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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

南島歌謡の発生

2006年03月03日 15時03分27秒 | 思想・評論
いま、わたしが手にしている本は、小野重朗著『南島歌謡』(NHKブックス)。

南島歌謡の発生を考える際の基本テキストのひとつでありながら、版元で在庫切れ。いくつかの古書肆ネットで検索しても、取り扱いなし。困り果てていたのです。

わたしが主属している俳誌「豈」に、筑紫磐井氏が書いた本の書評という形で、南島歌謡の発生について言及しようと思っているので、どうしても目を通しておきたかった一書だったのです。

それが、今年一月に、奄美・名瀬市の古書肆「あまみ庵」に寄った時、見付けたのです。その時のわたしの驚きようったらありませんでした。

この小野が説く歌謡発生理論に与しているわけではないのです。わたしはどちらかというと、うたの現場から発想された小川学夫論に近い立場を取るのです。


いくつもの小分けされたラーゲリ

2006年02月26日 21時56分50秒 | 思想・評論
本日、第9回『Melange』読書会で発表。テーマは、「沈黙は失語を濾過する--石原吉郎の世界」。

戦後60年たったいま、強烈なラーゲリ体験をした石原の体験(エッセィ)と表現(詩)をどう読むのかを私なりに問うたのです。

現在の管理社会の中に潜む〈いくつもの小分けされたラーゲリ〉に、石原が体験したソ連のラーゲリが形を変え、矮小化しながらも現出し、人々が言葉を失われていく情況が生み出されているのではないかと、提議したのです。

石原作品の魅力は「見たものは/見たといえ」(「事実」より)との詩句で表現されているように、〈在るもの/こと〉を〈在るもの/こと〉として直截的に受け入れながらも、詩作品では抽象化し得ているということでしょうか。

やっとみつけた言葉

2006年02月25日 23時05分05秒 | 思想・評論
「服従をしいられたものは、あすもまた服従をのぞむ」(石原吉郎「沈黙と失語」より)

この言葉、何年典拠を捜していたでしょう。津村喬氏がどこかに誰かの言葉を引用して書いていたと思い込んでいたのです。GOOGLEで検索するも出てこない(「今日抑圧された者は、明日も抑圧されることを望む」と覚えていた。記憶って曖昧なものですね)。

どうも、昶さんの『詩人 石原吉郎』を編集している時に、この言葉に接したようです。

石原はラーゲリ体験の日常の絶望をこのように表現したのです。ただこの次に続く、「それが私たちの〈平和〉である」は忘れていたし、いまもって衝撃です。


今年もカルチャル・タイフーンに応募

2006年02月22日 23時02分20秒 | 思想・評論
今年も7月に行われる「カルチャルタイフーン」企画に、去年に続いてエントリーしようと思っています。今年の会場は、東京の下北沢。街そのものが会場になるというもので、この思潮に合った会場設定ですね。6月30日(金)、7月1日(土)、2日(日)の三日間開催されます。

今回も、わたしが企画するのは、奄美に特化した試みです。テーマは、「奄美の何が語られたのか----南島・琉球弧・奄美・シマ」(仮題)。

世代の異なる「奄美語り」に参集していただき、奄美の何が語られたかというより、奄美の何が語られなかったかをテーマにしたいと思っています。

つまり、奄美は、ヤマトの知識人、思想家、表現者から、〈南島/琉球弧〉と呼称され、研究と表現の〈対象〉となってきました。近年ようやく〈奄美〉という名のもとに、奄美内部から語られ始めたと同時に、〈いくつもの奄美〉という解体作業も同時に進行しています。そして島の内部や二世の人たちの間からは、奄美ではなく〈シマ〉に直接還元していこうとするアイデンティティの動きがあります。この〈シマ〉とは、奄美という総体ではなく具体的な奄美大島、徳之島、沖永良部島といった島であり、かつ国家と対峙する原基であるシマ(集落/クニ)でもあるのです。また、〈何が語られなかったか〉という問いは、奄美の人そして奄美出身者に向けられたものです。復帰運動や対薩摩に対して繰り返される〈語り〉は自足しあるいは自閉していないかという問いかけであり、そこで語られてこなかったものとは一体何なのかも考えてみたいと思うのです。そしてこの〈南島・琉球弧・奄美・シマ〉といった名辞と概念は、時系列的に消費されていったものではなく、奄美を語る際の重層的な分母的言説として、今もってそれぞれが有効であるとの認識にたっています。 

予定しているパネラーは以下の方々です(交渉中の人も含む)。

・松田清氏(徳之島出身、「道之島通信社」、社会運動研究家)
・藤井貞和氏(詩人、国文学者、東大名誉教授)
・関根賢司氏(国文学者、静岡大学教授)
・酒井正子氏(文化人類学者、川村学園大学教授)
・前利潔氏(沖永良部島在住者、奄美の論客)
・高橋孝代氏(芝浦工業大学専任講師)
(司会進行)大橋愛由等

といった構想です。去年の熱き語りをもう一度再現しようと思っています。

運動会の光景

2005年09月24日 18時36分51秒 | 思想・評論
9月24日(土)

この三連休中、神戸市内の各地で、小中高校の運動会が行われています。

運動会の最初は、入場行進です。整然とした行進をするよう日本の学校教育では、小学校の頃から躾られます。中学生になる頃には、入場式の行進というのは、こういうものだという刷り込みが完了しているのです。 

これは、明治以降に日本の教育現場に採り入れられた軍隊式修練のひとつと思われ、軍国主義が潰えた戦後になっても継承されています。もちろん、戦後生まれの私もこうした集団教育を受けてきたわけです。

ところが、数年前に、英国のパブリックハイスクールで学んだ若い日本人女性と話していると、ロンドン市にあるその学校では、生徒たちが整然として行進するという機会がなく、またそうした訓練もしたことがないということです。

これですぐ気付くのが、国威発揚の場であるオリンピックの入場行進です。日本人が一糸乱れぬ歩調と規律正しい集団美を演出させたのは、東京オリンピック(1964年)の日本人選手団の姿がまず瞼に浮かびます。たしか、あの時代は、閉会式の時も、整然と行進していたように記憶しています。

これに較べて、他の西洋各国は、国としてまとまって行進していたものの、何百人が同時に、右足を出して次左足といったように、同じ歩調、同じ歩幅で歩くという姿ではありませんでした(これは現在も一緒ですが)。

この傾向がすぐ分かるのが、アフリカなどの小国の場合です。数人で参加する場合、歩調を合わせず悠然と歩いている姿を想起してもらえば分かると思います。日本人なら、少数であっても、歩調を合わせて入場するのではないでしょうか。これは一つの民族の姿(シーニュ)なのでしょう。

オリンピックは為政者にとって、そしてその国民にとって、国威発揚の絶好の機会であるので、ベルリンオリンピック(1936年)のナチスドイツ、そして現在行われている北朝鮮の数々の国家行事パレードも、一糸乱れぬ行進によって国家・国民が一体となって行動していることを示唆するのです。

先にこの日本人にとってこうした入場行進をするようになったのは、明治以降だと書きましたが、近代を迎えるにあたって、西欧に追いつくために、国家は日本人にさまざまな身体加工を施したということは三浦雅士の著作によって明らかにされています。つまり近世までの日本人(その大半を占めていた農民たち)も、集団で歩調を合わせて行進するという機会はなく、いざ軍隊式の集団歩行を学校教育の中に採用しても、当初はなかなかうまくいかなかったようです。

西洋化を取り入れて約140年、日本人の身体所作は大きく変わりました。運動会行事における入場行進の次のマスゲームは、全員による準備体操です。何百人が同じ体操服を着て、一斉に右手を同じ方向、同じ角度に上げるさまは、視覚的にも社会的にも日本人が集団美と感じる一瞬です。すでに日本人は、こうした光景をごく普通の日常光景として認識するようになっています。(この意味で、百人以上の人たちが、同じ連のもとに、一糸乱れぬ踊りを展開する阿波踊りは、昔からあのようだったのでしょうか。同じ浴衣で編み笠を目深に被って一人ひとりの個を抹消して集団で踊るさまにも注目したいものです)。



出自の地へ

2005年09月13日 18時32分47秒 | 思想・評論
9月13日(火)

京都在住の時調(しじょ/朝鮮民族の定型詩)作家である金里博(キム・リバク)氏が、今月、61年ぶりに故郷の韓国へ帰郷されます。

これは、氏の第二時調集『国覓(くにまぎ)/日本語版題名』が韓国でも出版されることになり、その祝賀会がもたれるためです。

ただ、里博氏は過去の活動歴から韓国国内の「国家保安法」違反の対象となる(つまり、韓国で逮捕され、拘留される)のではないかという懸念を示されています。「無事に帰ってこれるよう最大限努力したしますが「不本意」な事になりましたら宜しくお願いいたします」と悲壮な覚悟のメールを送ってこられました。

誰よりも故国を愛し、祖国分断を嘆いてきた里博氏がようやく母なる大地に戻ることが果たせるのですが、政治的に「在日」であることを強いられてきた〈思想的エグザイル(難民)〉としての蓄積は、簡単に帰郷を悦ぶ環境にはないということです。

われわれはまだ日常生活の中に、現代史の困難を内包しているのです。

以下の詩句は、私が無事に京都へ戻られることを切望している趣旨のメールを送ったところ、里博氏から届いた心づくしの作品です。



   友へ
     - 大橋愛由等君に


私の心深く深くに
古里が有って
季節の折々
気候の変わり目
月の満ち欠けに
その古里が疼く。

誰だって故郷は有る、と言う。
そう
「在日」でなければ
故郷は
懐かしく思い、また思い出すものだが、
「在日」生活61年の私には
思い出すたびに、何かの拍子に止めどもなく
古里は古傷のように疼く。

冬の玄海灘を越えてくる西風に耳を澄ませ
秋に帰る渡り鳥に心を痛め
夏の炎天に全身を曝し
春の芽吹きに両瞳が疼く。

日本のある詩人は
「故郷は遠きにありて思うもの」と、うたったが
私は、
産まれ抱かれた所では有っても
立ち、踏んだ記憶の無い古里は
61年ぶりに玄海灘を越えんとする今も
熱く、抉られるように疼く-

            05.9.12 

奄美に関する論考集上梓

2005年09月02日 08時57分58秒 | 思想・評論
9月2日(金)

私が書いた論考を含む奄美論集が上梓されたので紹介しておきましょう。

この本は、沖永良部島の前利潔氏が発案・企画したものです。いわば"前利人脈"によるものです。氏の付き合いの広さを伺い知ることができます。また、鹿児島大学に所属する研究者も数人参加しているのも特徴でしょう。また、将来、確実に奄美の言説をになってたつ若手の本山謙二氏、高橋孝代氏が参加していることも注目していいと思います。

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『奄美戦後史--揺れる奄美、変容の諸相』
              (鹿児島県地方自治研究所編  南方新社刊)
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はじめに                    平井 一臣

〈第一部〉 復帰運動再考
"阪神"の復帰運動に至る奄美出身者の慟哭      大橋愛由等
復帰運動史の中の南二島分離問題         川上 忠志
「北緯30度」とは何だったのか          杉原  洋
奄美群島の分離による地域の政治的再編と政党   黒柳 保則

〈第二部〉 戦後社会の変容と奄美
鹿児島市のシマ                 本山 謙二
沖永良部島の戦後史から現在をみる        高橋 孝代
奄美開発再考                  桑原 季雄
「奄美を考える会」が語ってきたもの       仙田 隆宣

〈第三部〉 奄美のいまとこれから
軍事基地問題と奄美               丸山 邦明
復帰後の奄美の変容               薗  博明
奄美市誕生の軌跡                久岡  学
奄美振興開発事業と産業・財政・金融の分析    皆村 武一

〈座談会〉開発の政治と復帰運動  前利 潔/平井一臣/桑原 季雄/杉原 洋

あとがき                    山本 一哉
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四六判並製本 本文384頁 本体2000円+税
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今回の版元は、鹿児島の「南方新社」。同じ出版社の立場で言わしていただくと、その頑張りようは、頭が下がる思いです。かつて、私が勤めていた海風社(社主は徳之島伊仙町出身の故作井満氏)も、年間50冊を刊行した年があったのですが、南方新社も今は絶好調のノリ。この会社があることで、多くの奄美関係書が世に多く出されたことを思うと、同業者の立場を離れて、読者として、そして奄美にかかわる者として、感謝したい気分です。

私の「"阪神"の復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」は、約50枚の長さ。1945年の敗戦直後から、1953年の奄美の日本復帰(施政権返還)にいたるまでの約8年間に、神戸を中心とした関西の奄美出身者の動向を、紹介・分析しています。

論考では、この8年間を
〈第一期/敗戦の混乱~「祖国分離」・郷土会の乱立期/一九四五年八月~一九五一年一月〉
〈第二期/対日講和条約へ・署名運動の展開/一九五一年一月~一九五一年九月〉
〈第三期/復帰運動の再建・低迷期を経て運動の高揚/一九五一年十月~一九五二年八月〉。
〈第四期/二島分離反対運動・「もうひとつの復帰運動」/一九五二年九月~一九五三年十二月〉
に分けて、それぞれの期における象徴的な事象を抽出して、その時、奄美出身者はどのように対応していったのかを、考察していきます。つまり、在ヤマトの奄美出身者がどのように、自己定律化/アイデンティティの確立を図っていったのかを見ていきます。

なお、この論考は、先に大阪の和泉書院から刊行された『南島へ 南島から 島尾敏雄研究』(高阪薫・西尾宣明編、四六上製本 本体2500円+税)に収録されています拙稿「非在化された民たち--島尾敏雄と神戸の〈奄美シマ社会〉」と"対"となる論考です。

これは、島尾敏雄が奄美・加計呂麻島から神戸の実家に復員してきて、ミホさんと結婚し、小説を書き始め、1952年に東京へ向かうまでの間を対象としています。この時、島尾が奄美出身者のシマ社会をどのように見ていたのか、また奄美側が島尾をどのように見ていたのかを、検証しようとしたものです。

二回目の書き込みで長くなってしまいました。

ではまた、読者の皆さん、お会いしましょう。