今まで見て来た様に、昭和9(1934)年の久女は、俳句作家として才能が全開した時期で、句集出版の志を持ち、師の高浜虚子に序文を懇願すれども得られず、心の中に悶々としたものを持ちながらも俳誌『かりたご』などに多くのエッセーを書き、また3度目の『ホトトギス』巻頭を得た時期です。そしてこの年に『ホトトギス』同人となっています。
昭和21(1946)年1月の久女の死から約2年半後に、高浜虚子は昭和9年に久女から来たという手紙をもとに、『国子の手紙』という不思議な奇々怪々な小説を発表します。この小説の中では国子=久女なのですが、『国子の手紙』の中に見られる久女の姿は、何も知らない人が読むと、常人離れしてただならぬ姿です。
しかし、彼女が同じ頃に書いたエッセーは、「水温む」、「蕗莟む」、「鶴料理る」、「万葉の手古奈とうなひ処女」「甕を掘る」「野鶴飛翔の図」などで、この中の幾つかは『久女文集』や『杉田久女随筆集』で見ることができますが、どれも簡潔、くっきり明晰で文章に乱れは全くありません。
<杉田久女随筆集>
なので、この頃(昭和9年頃)の久女の精神状態に異常があったとはとても思えません。虚子が『国子の手紙』の中でそう匂わせているにすぎません。
次の(60)、(61)の記事で久女が昭和9年に書いたエッセー「鶴料理る」や 久女句集にある「鶴の句」について簡単にふれてみます。
『国子の手紙』については後で述べることにして、昭和10(1935)年の久女を年譜でみると、この年の記述は非常に少なくなっています。久女の長女、昌子さんの書いたものによると『ホトトギス』雑詠に8月号を境に入選しなくなったとの記述があります。
『ホトトギス』では入選しなくなっていましたが、『俳句研究』には
「函を出て より添ふ雛の 御契り」
など、「雛十句」を発表しています。
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