsumi, her second daughter, had successfully completed
her first semester at Knox College, where she was officially hired and began
working after receiving her master's degree from Florida State University
in the United States. It happened the day after her medical social worker
showed the message to her and messaged her family with some photos
and videos that she was eating well. After receiving a phone call from the hospital
that Tomoko's condition had suddenly deteriorated, Hisakazu rushed to the hospital,
but he could not see her alive. For her family, it was a regretful ending to her life,
having let her die after three long years of solitude in the hospital.
Her family can only hope that her loneliness will be healed and she will rest in peace.
Her family hopes that the Deramas tomokoae, which Japanese name is Tomoko
Yumedori Kirara Shijimi
lycaenid butterfly, named by Hisakazu, will continue to
fly freely in the sky with her name on it, for her sake.

You will see the larger size photo, if you click on the original photo.
Tomoko Yumedori Kirara Shijimi


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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-5)

2022-12-01 | その他
「ロングコロン」には普通のチョコレート味以外にも下に掲げるような種類も販売されていて、父がささやかながら製造に寄与した「コロン」がこんなに息長く多種類の商品として販売されていることがわかり、グリコの会社に感謝すると共にあらためて父の業績に感じ入った次第である。



長々と「コロン」についての筆者のブログにお付き合いくださいまして、誠にありがとうございましたm(__)m

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-4)

2022-11-01 | その他
お菓子屋さんの店頭では見かけないが、なが~いなが~いコロンの棒と銘打った「ロングコロン」をネット上で見つけた。普通のコロンの大きさ(長さ)は約1.7㎝だが、ロングコロンは約26.5cmもある ケースのサイズは約32.3cmもある!!

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-3)

2022-10-01 | その他
普通のコロンと大きさは同じだが、地域限定の味を持たせている。
「信州巨峰」


「とちおとめ苺」

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-2)

2022-09-01 | その他
大人のさくら抹茶


大人のミルク


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グリコの「コロン」にはこんなに種類がある!(5-1)

2022-08-01 | その他
前月のブログに筆者の父と「コロン」の関わりを書いたが、「コロン」の現状を知りたくなって調べてみた(^.^) 以前からある小さなサイズの「コロン」はいろんな種類が出ていた。

「あっさりミルク」の箱の中身を出してみた。
<img


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父はグリコのお菓子、「コロン」の生みの親の一人

2022-07-01 | その他

筆者の父は大阪で太平洋戦争前から煎餅屋を営んでいた。煎餅というと全国的には薄いお餅の生地を焼いて、表面に醤油味などの液体を塗って乾燥させた製品を指しているが、大阪では小麦粉に鶏卵、砂糖、水などを混ぜた生地を、熱した上下2枚の鉄製の型で挟んで焼いた製品を意味する。大阪ではいろんな種類の煎餅が焼かれ売られていたが、たぶんヨーロッパから伝わったものだと思うが、パピロという洋風の名称で、煎餅を焼きたての柔らかい間に巻いた巻煎餅があった。これにマーガリンや砂糖を主原料としたクリームを注入し、幾つかにカットして短くし、高級感を出すためにデザインが印刷されたセロファンで包装されていたクリームパピロという製品もあった。
昭和50年(1975年)前後だったと思うが、グリコの社員の方が2名、クリームパピロのような菓子を製造、販売したいので技術指導をお願いしたいと父を訪ねて来た。工場で実際に製造している現場を社員の方は何回も見て(当時はすべて手作業でやっていた)、グリコのような大規模工場で製造する方法や手段を模索されていたのであろう。父の工場で製造した出来立ての柔らかいパピロの生地を何度となく急いでグリコの工場へ持ち帰って試作に供していた。

グリコが販売している「コロン」というお菓子、ご存知のことと思う。


煎餅屋の作るクリームパピロとは違い、巻煎餅の部分は軽く薄く小さい製品で個々に包装されてはいない。製造工程を機械化し製品を小型化し味わいも変え大量生産するには想像を絶する苦労と努力があったことだろう。「コロン」が世に出たのはもちろん大会社グリコで働く人々の努力の賜物であるが、早くに亡くなった父のささやかな協力があったことと、父の商売を支えながら筆者たち子供を育ててくれた母のことも家族の一員として忘れられない思い出である。その後もお菓子屋さんで「コロン」を目にするたびに、当時のことや父母を懐かしく思い出していた。



筆者が学生時代の1964~65年(昭和39~40年)に探検部の海外遠征隊の一員として長期間滞在していたマレイシアのサラワク州を1998年(平成10年)に再訪した折、州都クチンのスーパーの棚に「コロン」が並んでいるのを見て驚いた。父が関わった商品が遠く離れた地でも売られている現実に感激した。父が存命ならどれほど喜ぶことか うれしくもあり、誇らしくもあった。

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星野源の新曲のバックに蝶が・・・

2022-06-01 | 
アメリカ在住の二女が2022年5月5日に星野源が新曲「 COMEDY(喜劇)]をリリースしたことを教えてくれた。



彼が歌っている背景に「ミドリメガネトリバネアゲハOrnithoptera priams Linnaeus)オス」の標本(ほかにタテハチョウの仲間らしき標本も写っているが、種類は分からない。)が時々出ている 


ニューギニアを分布の中心とする緑色系と青色系からなる普通種であるが、大型の美しいトリバネアゲハなので背景の引き立て役に選んだのだろうか。いずれにせよ、蝶が昆虫の中でもやはりメジャーであるのを実感させていただいてうれしい限りである。




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ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-3

2022-05-01 | 探検
一方、先住民にかくまわれていた米兵たちは徒歩でジャングルを一週間かけてハリソンに会いに行った。
       軍人として再びボルネオへやって来たトム・ハリソン

ハリソンは米兵たちを海岸線まで移動させて海路で脱出させるより、高原から空路で脱出させる作戦を選んだ。ところが先住民から滑走路用に使用してよいと示された場所はあいにく湿地であった。使用する機体は軽飛行機であったが、湿地では離着陸は不可能である。そこで先住民の協力を得て竹を板状に割り、湿地に敷いて滑走路を造った。

テスト飛行の結果、着陸出来ても離陸には距離が足りないのが分かり(離陸テストの時、ハリソンが乗った機体は離陸できずに横転したが、幸い彼を含めけが人は出なかった。)、さらに竹敷きの滑走路を伸ばし救出作戦に挑戦、1945年6月に無事米兵たちの空路を使っての救出に成功した。

            先住民の集落でのトム・ハリソン



ハリソンは連合軍からの本格的な進攻が始まるまで待つようとの命令を無視し、彼は先住民たちにゲリラ攻撃の開始を命じた。先住民たちに毒を塗った吹き矢での攻撃を初め、イギリスやオランダの植民地になってからは禁止されていた首狩りをゲリラ攻撃作戦として先住民に推奨。持ってきた日本兵の首に対して賞金を与えていた。さすがにこれらの行為は連合軍の中でも異端視されていたようである。

          竹敷きの滑走路脇に掲げられたどくろ


       日本軍憲兵隊長のどくろ・・・だとの説明であった。

ハリソンがクチンでわれわれ日本人に会いたくない、というよりも避けていたと感じたのはこういう経歴の持ち主だったからだと今にしてよく分かった次第である。

(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-2

2022-04-01 | 探検
2019年、ナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)のテレビ番組で「Headh-unters of World War Ⅱ」のタイトルを目にして、閃くものがあった。ひょっとしてトム・ハリソン(以下、敬称略)のことが出て来るかも・・・!
「出て来るかも」どころか、彼を主体に描かれたドキュメンタリー風の映画であった。1944年11月、日本海軍の空母がブルネイに向かっている(のちのレイテ島沖海戦に参加するためと思われる)との情報で米軍のB24爆撃機が攻撃のため出動、日本軍の対空砲火を浴びて1機が墜落し、数人がパラシュートでボルネオ山中に降下し生き残った米兵たちは先住民にかくまわれた。

B24墜落地点

彼らを救うために英軍将校が送り込まれた。この英軍将校がトム・ハリソンであった。

彼はオックスフォード大学の探検隊の一員としてボルネオに行き、先住民と暮らし、彼らの生活や習慣、伝統をよく知り、入れ墨までしていた。

現地のことをよく知るハリソンを英軍はボルネオ奪還のための強力な人材として起用していた。英軍少佐になっていたハリソンはオーストラリアの特殊部隊と協力し、1945年3月ボルネオ島北西中央部の先住民ケラビット族が支配する高原近くにパラシュートで降下、対日ゲリラ戦に協力するよう彼らに医薬品を配った。


(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-1

2022-03-01 | 探検
阪大探検部一期生だった僕は1964年(昭和39年)、探検部初の海外遠征隊の一員としてボルネオ・サラワク州へ出かけた。ノルウエーの貨物船で下の図に示した航路を取ってサラワク州のクチンへ行った。

元英国植民地のマレー半島の国々とボルネオ島の北ボルネオとサラワクが合併してマレーシアなる国になったばかりでサラワク州を訪問(入国)するためにはビザの取得が必要であった。
ビザ取得のためのInvitation Letterは商社員だった義兄の商売相手のサラワクの州都クチンの華僑が出してくれていてビザ取得に何の問題もないはずなのに一向にビザがおりない。
華僑に問い合わせると、クチンにあるサラワク博物館館長の英国人トム・ハリソン(Tom Harrisson)氏がOKをしないからのようだった。遠征隊からは直接ハリソン氏に手紙を出し、華僑がハリソン氏に何度もお願いに行ってくれたおかげで予定よりずいぶん遅れたが、ようやくビザがおりて日本を後にすることが出来た。

若き日のトム・ハリソン氏

クチンに到着してから博物館を訪問するたびにハリソン氏との接触を試みたが、館員は「彼は不在だ」とか何やかや理由をつけて結局一度も会うことが出来なかった。遠征隊の隊長の海野先生と僕の共著「ボルネオの人と風土」の中で触れたように、彼は1932年にオックスフォード大学探検隊の一員としてボルネオに来て先住民と知り合い、太平洋戦争末期にパラシュートでボルネオの高原に降下し、先住民に武器弾薬を与えて日本軍を攻撃させた強者で、こんな経歴ゆえに日本人には会いたくないのだろうと勝手に想像していた。

若き日のトム・ハリソン氏と仲間たち


(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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小説「億夜」と槐(えんじゅ)

2022-02-01 | 
槐咲蝶群(えんじゅちょうのようにむれてさく)

槐。開花時期は7月~8月。正しく蝶が群れているように見える。ずっと以前に高樹のぶ子さんの小説「億夜」をこのブログで取り上げたことがあった。
思いがけず弟の展翅中の蝶の標本を壊してしまった兄の婚約者はそれをきっかけに弟に惹かれ恋人になる。しかし時を経て弟は自ら命を絶ってしまう。彼女は結局兄とは別の男と結婚することになった。小学校の先生同士だったが、後に夫は病気のために勤めをやめ、骨董屋「槐屋」を始めた。最初「億夜」を読んだ時変わった屋号だなとしか思わなかった。しかし「槐咲蝶群」を知ってアッと思った。蝶に関係がある おまけに花言葉は「慕情」!!
この小説にはまだ伏線があったのだ。彼女と結婚しなかった兄との中年期のエロスへの導入を象徴する重要な一文字だったのだ。高樹のぶ子さんは凄い人だな・・・自らの不明を今になって恥じ入るばかりである。 

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40数年前に記載したシジミチョウ亜種の新種への昇格

2022-01-01 | 
1978年、フィリピン・ミンダナオ島産タカネフタオシジミ属オスの前翅翅表の大きな黒色性斑が目立つ標本を展翅して、ドミヌスタカネフタオシジミTajuria dominus H.H.Druce,1895かな?と思いましたが、ミンダナオからの採集記録はないし、よく観察すると翅表亜外縁の黒色部の形が違う上に裏面後翅肛角部の橙色紋の出方も違っていました。当時、ドミヌスタカネの画像があるのみで、標本を入手出来ず、交尾器の比較がかなわなかったので、別種の可能性を抱きつつドミヌスタカネの新亜種として、オスの交尾器図を添え Tajuria dominus mizunumai H.Hayashi,1978 の学名で記載しました。
その後、英国の著名な研究者が描いた名義タイプ亜種の簡単な交尾器図を観て、その違いの大きさにミンダナオのドミヌスタカネは新種であると確信しました。残念ながら標本がなかなか手に入らず、交尾器の比較研究が出来ないまま歳月が過ぎてしまいました。数年前待望の標本を研究仲間の方から借り受けることが出来、交尾器の詳細な比較検討をしました。その結果ミンダナオ島の亜種は、別の種で、かつ新種であることを確認しました。
亜種 mizunumai の分類学的地位は Tajuria mizunumai H.Hayashi,1978ミズヌマタカネフタオシジミ)へ変更となり、40年余りの時を経て新種として名乗ることが出来ました。
各種の図を下に掲げます。
1-2.ミズヌマタカネフタオシジミ、オス(ミンダナオ島)。3-4.ドミヌスタカネフタオシジミ、オス(パラワン島南部)。5-6.ドミヌスタカネフタオシジミ、オス(インドネシア、Belitung島)


ミズヌマタカネフタオシジミ、オス交尾器図(スケールは0.5㎜)


ドミヌスタカネフタオシジミ(パラワン島南部)、オス交尾器図(スケールは0.5㎜)


ドミヌスタカネフタオシジミ(インドネシア、Belitung島)、オス交尾器・顕微鏡写真

研究論文は日本蝶類学会の「Butterflies」75号に掲載されています。


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