瀧口夕美著「民族衣装を着なかったアイヌ-北の女たちから伝えられたこと」を読んだ。瀧口は幼少から思春期にかけて自分の出自に誇りが持てず隠そうとしながら生きてきた。しかし、長ずるに及んで自らのルーツを辿ろうと祖先たちを訪ね歩き、それを一冊の本に著した。それは彼女自身の一つの脱皮の機会でもあったようだ…。
昨日(2日)、札幌市内は一日中吹雪模様だった。そこで私は珍しく一日中一歩も外出しないで、あろうことか!一日読書に専念した。
それというのも、自らに宿題と化していた「民族衣裳を着なかったアイヌ」を一時も早く読了したいという思いがあったからだ。
彼女の著は次のような言葉から始まっている。
『大学二年のころ、英語の授業中に、外国人の先生が「このクラスのなかに、ノン・ジャパニーズはいますか?」と聞いたことがあった。英語でディスカッションするような授業だったと思う。――ちっ、何を聞くつもりだろう――。私はこんな場面でのこの手の質問に協力的ではないので、くさった気分で、下を向いていた。――手を挙げて「私はアイヌです」とでも言うのか?言えば、さらに説明しなければならない。そんなことごめんだわ。授業中、みんなの前で言うようなことでもないし、国籍でいえば、日本だし――と思っていたら、うしろの在日の女の子が手を挙げた。手を挙げたのは、彼女一人だけだった。私は、黙っていることで、彼女に申し訳なく思いはじめた。私みたいに無視しちゃえばよかったのに…と、動揺しながら彼女の話を聞いた。』
ここに彼女の青春時代の自らの出自についての思いが凝縮されているように思える。
先の文章で、「動揺しながら彼女の話を聞いた」という彼女の心の揺れが、この著書を書こうとしたキッカケの一つなのかもしれない。
彼女は自らのルーツについて、辿りはじめた。それは、彼女の母であるユリ子さんにはじまり、ユリ子さんの記憶を通してその父母、「オジジ」と呼ばれる祖父長濱清蔵、さらに曾祖父長濱伊蔵の世代へと時間を遡るように辿っていく。
さらには、母ユリ子と親交のあったウィルタの北川アイ子さん、日本には帰らずサハリンで暮らし続けたウィルタの末裔、などを訪ね歩いている。
ここで採録された彼女の先祖たちの声の一つひとつはとても具体的で興味深く、さらには瀧口の描写も優れていて、ぐいぐいと読み進むことができた。
こうした先祖たちの話を数多く聞く中で、彼女の意識の中にも変化ができてきたようだ。
その過程は、彼女が自らのアイデンティティに目覚める過程だったのかもしれない。
実際、彼女はその間、先祖たちが話していたアイヌ語を理解しようとアイヌ語教室も通っていたようである。
彼女は著書の最後に次のように語っている。
『自分たちのために、自分たちのやりかたでやる方法はたくさん残っている。自分で探せば良いのだった』
つまり、自分の出自について複雑な感情を抱いていた瀧口だったが、先祖の話を聞いて回るうちに、アイヌの苦しく、理不尽な立場について理解し、それに立ち向かった先祖たちを敬いながら、後に続く瀧口たちは先祖たちとはまた違った形で、自分たちの誇りを勝ち取ろうという決意の表れなのだと私は理解した。
「民族衣装を着なかったアイヌ」…、それは瀧口自身のことを指した言葉なのだろう。その思いは、自分をアイヌ、アイヌと声高に言ってはこなかったけれど、先祖たちとは違った形でしたたかに、そして逞しく同胞のために、自分のために、立ち向かい、生きていこうという宣言だったような気がする。
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