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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~夫、杉田宇内について~ (68)

2016年07月14日 | 俳人杉田久女(考)

『ホトトギス』同人として、俳句に執念を燃やし精進する中での、突然の同人除名は久女にむごい打撃を与えましたが、その頃の久女の夫、杉田宇内についてみていきましょう。
<大正初期の頃、夫宇内、長女昌子、久女>

杉田宇内について書かれたものを読むと、彼は職務に忠実、教育には熱心で、貧しい生徒達のために身銭を切ることも度々で、満足な給料袋を家庭に持ち帰ったことがない様な人だった様です。

東京芸大西洋画科、研究科を卒業した人でしたが、才気のきらめきや繊細さといった、芸術家めいた要素とは縁遠く、旧制小倉中学の生徒に図画、修身を教える人生を送った人でした。

そして退職して8年後、昭和29年5月に当時の小倉市の教育に尽くしたことで、小倉市功労賞を受賞しました。これは宇内を非常に喜ばせたと、長女昌子さんが書かれた本にあります。

彼は久女の死の2か月後、昭和21年3月に約40年間務めた小倉中学を退職しているので、最後の教え子は現在90歳前後だと思われますが、その方々が杉田先生について書いた文章を時々目にします。

例えばこんな感じです。<田辺聖子さんの『花衣ぬぐやまつはる…』はすばらしい作品だが、宇内先生への評価には異議がある。宇内先生は実直ですばらしい先生だった。同窓会ではひっぱりだこでとても人気があった人だ>と。

杉田宇内は、おおむね生徒からはこんな評価を受け、慕われていたようです。これは教師としての宇内の姿ですが、長女石昌子さんの一文には、それとはまた違った彼の姿があります。昌子さんは家庭の中での父、宇内を書いておられます。

「久女記」という昌子さんの一文に描かれている父、宇内は<「誰それが貴女のことをこう悪く言った」という風に、嘘か本当か他人の口を借りてでも、父は母を傷つけていた。私も母がいいとばかり思うわけではないが、子供の為にすべてを我慢するといった母の環境を痛々しく感じるのである>と。

<父は常識の世界を一歩も出ない人だから、母が『ホトトギス』同人を除名された時でも、「貴方のような人は虚子さんでさえ、愛想をつかしたでしょう」と、母をそれみた事かと言わんばかりに罵った。それは無慈悲、残酷であった。孤立無援といった母の心の痛みは内憂外患、腹背に匕首を擬されている格好だった。常識と体面にこだわりすぎる父は、却って母を傷つけた>と。

<私は父が俳句に理解を持とうが持つまいが、それ程重大な問題だと考えていなかった。ただ母が愉しんでいるものなら、愉しませてやるといった廣い心が欲しかったと思うのである>と。

教え子が見た学校での杉田宇内も、長女昌子さんが書く家庭の中での杉田宇内も、共に彼の真実の姿を現しているのだと私は思います。

勤務先の教え子の面倒はよく見たというのに、家族についての思いやりは薄かった様で、自分本位で世間の思惑を恐れる男性だった様な気がします。

久女が『ホトトギス』同人を除名され逆境に陥った時に、たとえ痛みを分かち合えなかったとしても、黙って見守る寛容さを期待したいところですが、そうはせず水に堕ちた犬を叩くが如くの行動をとったようですね。

しかしそれは、宇内だけの性格ではなく、前時代(現代も?)の日本の男性に共通のものでもあるようです。妻を一段下に見て抑え込むという考え方は、何百年と続いてきた考え方で、宇内もそういった考え方から逃れられなかったのかもしれません。

がしかし、色々の理由があったにせよ、杉田宇内は仮にも教育者であってみれば、妻の才能をのばしてやるといった、それらしい行動が出来なかったのは残念というしかないように思います。

妻の久女から見るといい夫ではない宇内でしたが、彼は久女の死後小倉から引き上げる時、久女が胸に抱いて守った句稿や原稿等をきちんと整理し郷里に持ち帰ったようです。それらの中には宇内にとって面白くないものもあったことを思うと、宇内という人にはそんな一面もあったのでしょう。

(写真はネットよりお借りしました)

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俳人杉田久女(考) ~失意の日々~(67)

2016年07月03日 | 俳人杉田久女(考)

久女の長女、石昌子さんの著書『杉田久女』によると、「傍観者の私でさえ、母が同人を削除されたと聞いては、母に何か落ち度があったと考えるよりほかなくなりました」と書いておられます。
<石昌子著『杉田久女』>

しかし久女は除名後最初の頃は、師の虚子は自分が『ホトトギス』を追われたら、すぐ他派へ身を寄せるのではないか、つまり先生はそう思っておられ、これは自分を試すための除名であると思っていたようです。なので、先生に自分の心が通じますようにと、神社やお寺にお百度まいりをしたこともあったそうです。

それが去就を試されているのではなく、確定的な師の断を示す除名だと知った時、これまで俳句に精進し培ってきた自負心、自尊心が粉々に砕かれ、久女は狂う程の心の嵐におそわれたのではないでしょうか。

昌子さんはその著書に、久女は「虚子はひどい」と口癖の様に言い、「先生なんか何だ」と激した声でいい、あとはさめざめと泣いて「先生はひどいよ」、
「弟子にこんなに冷酷な先生を七生かけて恨まずにおれない」と口走ったと記しておられます。

また同じ著書の中で昌子さんは〈悲しみ、痛苦、憤怒、激怒、その他抑えがたい感情が心の中でくすぶっていた。誰がどんなに慰めようと癒せる性質のものではなかった。〉とも述べておられます。

昂ぶる神経で虚子に手紙を書き、その悶々の心情をどこへぶっつけたらいいのかも分からず、俳句一筋に生きて来た久女は気分一新のすべも持ちませんでした。手紙で泣訴しても虚子からは一片の返事もありませんでした。

生きる希望や楽しみもないと久女は、だんだん追い詰められていきました。娘の昌子さんに「でも死ねない、自殺なんかしたらお前たちがかわいそうだから」と言ったそうです。

しかしこの様な状態であっても久女はその生涯の最後まで、『ホトトギス』
を離れて他の派に移ることはしませんでした。

句作も「張りとほす 女の意地や 藍ゆかた」の高ぶりが消え、次第に沈滞していきました。昭和8~9年の最好調の時期からみると痛ましいです。こんな句があります。

      「 菱実る 遠賀にも行かず この頃は 」

久女関連書物には、句集に序文を懇願しても拒否され続け、ついには除名という流れをみると、師の高浜虚子の個性、久女との師弟間の相性というものがあるので、そのことを客観的に見抜けなかった久女は、純粋といえば純粋、肉親の庇護と愛情のもとに育って、世間知らずだったとしているものが多い様です。その通りでしょうね。

次はこの頃の久女の夫、杉田宇内やその家庭についてみてみましょう。

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