日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

海賊版にお世話になった頃

2007-04-13 19:45:19 | 学問・教育・研究

米通商代表部(USTR)が中国の海賊版取り締まりが手ぬるいとして世界貿易機関(WTO)に提訴した、とのニュースが流れた。映画や音楽の中国に於ける違法コピーが莫大な損害を米国に与えているというのである。まあそうであろう。この海賊版という文字を目にすると私は今でも居心地の悪い思いをする。かってはこの海賊版によくお世話になっていたからである。しかし私の云う海賊版は映画や音楽、さらにパソコンソフトの違法コピーではなくて、専門書のコピーなのである。

中之島にある阪大理学部に学生として通っていたのはもう半世紀も前になる。理学部の北隣には道路を隔てて医学部の建物があり、その中間に講堂とか事務室の入っている建物があった。この事務棟か医学部の建物だったのか今は記憶が定かでないが、厚生社という本屋が入っていた。おもに医学関係の本を扱っていたが理学系の書籍も置いていて、このなかに私の目を惹いた本があった。赤地の背表紙に「The Proteins」の金文字が眩しい二巻本で、手に取るとずっしりと重い。上下で2500頁もあり、タンパク質に関してあらゆる知識が収められているようで、専攻が生物化学の学生としてはなんとしてでも欲しくなったのである。持っているだけでその内容が私の頭脳に流れ込んでくるような気がしたのであろうか。この本の後ろにある人名索引に、有機化学の講義をされていたアミノ酸研究で著名な赤堀四郎先生の名前がちゃんと出ているのにも嬉しくなった覚えがある。手に入れたくなったがいかんせん値段が高い。直ぐには買えなかった。

厚生社に何度も通ってご対面を繰り返した末、ようやく手に入れた。しかし内容はかなり高度で学部の学生には手に負えない。いずれ役立つ時が来るものと、取りあえず書棚に収めては眺めを楽しんだ。私はこの二巻本をてっきり原書だと思っていた。バックラム装のしっかりした造本で、なにより金文字が光っているではないか。ところが次第に不審を抱くようになった。本のどこを探しても出版社の名前がないのである。そして研究室の先輩から上出来の海賊版とのご託宣を頂いた。これが海賊版との最初の出会いで、その後長らくお付き合いが続いた。

1958年に出版されたM.DixonとE.C.Webbによる「ENZYMES」は、院生時代を通じて文字通り座右の書であった。800頁近い大冊であったが、研究室の教授をはじめ先輩たちによる色素タンパクの結晶化の論文が何編も引用されているのを誇らしく思ったりした。研究室には何人かの海賊本売りが入り込んでいて、何冊も大きな風呂敷に包んで持ち込んでくる。学生相手のせいかつけが効くサービスぶりだった。

「Advances in Enzymology and Related Subjects of Biochemistry」などはシリーズものであったが、欲しい一冊が海賊版で手に入った。ところが図書館でこの原本にお目にかかった時は、いかにも海賊版という作りが侘びしくて、学生の身を脱したら、本ぐらいは原書を買いたいと思ったものである。著者に対する敬意が私の心底にあったせいだとも思う。しかし月給取りになってからも、実は海賊版とのお付き合いが続いたのである。

酵素実験法とでも云おうか、「Methods in Enzymology」などは海賊版のベストセラーであったと思う。緩衝液の作り方や塩析度の計算など、酵素の精製に必要な基本技術を学ぶことからお世話になった。これもシリーズもので、次から次へと新しい巻が出版されては海賊版が出る。これが何十冊も溜まってくると研究室の書棚のかなりのスペースを占めることになった。



この実験書はなかなか高価で、アメリカでも研究室が単独で全冊を揃えているところは珍しいのではなかろうか。私が1980年代にしばらく滞在したアメリカのある研究室では、教授室に全冊が備えられていて、これがアメリカ人の間でも評判だったのである。ちなみに現在の最新刊は第421巻で、日本円にして1冊2万円とすると、全冊で840万円。本とは言えない値段になるのである。助手の薄給で手軽に手を出せるものではなく、ズルズルと海賊版に手を出し続けた。しかしばつの悪いこともあった。

外国から共同研究者がやってきた時のことである。ことさら弁解はしなかったが、彼らが海賊版を見ながら緩衝液を作ったりするのを目にするのは気分がよくなかった。そのうちに海賊版に対する出版社の目も厳しくなり、海賊本の置き場所を考えて、人目につかないところに引っ込めると共に購入も止め、必要な巻だけを原本で購入することになった。私が最後に購入したのは第246巻であるが、現在にいたるまでも分子生物全般にわたる実験書・論説書として続々と刊行が続き、最新刊が第421巻になっている。もう手元に残っていないのではっきりしないが、100巻以上は海賊版で出ていたのではなかろうか。1巻あたり1000冊の海賊版が日本中にばらまかれていたとすると、原本で2千万円相当になり、それが100巻とすると20億円、ゾッとするような金額になる。

出版社はAcademic Pressという科学書出版の老舗であったが、この出版社がオランダのこれも科学書出版大手のElsevier社に吸収されていることが今回調べてみて分かった。海賊版のせいでそうなったのではないことを祈るのみである。

海賊本の出版は明らかに犯罪である。しかし海賊本にある時期お世話になった私には、出版社には申し訳ないが、勉強目的のためには少々大目に見てくれてもいいのでは、との甘えがあったと思う。パソコンのソフトにアカデミック・プライスがあるように、学生相手の教科書には、発展途上国ではすでに実施されているのかも知れないが、学生割引の制度があって欲しいと思う。

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