10月16日(日)
今日は第6回『Melange』読書会・詩の合評会を催しました。
第一部の発表者は、詩人の富岡和秀氏です。以下は、富岡氏の発表を聴いて思ったことです。
ボルヘスについて、私は熱心な読者ではありませんが、1970年代に大学時代を過ごした私にとっては、ボルヘス的な思考様式をたっぷりと吸収して育った世代にあたります。それは、ボルヘスが図書館の書籍群から得た知の博物学的な展開によって、知の前では、世界は均等の価値を生み出すのだという思考様式を学んだ、ということになります。
1960年代から1970年代にかけては、レビィストロースが文化人類学の手法で西洋社会から未開といわれた辺境の家族構成を調べることで、人類共通の規範を紡ぎだしたように、いかなる場所の情報/知であっても、普遍性を獲得しうるのだということをボルヘスに教えてもらったのです。そこで取り上げられた東洋のわれわれが見知った情報に接することで、東洋を取り上げるボルヘスに対して親和性を感得するとともに、自分の中の東洋を発見したものです。
それは例えば西洋的な知に対する反措定としてとりあげた"螺旋"という形状にも現されているでしょう。西洋における時間の流れは、トマス・アキナス的な不可逆性によって貫かれているのですが、それを螺旋という西洋社会にとって、プレ・キリスト教=異教的、他者的な図表を持ち出すことで、反・知のありようを提議しているのです。
そして詩の合評会で、私が提出した散文詩です。
◆明るい迷宮
大橋愛由等
沖で過積船が沈んでいく。坂の街の迷宮は不思議だ。迷えば坂を上り坂を下ればいい。わたしはその大門が開くのを待っていた。二四人の神官が順に大あくびをする。「老羊についていきなさい」。降ってきた雨はひゅんひゅんという音。真女子(まなこ)と出逢うには碧色が足りない。六つの羽根を持ち身体中に眼(まなこ)があるムシが次に来るまで待てとの黙示に従っている。本当は何度かその門の中に入ったことがある。迷宮は快楽だが塩味の強い苦水(にがみず)しかない。規則正しく並んだ回廊で休んでいたら、そのムシがハタハタと死んでいく。忘れ物を思い出して門の外を出たら、ぐいんという音をたてて大門は閉じてしまった。いつか、果てまで行って還ってきたという僧にあったら「ぐいんが大切なことがわかった」と言っていた。わたしは迷宮の住人になれるだろうか。ヴィノ・ティントが呑めないかもしれない不安を、ぼんやりと近くの枯山水の庭をみながら、「一即多」を考えている。過積船は沈みきってしまった。ロシア語が聞こえたような気がする。「あんたの顔はイワン雷帝に似ている」と言ったオーボエ吹きは迷宮を知っているのだろうか。二四人の神官たちが同時にしゃべり出した。ムシの身体の眼(まなこ)の数の記憶の曖昧さの欠落の語りの文法の誤りをののしりあっている。老羊はゆっくり坂を昇り始めた。ぶつぶつとサンスクリット語の〈馬(アシュバ)〉の語形変化を反復しながらついていく。このまま坂を歩き続けるのだろうか。カーサ・ブランカに荷物を置いたままにしている。一九九四年産リオハのヴィノ・ティントを何本持っていけるだろう。ポリョ・アル・チリンドロンは食べることが出来るだろうか。老羊は停まっているのか動いているのかわからない。
*真女子〈上田秋成著『雨月物語』の「蛇性の淫」の"ヒロイン"。激しく雨が
降ってこの世とあの世との結界が溶解した日の夜に出会える〉
*六つの羽根を持ち身体中に眼がある…/二四人の神官〈『ヨハネの黙示録』
より。ハルマゲドンに至るディテールに登場する〉
今日は第6回『Melange』読書会・詩の合評会を催しました。
第一部の発表者は、詩人の富岡和秀氏です。以下は、富岡氏の発表を聴いて思ったことです。
ボルヘスについて、私は熱心な読者ではありませんが、1970年代に大学時代を過ごした私にとっては、ボルヘス的な思考様式をたっぷりと吸収して育った世代にあたります。それは、ボルヘスが図書館の書籍群から得た知の博物学的な展開によって、知の前では、世界は均等の価値を生み出すのだという思考様式を学んだ、ということになります。
1960年代から1970年代にかけては、レビィストロースが文化人類学の手法で西洋社会から未開といわれた辺境の家族構成を調べることで、人類共通の規範を紡ぎだしたように、いかなる場所の情報/知であっても、普遍性を獲得しうるのだということをボルヘスに教えてもらったのです。そこで取り上げられた東洋のわれわれが見知った情報に接することで、東洋を取り上げるボルヘスに対して親和性を感得するとともに、自分の中の東洋を発見したものです。
それは例えば西洋的な知に対する反措定としてとりあげた"螺旋"という形状にも現されているでしょう。西洋における時間の流れは、トマス・アキナス的な不可逆性によって貫かれているのですが、それを螺旋という西洋社会にとって、プレ・キリスト教=異教的、他者的な図表を持ち出すことで、反・知のありようを提議しているのです。
そして詩の合評会で、私が提出した散文詩です。
◆明るい迷宮
大橋愛由等
沖で過積船が沈んでいく。坂の街の迷宮は不思議だ。迷えば坂を上り坂を下ればいい。わたしはその大門が開くのを待っていた。二四人の神官が順に大あくびをする。「老羊についていきなさい」。降ってきた雨はひゅんひゅんという音。真女子(まなこ)と出逢うには碧色が足りない。六つの羽根を持ち身体中に眼(まなこ)があるムシが次に来るまで待てとの黙示に従っている。本当は何度かその門の中に入ったことがある。迷宮は快楽だが塩味の強い苦水(にがみず)しかない。規則正しく並んだ回廊で休んでいたら、そのムシがハタハタと死んでいく。忘れ物を思い出して門の外を出たら、ぐいんという音をたてて大門は閉じてしまった。いつか、果てまで行って還ってきたという僧にあったら「ぐいんが大切なことがわかった」と言っていた。わたしは迷宮の住人になれるだろうか。ヴィノ・ティントが呑めないかもしれない不安を、ぼんやりと近くの枯山水の庭をみながら、「一即多」を考えている。過積船は沈みきってしまった。ロシア語が聞こえたような気がする。「あんたの顔はイワン雷帝に似ている」と言ったオーボエ吹きは迷宮を知っているのだろうか。二四人の神官たちが同時にしゃべり出した。ムシの身体の眼(まなこ)の数の記憶の曖昧さの欠落の語りの文法の誤りをののしりあっている。老羊はゆっくり坂を昇り始めた。ぶつぶつとサンスクリット語の〈馬(アシュバ)〉の語形変化を反復しながらついていく。このまま坂を歩き続けるのだろうか。カーサ・ブランカに荷物を置いたままにしている。一九九四年産リオハのヴィノ・ティントを何本持っていけるだろう。ポリョ・アル・チリンドロンは食べることが出来るだろうか。老羊は停まっているのか動いているのかわからない。
*真女子〈上田秋成著『雨月物語』の「蛇性の淫」の"ヒロイン"。激しく雨が
降ってこの世とあの世との結界が溶解した日の夜に出会える〉
*六つの羽根を持ち身体中に眼がある…/二四人の神官〈『ヨハネの黙示録』
より。ハルマゲドンに至るディテールに登場する〉