北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考」が始まった。8回にわたる長丁場であるが、第1回目の講座を聴くかぎりかなり興味がもてる内容である。「聖地」とは何か?そして「聖地」はどのようにして誕生するのか、興味深く話を聴いた。
北大の観光学高等研究センターが主催する「現代の『聖地巡礼』考」~人はなぜ聖地を目指すのか~が始まった。10月21日から毎週月曜夜に開講される講座である。夜の開催というのが若干辛いが受講料(4,000円)を収めたこともあり、なんとか8回の講座を皆勤したいと思っている。
第1回目の講座は「聖地再考-聖地は意図的に作られたものなのか?宗教的「聖地」からアニメ「聖地」まで」と題して、観光学高等研究センター教授の山村高淑氏が講義した。
「聖地」というと思い浮かぶのが「エルサレム」である。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「聖地」として知られている。その他、「聖地」として思い浮かぶのはチベット仏教の「ポタラ宮」とか、日本の仏教における長野の「善光寺」参りとか、日本の神道の「伊勢神宮」などが思い浮かぶ。つまり「聖地」とは宗教的色彩をもって語られるのが一般的であった。
しかし、現代になると高校野球の聖地「甲子園」とか、高校サッカーの聖地「国立競技場」などと称されることも多くなってきた。さらに、講師の山村氏は東京ビックサイトで開催される「コミックマーケット(通称:コミケ)」には、マスコミはあまり報道しないけれど夏・冬会わせると約59万人ものコミックファンが集合し、それはまさにコミックファンにとっての「聖地」と言って良いのではないかと山村氏は云う。
※ 東京ビックサイトに集まったコミックファンの様子です。
人々が「聖地」を目ざすことを「巡礼」と称されるが、それは信者の居住地からは遠く離れたところにあるため「巡礼」は旅を伴う。このことが旅行の起源とされている。したがって、旅を意味する「travel」とは「苦難、苦痛」を表すラテン語に由来するという話は興味深い。
そういえば、チベット仏教徒が五体投地という様式で聖地ラサを目ざす姿は、見ている者からすると苦難の何物でもない気がしてくる。チベット仏教ほどではないにしても、交通機関が発達していなかった頃の巡礼は苦難の連続であったろう。
近世以降になると、この「旅行」が「旅行商品」となり、大衆化して「観光」が登場したという。(ここらあたりは観光を学術的に研究している氏らしい展開である)
※ 「五体投地」をしながら聖地ポタラ宮を目ざすチベット仏教信者です。
旅行が大衆化したことによって、聖地への巡礼も一層盛んとなったが、日本においては巡礼という意味を宗教的な意味から、より世俗的な意味でも用いられるようになったそうだ。つまり、日本においては鉄道ファン、アニメファン、ある歌手のファンなどにとって、特別な意味を持つ場所がしばしば「聖地」と称されるようになったと山村氏は云う。
そして山村氏は次の言葉を紹介した。「人間が集まることによって特殊な磁場が形成され、そこが聖地となる」
このことはギリシアのアクロポリス、カンボジアのアンコールワット、チベットのポタラ宮などは意図的に「神」を演出した空間として創出されたという。
同じように、現代においては神に代わる「鉄道」や「アニメ」や「歌手」を媒介として意図的に聖地が創り出されているという。
例えば、埼玉県では県が旗振り役となってアニメファンを集める「アニ玉祭」を開催し、盛況だということである。
※ アテナイの守護神アテーナーを祀るアクロポリスの丘です。
今回の山村氏の講義は、今回の講座「現代の『聖地巡礼』考」~人はなぜ聖地を目指すのか~全体のイントロデュース的性格を帯びていた。
つまり、「聖地」というものを宗教的な意味からだけ捉えるだけでなく、もう少し広い意味で考え、聖地を観光学的に再考してみようとする講座のようである。
※ 今回のレポート(これからも)においては、講義を受けて私なりの解釈が加えられているためにあるいは講師の意図と違っている場合もあるということをお断りしておきます。
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