樺戸開拓の歴史が見えてくる浦臼探訪ルート
高知県土佐から北の地にやってきた武市安哉たちが開拓の最初の鍬を入れた「聖園創始の地碑」から、「坂本直寛敷地跡」まではかなり離れていた。それだけ広大な地を彼らは拓いたということを表しているのだと思った…。
武市安哉(あんさい)や「坂本家の墓」がある霊園から国道275号線に出た。この国道275号線沿いに「聖園創始の地碑」、「會賓楼 しいたけ飯店」、「聖園農場直売所」が続いて並んでいる。
「聖園創始の地碑」は聖園農場の創始者である武市安哉が明治26年7月に26名の若者と一緒に土佐から浦臼へやってきて最初の鍬を入れたところを記念して建てられた石碑のようだ。国道から少し入ったところにひっそりと建っていたが、入口のところが草生していたのがちょっと残念だった。
続いて隣に大きな建物の「會賓楼 しいたけ飯店」がある。ウェブ上で調べてみると、この店は「日中国交で中国瀋陽市から派遣された中国人コックによる本格中国料理を日本人の嗜好にアレンジして提供しています。食材は道内で有機栽培された農産物、又は、その加工品を使用しています。浦臼町内に関連農場(聖園農場)で、米、メロン、野菜を栽培し使用しています」と出ていた。
同じ敷地内に「聖園農場直売所」もあったが、こちらはどういうわけかシヤッターが下りていて閉店状態だった。
三つの碑や建物を過ぎると、あとは延々と田園地帯を歩くルートだった。
広大で平坦な土地には今まさに黄金色に色付こうとしている稲穂が遠くまで続いている。その光景を見ながら「あれっ?」と思った。月形町では目立った休耕田が見当たらないのだ。隣同士の町でそんな違いは有り得ないはずだが…。
疑問に思った私は帰宅すると直ぐに浦臼町役場に問い合わせた。すると「浦臼町でも休耕田はあります。ルート上にたまたま休耕田がなかったということです」との答えだった。そういうことだったのか…、と半分首をかしげながらも納得した私だった。
※ 浦臼町の農家の庭先にはなぜかヒマワリが目立った。なぜだろうか?
ルートから少し外れるがマップに「浦臼沼」が載っていた。私はぜひとも「浦臼沼」を見てみたいと思った。浦臼沼は、石狩川のかつての蛇行部で、石狩川が自ら流れを変えて切り離された河跡湖(三日月湖)ということだ。
マップ上で「近くに来ている」という感覚があるのだが、沼に至る道が見当たらない。そこで近くの農家に寄って「浦臼沼に行ける道はありませんか?」すると、そこの家の方が「我が家の脇を通ると行ける」と教えてくれたので、許しを得て直ぐ近くあった沼に向かった。浦臼沼は水面がわずかに見えるものの、ほとんどは水草や灌木に覆われていた。見たところ沼が特別な役割を果たしているようには見えず、むしろ干拓などによって農地を広げたいと思っているのではないかと思われたのだが…。
※ 「浦臼沼」は写真のように水面はわずかしか望めなかった。
浦臼沼を後にして農道をしばらく進むと道端に「坂本直寛敷地跡地」という立て看板が目に入った。看板には「坂本直寛は、ここ浦臼沼のほとりに家を建て、明治31年の5月に入植し開拓を始める。(1898年から1902年まで)」と書かれていた。その跡地の前の畑には蕎麦の畑が広がっていた。
その後も稲穂の波の光景が続く中を進んだ。遠くにポプラの並木が目に入ったが、ポプラの並木は北海道のような広大な大地によく似合うなあ、と私は歩きながらつぶやいていた。
やがて市街地に戻り、浦臼町役場の庁舎を横に見ながらゴールのJR浦臼駅に着いた。
浦臼町は大きな山もなく、広大な大地が広がっている。そこに武市安哉たちは大きな可能性を感じたのではなかったろうか? その思い通りに現在の浦臼町は豊かな稲作地帯として発展していることが確認できたフットバスウォークだった。
《フットパスウォーク実施日 ’13/09/05 距離約8.9㎞》
高知県土佐から北の地にやってきた武市安哉たちが開拓の最初の鍬を入れた「聖園創始の地碑」から、「坂本直寛敷地跡」まではかなり離れていた。それだけ広大な地を彼らは拓いたということを表しているのだと思った…。
武市安哉(あんさい)や「坂本家の墓」がある霊園から国道275号線に出た。この国道275号線沿いに「聖園創始の地碑」、「會賓楼 しいたけ飯店」、「聖園農場直売所」が続いて並んでいる。
「聖園創始の地碑」は聖園農場の創始者である武市安哉が明治26年7月に26名の若者と一緒に土佐から浦臼へやってきて最初の鍬を入れたところを記念して建てられた石碑のようだ。国道から少し入ったところにひっそりと建っていたが、入口のところが草生していたのがちょっと残念だった。
続いて隣に大きな建物の「會賓楼 しいたけ飯店」がある。ウェブ上で調べてみると、この店は「日中国交で中国瀋陽市から派遣された中国人コックによる本格中国料理を日本人の嗜好にアレンジして提供しています。食材は道内で有機栽培された農産物、又は、その加工品を使用しています。浦臼町内に関連農場(聖園農場)で、米、メロン、野菜を栽培し使用しています」と出ていた。
同じ敷地内に「聖園農場直売所」もあったが、こちらはどういうわけかシヤッターが下りていて閉店状態だった。
三つの碑や建物を過ぎると、あとは延々と田園地帯を歩くルートだった。
広大で平坦な土地には今まさに黄金色に色付こうとしている稲穂が遠くまで続いている。その光景を見ながら「あれっ?」と思った。月形町では目立った休耕田が見当たらないのだ。隣同士の町でそんな違いは有り得ないはずだが…。
疑問に思った私は帰宅すると直ぐに浦臼町役場に問い合わせた。すると「浦臼町でも休耕田はあります。ルート上にたまたま休耕田がなかったということです」との答えだった。そういうことだったのか…、と半分首をかしげながらも納得した私だった。
※ 浦臼町の農家の庭先にはなぜかヒマワリが目立った。なぜだろうか?
ルートから少し外れるがマップに「浦臼沼」が載っていた。私はぜひとも「浦臼沼」を見てみたいと思った。浦臼沼は、石狩川のかつての蛇行部で、石狩川が自ら流れを変えて切り離された河跡湖(三日月湖)ということだ。
マップ上で「近くに来ている」という感覚があるのだが、沼に至る道が見当たらない。そこで近くの農家に寄って「浦臼沼に行ける道はありませんか?」すると、そこの家の方が「我が家の脇を通ると行ける」と教えてくれたので、許しを得て直ぐ近くあった沼に向かった。浦臼沼は水面がわずかに見えるものの、ほとんどは水草や灌木に覆われていた。見たところ沼が特別な役割を果たしているようには見えず、むしろ干拓などによって農地を広げたいと思っているのではないかと思われたのだが…。
※ 「浦臼沼」は写真のように水面はわずかしか望めなかった。
浦臼沼を後にして農道をしばらく進むと道端に「坂本直寛敷地跡地」という立て看板が目に入った。看板には「坂本直寛は、ここ浦臼沼のほとりに家を建て、明治31年の5月に入植し開拓を始める。(1898年から1902年まで)」と書かれていた。その跡地の前の畑には蕎麦の畑が広がっていた。
その後も稲穂の波の光景が続く中を進んだ。遠くにポプラの並木が目に入ったが、ポプラの並木は北海道のような広大な大地によく似合うなあ、と私は歩きながらつぶやいていた。
やがて市街地に戻り、浦臼町役場の庁舎を横に見ながらゴールのJR浦臼駅に着いた。
浦臼町は大きな山もなく、広大な大地が広がっている。そこに武市安哉たちは大きな可能性を感じたのではなかったろうか? その思い通りに現在の浦臼町は豊かな稲作地帯として発展していることが確認できたフットバスウォークだった。
《フットパスウォーク実施日 ’13/09/05 距離約8.9㎞》