学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

「感動」「達成感」の陥穽:組体操問題を考える

2015-11-07 | 教育
高層化した人間ピラミッドや人間タワーの事故の問題が話題になっている。

この問題は,現代の学校の病理を端的に表しているように思う。「感動」や「達成感」といったものを,教育の目的であるかのように言うようになったのは一体いつのころからだろうか。私が教員を始めた30年前には,少なくとも「感動」や「達成感」を目的にして教育するなどということは考えもつかなかった。いかに教育内容を子供に伝えていくか,子供が理解できたり,課題を乗り越えたりできるかということを,知的,科学的,経験的見地から追求していくのが教師だと考えていた。いつの間にか,時代は変わってしまったようだ。しかも,「感動」は子供の感動だけでなく,運動会を見に来た保護者の感動のためでもあるという。ほとほとあきれかえる。見ている者の感動などを目的とするならば,それは運動会ではなく,サーカスか曲芸か猿回しである。
しかも,組体操を完成させて,教師まで感動するという。さらにあきれてしまう。子どものやったことなどに,プロの教師なら感動などしないのである。常に冷静に子どもを見ているのがプロの教師である。教師が感動してしまっては,子どもの事実が見えなくなってしまう。外科医ならば,手術の成功にいちいち感動などしないだろう。弁護士ならば,訴訟に勝ったことにいちいち感動などしないだろう。子どもの成功に感動している教師など,プロ意識に欠けるのである。

そもそも,「感動」や「達成感」は,子どものものである。そして,感動や達成感を感じるも感じないも,子どもの自由であり,教師がコントロールできるものではない。加えて,教師が自らの教育実践に,「感動」や「達成感」を感じているならば,だいたいにおいてその教育実践は失敗なのである。私は,若いころにその点で過ちを犯した。ある行事の終わった時に,私はとても達成感を感じたのである。しかし,傍らの子供を見ると達成感を感じている様子がない。よくよく考えてみると,私は,子どものやるべきことを自分でやってしまっていたのである。その反省を胸に次の年の行事を迎えた。私は,達成感を感じなかった。傍らの子供は達成感を感じていたようだ。子ども自身が考えて子ども自身が成し遂げたからである。教師が,もし達成感を感じたとしたら,その教育実践にはどこかに間違いがある。私は,そう自分に言い聞かせている。教師が達成感を感じるのは,子どものためにではなく,自分のためにその実践がなされた証拠だからである。