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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~虚子の序文拒否のなぞ~(56)

2016年04月09日 | 俳人杉田久女(考)

久女が虚子の序文を得ての句集出版に奔走していたこの頃(昭和7年~昭和9年頃)や、それ以前、又その後にも、虚子は多くの弟子たちに序文を書いていますが、三度の『ホトトギス』雑詠巻頭を与え、虚子の依頼で「俳句歳時記」の資料の下調べに当たった久女には、なぜ序文を与えなかったのでしょうか?
<高浜虚子 1874-1959>

このことに関して、虚子はこれと言った明確な理由や事情を何一つ明らかにしていません。今から80年以上前のことではあり、当事者が黙していたので、どれも推測でしかないのですが、久女関連の研究書によると、虚子に句集出版を乞い序文を一途に迫る久女に、虚子は不快の念を禁じ得なくなり、また際立って虚子に接近する久女の態度も虚子の勘気をこうむった為ではないか、と推測しているものもあります。

虚子の弟子の『ホトトギス』の俳人達もおおむね同じ様な事を書いているようです。

が、しかし、水原秋櫻子に師事し『馬酔木』の俳人であった倉橋羊村氏は『杉田久女と橋本多佳子』(牧羊社)中で、〈久女の適当なところで引き下がらない一途さにどこか不遜な圧迫感をおぼえて、虚子の激怒をかうに至ったのかもしれない。それとて冷静に考えれば理不尽なことである。序文はともかく題字を書くくらいは久女の悲願をかなえたとて、虚子の沽券にかかわらないのではあるまいか。虚子の悲情ぶりこそ、かえって尋常ではない。〉と述べています。これは虚子や『ホトトギス』とは無関係の人だからこそ、書きえた文章でしょう。


私も全く同感です。『ホトトギス』の俳人達には、面と向かって虚子にそんなことを言える人はいなかったでしょうが、大人げない、やり過ぎだ、などの声も後に『ホトトギス』内部の一部にはあったようです。

私は虚子が久女に序文を与えなかったことにつき、虚子が不快の念を禁じ得なくなったとか、不遜な圧迫感をおぼえたなどはあったかもしれませんが、それとは別の、明確な理由が虚子の中にあったのだと思います。

これは推測ですが、虚子にとって自分が勧めて俳誌『玉藻』を主宰させた次女星野立子が、俳句により経済的な安定を得、俳人としての地位を築くことは、何にもまして重要なことだったと思われます。虚子は久女に『ホトトギス』雑詠巻頭を3度まで与えたほどで、彼女の俳句の実力を誰よりも知っていました。そんな久女に序文を与え、句集出版を許したら、どうなるか。

句集を持つということは、一人の俳人として立つということです。そうなると虚子の愛娘の星野立子が、久女という実力ある俳人の影に隠れてしまうと、恐れたのではと感じます。

この推測は私だけが言うのではなく、当時ささやかれていた見方でもあるようです。もしそうだとすると、それは久女主宰の俳誌『花衣』を虚子がつぶしたのと同じ論理であり、虚子が久女に序文を与えない理由を明らかに出来なかったのも、さもありなんと感じます。

俳句の実力があり過ぎたために句集出版が出来ないとは、なんとも情けない、語るに落ちた『ホトトギス』内の情実だったのかと思います。

そして、虚子が久女に序文を与えなかったことが、その後の久女の俳句人生を暗転させ、悲劇的な結末をむかえることにつながるのです。

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