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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

第6回『Melange』読書会・合評会

2005年10月16日 21時54分16秒 | 文学
10月16日(日)

今日は第6回『Melange』読書会・詩の合評会を催しました。

第一部の発表者は、詩人の富岡和秀氏です。以下は、富岡氏の発表を聴いて思ったことです。

ボルヘスについて、私は熱心な読者ではありませんが、1970年代に大学時代を過ごした私にとっては、ボルヘス的な思考様式をたっぷりと吸収して育った世代にあたります。それは、ボルヘスが図書館の書籍群から得た知の博物学的な展開によって、知の前では、世界は均等の価値を生み出すのだという思考様式を学んだ、ということになります。

1960年代から1970年代にかけては、レビィストロースが文化人類学の手法で西洋社会から未開といわれた辺境の家族構成を調べることで、人類共通の規範を紡ぎだしたように、いかなる場所の情報/知であっても、普遍性を獲得しうるのだということをボルヘスに教えてもらったのです。そこで取り上げられた東洋のわれわれが見知った情報に接することで、東洋を取り上げるボルヘスに対して親和性を感得するとともに、自分の中の東洋を発見したものです。

それは例えば西洋的な知に対する反措定としてとりあげた"螺旋"という形状にも現されているでしょう。西洋における時間の流れは、トマス・アキナス的な不可逆性によって貫かれているのですが、それを螺旋という西洋社会にとって、プレ・キリスト教=異教的、他者的な図表を持ち出すことで、反・知のありようを提議しているのです。



そして詩の合評会で、私が提出した散文詩です。

◆明るい迷宮
                 大橋愛由等

沖で過積船が沈んでいく。坂の街の迷宮は不思議だ。迷えば坂を上り坂を下ればいい。わたしはその大門が開くのを待っていた。二四人の神官が順に大あくびをする。「老羊についていきなさい」。降ってきた雨はひゅんひゅんという音。真女子(まなこ)と出逢うには碧色が足りない。六つの羽根を持ち身体中に眼(まなこ)があるムシが次に来るまで待てとの黙示に従っている。本当は何度かその門の中に入ったことがある。迷宮は快楽だが塩味の強い苦水(にがみず)しかない。規則正しく並んだ回廊で休んでいたら、そのムシがハタハタと死んでいく。忘れ物を思い出して門の外を出たら、ぐいんという音をたてて大門は閉じてしまった。いつか、果てまで行って還ってきたという僧にあったら「ぐいんが大切なことがわかった」と言っていた。わたしは迷宮の住人になれるだろうか。ヴィノ・ティントが呑めないかもしれない不安を、ぼんやりと近くの枯山水の庭をみながら、「一即多」を考えている。過積船は沈みきってしまった。ロシア語が聞こえたような気がする。「あんたの顔はイワン雷帝に似ている」と言ったオーボエ吹きは迷宮を知っているのだろうか。二四人の神官たちが同時にしゃべり出した。ムシの身体の眼(まなこ)の数の記憶の曖昧さの欠落の語りの文法の誤りをののしりあっている。老羊はゆっくり坂を昇り始めた。ぶつぶつとサンスクリット語の〈馬(アシュバ)〉の語形変化を反復しながらついていく。このまま坂を歩き続けるのだろうか。カーサ・ブランカに荷物を置いたままにしている。一九九四年産リオハのヴィノ・ティントを何本持っていけるだろう。ポリョ・アル・チリンドロンは食べることが出来るだろうか。老羊は停まっているのか動いているのかわからない。



   *真女子〈上田秋成著『雨月物語』の「蛇性の淫」の"ヒロイン"。激しく雨が
   降ってこの世とあの世との結界が溶解した日の夜に出会える〉
   *六つの羽根を持ち身体中に眼がある…/二四人の神官〈『ヨハネの黙示録』
   より。ハルマゲドンに至るディテールに登場する〉

元町で路上音楽祭

2005年10月15日 17時41分34秒 | 神戸
10月15日(土)

昼から激しく雨が降りだしました。

"神戸元町ミュージックウィーク"が何ヵ所かで開催されています。今年で8回目にあたります。プロミュージシャンもいればアマチュアもいる。それぞれ日頃の練習成果を今日の舞台で披露します。神戸や大阪の音系表現者の年に一回の祭典といったらいいのでしようか。

写真は、"ふりむん達"という沖縄・奄美の島唄を演奏するグループです。正面に立っている人が、時々、FMわぃわぃ「南の風」奄美篇の放送を手伝ってくれる山内由紀子さんです。

ディアスポラ

2005年10月14日 21時17分26秒 | 奄美
10月14日(金)

鹿大の桑野季雄氏から電話。今日が締め切りの発表のテーマを決めようということになって、意見交換しているうちに、「奄美戦後史とディアスポラ」となりました。

この分科会は一人20分ほど発表して、そして5分ほど質疑応答の時間を設けるというものです。環境というキーワードとどう結びつけていくかに苦慮したのでずが、奄美群島の住人が、ボーダー(国境)や、国家(日本国)の消長といった社会的・政治的環境の変異によって、〈移動/棄郷〉を余儀なくされる様は、ディアスポラ的位相から考えることも可能ではないかと提案して、桑野氏も了承してくれたのです。

また、午前中に別途、『奄美の戦後史--揺れる奄美、変容の諸相』のおもな著者を集めて、シンポジウムを鹿大でしようかとも、前利潔氏と考えています。 


思いつかなかった単語

2005年10月13日 21時51分46秒 | 文化
10月13日(木)

いま、新聞の整理をしています。購読紙は朝日と読売の二紙(本当はもう一紙・南海日日新聞を取りたいのですが)。

整理しはじめたのは、今年の朝日。ところが、新聞を納めている物入れの奥に、1998-98年の整理がまだすんでいない新聞の束があったので、それを切り抜き始めたのです(最終的には切り抜いたものを、紙に張り付け、A5判ファイルにまとめます)。

私が切り抜くジャンルは、思想・評論、文学、俳句・短歌、在日、地域文化、アート・芸能など。夕刊の学芸欄を手始めに、朝刊の文化欄、日曜の読書欄が主な対象です。

切り抜いた記事を眺めていて、数日前に思いつかなかった単語が出てきます。"キュレーター"という言葉です。美術館において、作品を購入したり、展覧会を組織する人たちのことを言うのです。学芸員という職種の人だちでしょう。このキュレーターが現代美術に果たす役割は大きく、歴史的評価がさだまっていないコンテンポラリー芸術に関して、どんな作品を購入するのか、またどのような作品展を企画するのかが、このキュレーターの手にかかっているのです(朝日新聞1998.3.16建畠晢「〈キュレーター時代〉に潜む危うさ」)。

かつて、この国の現代美術に少なからぬ刺激を与え続けた兵庫県立近代美術館の"アート・ナウ展"では、作家たちと、このキュレーターたちの合作といった方が正確であるような情況だったそうです(この事情を聞くまで、キュレーターの持つ決定権の大きさばかり注目していたのですが、そうでもないようです)。しかし建畠氏は「展覧会のの求心力の大きさが、逆に美術の可塑性を、自己革新の力をひそかに拘束し衰弱させているのではないかという危惧は否定しきれない」として、さらに「肝心の美術の現場が停滞して展覧会だけが栄えるということになってしまっては本末転倒でろう」とも書いています。これは7年後の今日でも充分議論の対象となるテーマではないでしょうか。

もうひとつ、切り抜きを整理していて、驚いた記事があります。朝日1998.4.1学芸欄の市田良彦・神戸大学助教授が書いたイタリアの哲学者であるアントニオ・ネグリの動静についてのものです。その記事は、ネグリがイタリアの公安当局によって逮捕され獄中にいることに対して、世界中から恩赦の動きがあるというものです。この記事中には、後にハートと共著となった『帝国』について書かれていませんが、世界中の哲学や社会思想に大きな影響力を与えたネグリの動静がすでに、学芸欄で補足されていることに驚いたのです。

新聞の整理というのは、ファイリングしてしまえば、ブラックボックス化するものですが、時にこうして活用されることがあるのです。


鹿大でシンポ

2005年10月12日 18時57分35秒 | 奄美
10月12日(水)

昨日、京都東山を歩いていたら、携帯が鳴ります。

桑原季雄氏(鹿児島大学法文学部人文学科)からです。

12月3日に行われる|鹿児島大学プロジェクト「島嶼圏開発のグランドデザイン:南西諸島における環境ガバナンス型地域政策」からみた島嶼地域と大学の関係性|の中の、第三分科会〈人間、社会、文化と環境ガバナンス〉で、パネル・パネルディスカッションが行われ、そのパネラーの一人として、出席してもらえないか、という打診でした。

私以外には(1)花井恒三(2)前利潔(3)田畑千秋の各氏が予定されています。田畑氏の発表内容は「奄美における民俗文化の変容と開発」と決まっています。わたしもこれから発表手テーマを決めなくてはなりません。

このところ、何本か関西における奄美出身者の動向に関する論考をいくつか書いているので、その趣旨にそって、発表しようと思っています。

ちなみに桑原季雄氏は、『奄美の戦後史--揺れる奄美、変容の諸相』の中に「奄美開発再考」というテーマで論考をお書きになった人です。

庭園というカオス/6

2005年10月11日 21時29分51秒 | 紀行文
この方丈院の庭は昭和13年に 重森三玲という人が作庭したもので新しいものです。しかし多くの人たちから支持されて、今ではすっかり禅庭として認知されているのです。伝統とは新しく創られるものなんですね。

庭というのは、仏教寺院の中にあるというだけで、深遠な宗教性を感得してしまうから不思議です。非仏教施設にもすばらしい庭園は多いのですが、宗教という付加価値がつくとつかないとでは、どうしても庭に対する意味付与の度合いが違ってきます。

また枯山水というコンセプトも、禅庭ならではのものなんですね。浄土系は、疑似自然あるいは自然を凝縮したコンセプトで作庭されている。

そして、借景こみに作庭されたものを含めて、庭というのはどうも、ある完結したコスモスを一望のもとに視覚の中に収めるという視る者の快楽のための作為であるようです。そしてそこに表象されているのは、〈コスモス/世界〉そのものではなく、常に日本の風土の中にさらされ転位していく(=毀れる、苔がむす、土壁が劣化する…)という〈カオス/剥落〉という"あやうさ"と同居していることの表現形態なのではないでしょうか。



庭園というカオス/5

2005年10月11日 16時22分11秒 | 紀行文
禅堂はいまだ宗教修行の場として機能し続けています。

東福寺が13世紀(1243年)に建立された当初は、一宗派に偏した施設ではなく、天台、真言、禅が同居する仏教センターのような修と学の機能を持っていたのです。今でも古刹である奈良の当麻寺にはいくつかの宗派が同居しています。12~13世紀までの寺院は、宗派というセクショナリズムに偏する必要はなかったのでしょう。

それが、寺というのは、ひとつの宗派に属しているのだという"常識"が形成されるようになったのはいつ頃からなのでしょうか。

浄土宗系や法華宗系は、室町時代という動乱の中世には、ひとつの寺院は一宗派に属する施設であることにおわらず、ひとつの町が一宗派の色で染まる(=統治される)といった寺内町を形成するまでに至っています。さらに自衛のためだとはいえ、軍事・政治的能力も追加してピーブルズパワーの顕現に大きな動機を与えたのです。

これらと比較すると、禅宗系には、こうした宗教を越えた動きはどれだけあったのか知りたいところです。それとも、この禅には他者との交通という意味で、社会変革というコードがもともとインプットされていないのでしょうか。戒を守る宗派としての禅にもうすこしまなざしを向けてみたいものです。

庭園というカオス/4

2005年10月11日 15時33分12秒 | 紀行文
陽が照ってきました。

今は南庭にいます。ここからの眺めは、京都市内にあってもビルなど思惟を遮蔽する他者がいっさい存在せず、同じ東福寺の伽藍が見えるばかりの、時代を超克した光景を形成しています。

南庭にのぞむ軒下には、しばらくたたずむことが出来るように、筵(むしろ)が敷かれています。そこでしばらく黙と睡の世界にただよっていました。私の隣りには青年がひとり。何を考えているのでしょう。同じくこのカオスなる庭園を呼吸しています。30年前の私が、すぐ隣りにいるような錯覚に襲われます。 

遠くに幼児の鳴き声。そろそろ、たゆたいの時間を終えます。

庭園というカオス/3

2005年10月11日 14時38分33秒 | 紀行文
国や宗教に関係なく寺と名のつく場へ足を運ぶのは好きなのですが、禅宗は、寺院施設そのものが、宗教的教義の身体延長のように作られています(この意味で日本の仏教宗派の中で一番宗教的、哲学的なひとつなのかもしれません)。極力彩色を抑え、イコンさえも殆どないその美の構想力は、同じ仏教の密教寺院のバロック的包含性の対極に位置します。

特に禅宗の修行僧がいるような寺院は、造作(建築物)や庭などの、どのパーツをみてても、部分(一)に全体(禅の教義)が宿り、どんな小さなものにでも〈意味〉が付帯していることが理解できます。つまりパーツ=極微に宇宙が宿るといった哲学性を内包している様が感得できるのです(ただ、日本の文化は、華厳の「一即十 十即一」の中の「一即十」は獲得しているものの、全体の中に部分を見るといった感性・思惟装置は「一即十」ほどに鋭敏に機能しているのでしょうか)。


庭園というカオス/2

2005年10月11日 14時13分23秒 | 紀行文
また雨が降ってきました。

方丈院の北端にある少し張り出した東屋にいます。ここからの紅葉は絶景でしょう。真下は深い渓谷。まあなんとも贅沢な造作の庭です。

私の周辺には誰もいません。ただ雨音と鴉の鳴き声。そんな中、庭と木々と鳥たちと向かいあい弁当を広げます。そしてひそかに持ち込んだ赤ワインを呑んでいます。禅庭とスペイン産赤ワインのキッチュな組み合わせを楽しんでいます。

庭園というカオス/1

2005年10月11日 13時51分08秒 | 紀行文
朝からしどけなく降る日だからこそ、禅庭を見たいと思いなし、いま京都・東山の東福寺にひとり来ています。

方丈院にいる私の耳を疑っても聞こえてくるのはツクツクボウシの鳴き声。"法師"という名がつくゆえに、十月のこの今となっても、生きながらえていることを許されているのでしょうか。

テーマは〈ボルヘスと迷宮〉

2005年10月10日 22時22分07秒 | 文学
10月10日(月)

詩誌『Melange』の第6回読書会と詩の合評会が16日(日)に行われます。

第一部の発表者は、詩人の富岡和秀氏。テーマは「ボルヘスと迷宮」です。

発表資料は以下のサイト(あるいは下の「ボルヘスと迷宮」をクリックしてください)に貼り付けていますので、ごらんになってください。

http://melange.hp.infoseek.co.jp/Melange.tomioka.htm
ボルヘスと迷宮

第二部の詩の合評会に参加したい人は13日までに提出していただいたら、事前に出席予定者にメールでお知らせします。投稿していただいた詩稿は、当日出席欠席にかかわらず一冊の小詩集に仕立てます。

第一部、第二部ともだれでも参加できます。出席希望者は申し出てください。

哀しみの表現

2005年10月09日 22時22分48秒 | 文化
10月9日(日)

ひとつの芸能には基層となるなにかの感情表出があります。あるいは目指すべき感情/情緒の表現といってもいいのかもしれません。

例えばフラメンコは、"哀しみ"の表現を重要な要素としています。明るい曲もあるのですが、この芸能のジャンルでは、感情表現の基層として"哀しみ"をいかに、上手に表出するかにかかっていると見受けられます。それはバイレ(踊り)、カンテ(唄)、ギターラにも共通していることです。

バイレは身体所作の"切れ"、四肢の感情表現の卓越さも問われます。ソロで踊ることも多い芸能なので、舞台の上で"舞い"はくるくると360度転回します(この意味で多くの日本人は舞いを身体表現の文化として遺伝子的に組み込まれていないので、試練のひとつとしてなるのです)。どの方位から見ても、フラメンコであることが求められます。

「アイ~」と歌いだすこと曲もあるカンテ。奄美の島唄でいえば「ハレ~」でしょう。天才的なカンテなら「アイ~」と歌いだすだけで、涙が出てきそうに感激します(奄美のよき唄者の「ハレ~」もまたしかり)。喉を絞り出すように歌うカンテ。その発声方法は奄美の島唄で必要とされている"なつかしさ"や"グイン"に共通するような、"哀しみ"が基層になっています。スペイン・アンダルシーアと奄美はみごとにユーラシア大陸の西のはずれと東のはずれで離れすぎています。また、とりたてて一緒の土俵に乗せて語ることもないのですが、今日の冒頭に書いた「ひとつの芸能には基層となるなにかの感情表出がある」というテーゼでくくれそうな気もします。

そしてギターラ。弦楽器なのですが、フラメンコのギターはまるで打楽器のように使うこともあります。弦以外の胴体を打楽器のように使うこともあり、弦をつまびくというより激しく打ち鳴らすこともあります。共鳴箱(胴体)がしっかりしているので、よく響くのです。一方の奄美の三線ですが、ギターほど胴体が大きくないのですが、卓越した三線弾きの手にかかると、上から下にうち下ろすひとつの音だけで、その会場・空間に鳴り響き、凛とした音空間が現出するのです。この例として坪山豊さんの三線奏法を例として挙げるのが適当でしょう。

この"哀しみ"は、それぞれの民族が歴史的社会的にこうむった負荷を、民族の記憶として、ひとつひとつの歌に再生産させているということであり、かつまた永年にわたって、すぐれた演奏者がその感情表現を錬磨していった結果であるともいえるでしょう。


鹿児島大学で12月に発表

2005年10月08日 18時15分15秒 | 奄美
10月8日(土)

鹿児島大学で12月3日(土)に、「国際的な文化発信と奄美・沖縄」をテーマとする発表会と、シンポジウムが催されます。具体的には「島嶼圏開発のグランドデザイン:南西諸島における環境ガバナンス型地域政策」に関する内容についていくつかの分科会がもたれるのです。 

私も、この催しに参加して発表しようと思っています。推薦されているのは、第3分科会で、「仮称/人間、社会、文化と環境ガバナンス」というテーマが掲げられています。(1)島嶼の中の人々(2)歴史の変容と開発(3)社会意識の変容と開発(4)文化意識の変容と開発(5)島嶼コミュニティと環境ガバナンス--といった内容です。司会・責任者は桑原季雄さんです。

一方で、拙稿を含む論考集『奄美の戦後史--揺れる奄美、変容の諸相』(南方新社刊)がせっかく刊行されたので、戦後60年という重要なメルクマールの年の最後に、奄美に関するパネル・ディスカッションがこの機会に出来ないか、何人の人に提案している最中です。

またこの途中経過を報告することにしましょう。

2年分のデータ整理

2005年10月07日 23時57分49秒 | FMわぃわぃ
10月7日(金)

私が制作とDJを務めるFMわぃわぃ「南の風」奄美篇のQUE SHEETと付随する資料の一年ごとのファイリングをしていたら、2年分のデータがたまっていたことに気付きました。

「南の風」は1996年7月にスタート。沖縄篇と奄美篇とにわけて隔週に放送し、わたしばずっと一人で奄美篇を担当してきました(沖縄篇は何人か代わっている)。その一年ごとの原稿類、資料をA5判のファィルにまとめていくのです。一年に一冊ずつまとめているはずが、一冊足りないのです。よくみていると、2003年-2004年分が未整理であることに気付いたのです(番組は7月17日から始まるクルーからスタートしたので、7月17日から翌年の7月16日までを年度とするのです。ちなみにクルーが月半ばの17日から始まるのは、この放送局が阪神大震災〈1995.1.17〉が起きた17日を起点にしているためです)。

ちょうどこの時期、奄美にとっては「復帰50年」を迎えるメルクマール的な年であると同時に、FMわぃわぃが既存の番組を大幅に減らした時期とも重なります。つまり2003年秋にそれまであった多くの番組が姿を消し、縮小体制で再出発せざるを得ない事態となったのです。その中で「南の風」は、生き残った数少ない番組の一つです。これは、ネットラジオという特性を活かして、インターネット経由で聴いていただいている「南の風」ファンの方々がFMわぃわぃに対して、存続を求めるメールを出したこともプラスとなったようです。

さて、そのファイリングなのですが、一冊にまとめて活用するかというと、いつもいつもは活用はしないのですが、いざというときに役立ちます。それに一年に一冊ずつ殖えていくファイルを見ることはなによりも、自分にとっての勇気づけとなるのです。