インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

現代の男に失われているもの

2010-07-25 18:08:45 | 瀬戸内海の島
  日曜日は正午前に、向島(因島に接する方)へ行った(往復100円+ガソリン代少々)。昨年、一昨年と泳いだ場所であるが、恐ろしい看板があった。



 水温も低かったので、先週の夕方に泳いだ場所に行くことにしたが、やはり家族連れが多い。子連れの女性が多く(だんなもその一つか?)、やはり現代は女性の方がパワーがあることの現われか。

  色々考えながら(考えても仕方ないが)、パラソルの並ぶ海水浴場から、海岸を伝ってひたひた歩く。この男は、もはや奇人変人の類である(外から様子を見ても怪しい)。



 女性優位の時代(?)とはいえ、男には力がなければならない。「田に力」と書くならば、それを成し遂げるだけの力がなくてはならない。今と違って昔は米作りは(米という字は「八十八」回手入れが必要という意味らしい)、恐ろしく馬力が必要であったのだ。

 もっとも今は「金に力」かもしれんが…とを手に海岸を冒険することにした。



 波が打ち付けてきて、やばかったが、それぐらい乗り越える体力がないと男ではない。海岸歩いて流されるようでは、荒波と戦って魚をとる海の男はどうなる、男には筋力が必要なのだ。



 砂浜があった。誰もここまで来ないのでプライベートビーチか。
しばらくは泳ぎ始めた。
 


 しかし「筋力さえあればいいというものではあるまい」と呟きながら、は再び歩き始める。そもそも「力」とは一体何なのか。

この大地に燦燦と降り注ぐエネルギー、岩場に打ち付ける青いエネルギー、

己の体の中で躍動する赤いエネルギー、それらは全て「力」であり、ただそこにある力だ。

生きているのだ。生き生きとした力、生命エネルギー、これが現代の男性に失われているのかもしれない。

 もっとも文明化したデジタル社会だから、身体性のエネルギーがなかなかか活性化しないわけであるが。

 きっとインディオが海へ行くのも、エネルギーを注入させるために違いない。なにせ、人間というちっぽけなエネルギーの塊は、より大きなエネルギーと直接触れ合って生きなくなっているのだから。

 かくしてはとてつもなく広い岩場に寝そべり、岩盤浴しはじめたのであった。

 

 エネルギーが充電されると、は意気揚々と戻り始める。
 帰りは潮がひいていた。

 最初の頃の写真が、こんなになってしまうまで粘っていたのですね