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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

06奄美ふゆ旅27

2006年01月29日 13時39分34秒 | 紀行文
"ばしゃ山"で奄美カレーを食べ空港に向かいます。

無事飛行機に乗りこみ、多くの人に支えられ、震災翌年から11年間続けている2006年奄美ふゆ旅は終了しました。

今回はFMわぃわぃ「南の風」奄美篇の10本分音源を確保、編集作業をして、コラムを掲載しといる南海日日新聞社との打ち合わせ、名瀬での復帰運動に関する研究発表をこなしたのです。

神戸に帰ってからは、コラムにまとめ、今後の研究のための素材準備、番組構成をしなくてはなりません。


06奄美ふゆ旅03

2006年01月23日 14時27分13秒 | 紀行文
沖永良部島に到着しました。

着陸態勢に入って、高度を下げていくとき、すこし機体がぶれるな、と思っていたのでした。
車輪を地面につけた途端、飛行機はまた上昇していきます。機内は一瞬にして極度の緊張感に覆われます。島の上空を旋回する機体。このまま海に墜落すれば、全員死んでしまうことは、分かっていたからです。

どうも横風を受けて一度目の着陸を断念したようです。北風(ニシ)の思わぬ洗礼にあいました。同行していた野口毅くんは「飛行機に乗っている時間が長くなって楽しい」と母・宗代子さんに言ったそうです。さすが天才少年画家。思うことが凡庸ではない。

飛行機を降りたばかりのわたしです。当然、顔がひきつったままです。

いまから知名町へ向かいます。

06奄美ふゆ旅02

2006年01月23日 12時26分02秒 | 紀行文
なんとか鹿児島空港に到着しました。

同行の野口おやことも会うことが出来ました。ひたすら陳謝。待ってもらっていた南日本新聞文化部の稲富大介記者から取材を受けます。

FMわぃわぃCDライブラリー「坂元武広 徳之島 山(さん)の島唄を歌う」を紹介してもらいます。

さて、これから沖永良部島へ向かいます。

06奄美ふゆ旅01

2006年01月23日 08時41分20秒 | 紀行文
本日(23日)から、四日間の奄美ふゆ旅を始めます。

ところが、恥ずかしいことに飛行機の出発時間を一時間勘違いしてしまい、乗り遅れてしまったのです。

三宮からのリムジンバスの中から飛行機会社などに携帯電話で連絡。伊丹空港に到着後、カウンターに走ってなんとか別便で行けるよう手続き。

同行の野口親子はあきれているのに違いありません。

奄美たびはいつも波乱ぶくみの旅となります。

はやとうりを食べる

2005年11月09日 18時12分18秒 | 紀行文
11月9日(水)

先日訪れた南河内の観心寺の門前で、この"はやとうり"が売られていました。

私は始めて見るものです。1917年にアメリカから鹿児島の人が持ち込んだものであるため、「隼人」の名を冠したようです。

どうしてこの南河内の地で作られているのかは聞くの忘れましたが、色、形状が面白いので、一山二百円で買い求めたのです(茶屋のおばさんが気を遣ってくれて、一山3個のところを4個いれてくれました)。

食べ方はキュウリと一緒でいいとのことでしたので、最初は、豚肉と一緒に炒め物として、翌日は、酢の物として食べたのです。どちらも美味でした。


後南朝を生きる/7

2005年11月07日 18時59分57秒 | 紀行文
ねじれているのです。

自分(明治からの天皇)たちは、勝者の北朝側にもかかわらず、敵であったはずの南朝の忠臣を賛美していることになります。これは、自分たちを御輿に乗せ、東京へ転居させた維新勢力が持っていた価値観に従った結果、亡滅した南側の武士を賞揚せざるを得なくなってしまったのです。

明治新政権の樹立に奔走した志士たちは、藩や、徳川家への所属を越えた新しい主君である天皇への忠誠を正当化するために、歴史的人物(前例)として、正成が存在していたことに注目したのです。この結果、天皇側は自らの皇統を相対化してしまうという論理の矛盾に陥ることになるのです。

明治政府は、南朝を歴史上に復権させるために、南朝系の天皇をあえて、「万世一系」の系譜の中に編集しなおそうとしたのです。これは、南北朝に分裂して以降、500年間だれも手をつけなかった歴史の改竄にほかならないでしょう。この改竄が行われてまだ100年あまり。この明治の皇統再編作業が見直される時代が、この日本という国の歴史の中で現れるかもしれません。


後南朝を生きる/6

2005年11月07日 18時51分06秒 | 紀行文
死せる者を蘇えらせたのは、倒幕勢力の中核を担い、明治維新の成立に貢献した志士たちでした。

坂本龍馬、西郷隆盛らが、正成の自らの生命にかえてまでも天皇に殉じた生き方に心酔し、自分たちのあるべき姿を重ね合わせたことから、彼らによる「善意の墓あばき」がされたのです。

正成の行動の核をつくったのは、滝覚坊という人物です。正成と出会ったのは、比叡山から修行のために観心寺に来ていた時でした。滝覚坊は正成に、四書五経、宋学、国史などを教えます。「そのなかでも正成に大きな影響を与えたのは、弘法大師請来の『心地観経』の中にある四恩の教えである。四恩とは、国王、父母、衆生、三宝に対する四つの恩を意味」(ネット解説より)するとのこと。

特に、志士たちにはこの四恩の教えが大きく影響しています。敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔うことや、恩顧のあった寺院社寺に対する敬虔な態度なども、この教えの影響であると解説されています。

こうして、みごと約500年ぶりに名誉復活した正成は、国民的英雄として評価されるようになるのです。

後南朝を生きる/5

2005年11月07日 18時37分30秒 | 紀行文
正成の首塚です。看板には「御」の字が。

敗者である南朝の武士の首塚は、北朝側が政権を握ってからは、逆臣の故地として静かな時を過ごしたでしょう。この観心寺も、室町幕府以降、時の政権から、冷遇されていたと寺側はネットの解説で書いています。

「当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期六十坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している」(観心寺のHPから)。

しかし、歴史というものは分からないものです。明治になって一転、国家的聖地となっていくのです。


後南朝を生きる/4

2005年11月07日 16時21分44秒 | 紀行文
後村上天皇。

後醍醐天皇の実子であり、南朝の二代目天皇です 〈嘉暦3年(1328年) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)〉。この人の経歴をみていると、一カ所に一体どれほど長く落ち着いていたのかと思うほど、南朝の消長そのものに、各地を転戦した人生を過ごした天皇だったのです。つまり父・後醍醐の運命が移植されたかのような、流離する王でした。

亡くなったのは、足利義満将軍が就任した後に「御座所」にしていた現大阪市住吉区の津守氏(住吉大社宮司)の住之江殿でした。そして陵として選ばれたのが、南朝の忠臣・楠木家ゆかりの、密教(真言宗)の寺院(観心寺)だったのです。いまは宮内庁によって墳墓、参道ともに整備されていますが、隠れ墓所のような境内の奥まった場所に位置しています。半ば隠蔽するような場所であり、かつ半ば秘所としてあるような設定です。 

ここは、南朝が滅びた後、何百年と見向きもされなかった墓所だったかもしれません。参道が整備される前は訪れる人さえ、殆どいなかったのではないでしょうか。

私が到着した時も、陵を覆う大樹が奏でる風音が聞こえてくるばかりでした(稜の前に、おじさんが一人、座って休憩していました。メモらしきものをじっと眺めていたのですが、ただそこで時を過ごしているだけりような。後村上天皇のことを尋ねたのでずが、知らなかったようです。墓守りの人か、あるいはこの天皇の従者の化身かとも思ったのです。不思議なところに人が不思議にいるものです)。


後南朝を生きる/3

2005年11月07日 14時31分47秒 | 紀行文
神戸で果てた人の生まれ育った場所はどういうところなのか。数年前に、一遍の故郷四国の松山市を訪れたことがあります。武士と僧職を何度か往復して、ついには遊行の旅を選んだ一遍に較べて、在所の武士として正成はつねに河内と関係を結びつづけました。

神戸の拙宅から大阪方面へ。難波から南海電車高野線に乗って、河内長野駅で下車。そこからバスに乗り換え、着いたのは観心寺です。ここは楠木家とゆかりのある寺であり、幼少期を過ごしたと伝えられた場所でもあるのです。

しかし、「正成はどこで生まれたか」と千早・赤坂説に疑問を抱くのは、『楠木正成』(河出書房新社)の著作がある小説家の大谷晃一です。

生地について「あの行動やら性情やら周囲やらを一目見れば分かる。もっと広い、人や物の往来の激しい野づらでなければならない」p10と書きます。正成が千早・赤坂で誕生したという証拠はどこの文献にも記載されていないそうです。大谷は、『太平記』にある正成の記述からして、この地が後世に生誕地とされてしまったのかもしれない、と推察しているのです。

この南河内の土豪である正成ほど評価が変転した人物はいないでしょう。戦前は天皇に殉じた忠臣として修身の教科書の中で賛美されます。また大衆側も、『三国志演義』の諸葛孔明になぞらえた天才的軍師として、民衆のヒーローとして受け入れたのです。戦後生まれの私にとっても、千早・赤坂城で、何十万の鎌倉幕府軍を相手に獅子奮迅の闘いをして、なんとか持ちこたえ、やがて各地の反北条軍を決起させた正成の英雄譚に接して興奮した思い出があります。

それが戦後になると、忠臣の英雄という鎧ははぎ取られます。皇国史観に拠らない中世史研究が進んだことで、正成は、河内の付近一帯の物流の流通ネットワークを掌握していた「悪党」であり、土豪勢力のリーダーの一人であるとの客観的な歴史人物として評価されるようになるのです。

後南朝を生きる/2

2005年11月07日 12時39分22秒 | 紀行文
次に湊川神社という位相に注目してみましょう。

この神社は、『延喜式』(927年刊行)の神名式に記載されている古社である生田、長田両神社のほぼ真ん中に位置します。これらの神戸のネイティブ土地神を司る二つの神社より、社格を上位に設定することで、近代以降にたちあげた国策都市である神戸のレーゾンデートルとして、またその精神的意味を内外に誇示する国家施設として、明治政府が建立したのです(戦後になっても、現在の宮司職は神社本庁の出身なのです)。 

つまり、在来の神々が鎮座し、土地霊とのまじわりを古社が司ってきたこの地に、国家神道の要請から、国民の素朴な神祇信仰を天皇信仰に収斂させるために、玉(ぎょく)に殉じた正成を生き返らせ、忠君の聖地として位置づけようとしたのです。

こうした天皇信仰への収斂という国家装置は、奄美においても遺憾なく発揮され、かの地では高千穂神社が各島の聖性の高い場所に設置されたのです。奄美の神祇信仰は、古神道の気配が濃厚であり、しかも制度的には琉球王国が施行したノロ制度の残滓によって、首里王家(尚家)を最高祭祀者とみる向きが濃厚に残っていました。そのベクトルをぐいんとヤマト/天皇に向けさせるために高千穂神社が機能したのです。

ちやみに神戸にも護国神社がありますが、湊川神社の存在が象徴性を充分に持っている分、国家鎮護の役割は、神戸ではこの湊川神社が担ってきたのではないでしょうか。護国神社は、他の県庁所在地では都市のコアな場所に立地しているところもあります。