現在の神戸の地に、客死した中世の人といえば、一遍と楠木正成を思い浮かべます。
一遍は、伊予の人。文字どおり遊行の捨聖を貫きとおし、倒れた場所がたまたま神戸であったということです。当時、観音堂と言われた場所にて入滅し、その場所に建つ真光寺では、9月16日の命日に念仏踊りが奉納されています(ただ現在の踊りは継続されたものでなく、時宗の本山である遊行寺〈神奈川県藤沢市〉から移植されたもの)。
そして正成。湊川の合戦で戦死したと伝えられている場所に、明治になって湊川神社が建立され、国家神道の"軍神"的存在にまつりあげられたのです。
この地には徳川光圀が顕彰碑を建て、水戸学の天皇史観を持つ者にとっては、聖地だったものの、とりたてて、民間の信仰を集めていたとか、立派な社殿が建てられていたといった記録は残っていなく、何百年の間、顧みられることのなかった忘却の地だったのです。
一遍は、伊予の人。文字どおり遊行の捨聖を貫きとおし、倒れた場所がたまたま神戸であったということです。当時、観音堂と言われた場所にて入滅し、その場所に建つ真光寺では、9月16日の命日に念仏踊りが奉納されています(ただ現在の踊りは継続されたものでなく、時宗の本山である遊行寺〈神奈川県藤沢市〉から移植されたもの)。
そして正成。湊川の合戦で戦死したと伝えられている場所に、明治になって湊川神社が建立され、国家神道の"軍神"的存在にまつりあげられたのです。
この地には徳川光圀が顕彰碑を建て、水戸学の天皇史観を持つ者にとっては、聖地だったものの、とりたてて、民間の信仰を集めていたとか、立派な社殿が建てられていたといった記録は残っていなく、何百年の間、顧みられることのなかった忘却の地だったのです。