7月12日日経夕刊に大きな記事が出ていた。《インターネット上の他人の文章を複写して自作のファイルに張り付けるコピー&ペースト(コピペ)の横行が教育関係者を悩ませている》そうなのである。
教師が何か課題を与えて小学生から大学生にいたるまで(以下、生徒と総称する)勉強させようとしたら、インターネット上で探し出した他人の文章を適当に継ぎ接ぎしてあたかも自分の勉強の成果のようにカモフラージュする傾向が増えたというのであろう。私が生徒であったらインターネットが自在に使えるようなこのご時世に同じようなことをしただろう思う。実績があるからだ。
中学校の社会の期末試験で満点だった。教科書はもちろん新興出版社であったと思うがそこが出している参考書をも丸暗記していたから、答えがすらすら書けたのである。答案を返して貰って聞いた社会の教師の「満点が一人いたが、参考書と一字一句違わずに書いていた」という講評を今でも覚えている。「丸暗記してもそんなもん勉強とは違うんやで」との言外のメッセージが私を動揺させてしまったからである。それでも丸写しは得意で高校生になっても大倉山の図書館に出かけてはあれやこれやの本を書き写し、おかげで雑多な知識が身についた。そして素晴らしい教師がいたのである。
たとえば万葉集の歌などは斎藤茂吉の「万葉秀歌」に始まり、武田祐吉や沢瀉久敬などの注釈本を調べて、意気揚々と知ったかぶりで歌の解釈、背景などを受け売りをしていたら、なんと国語の教師にその解釈の出所をすべて指摘されて驚いてしまった。生徒以上に教師はちゃんと勉強していたのである。
今は図書館に行かずともインターネットでほとんどのことを調べることが出来る。小学生から大学生まで、教師が何か問題を出せばインターネットで調べるのは今や当たり前のことになっている。そうすると検索に引っかかった文章を適当に組み合わせてレポートを作ることなどは当然予測されることである。何を今更教育関係者は悩むのだろう。それが私にはすんなりとは分からない。
課題を出せば生徒がインターネットで調べるとして、教師はそれ以上のことが出来るはずである。インターネット上で生徒がヒットした資料を教師がヒット出来ないとするとそれは教師の負けである。生徒が提出したレポートの内容を遙かに上回る情報を教師が持っておれば、レポートの材料の出所は直ちに指摘できるであろう。それが出来てこそ教師なのであって出来なければ教師としては失格、潔く転職すべきである。
情報量において教師が生徒の優位に立てば、後は教師としての本領を発揮するだけのことである。たとえ丸写しであれ生徒が自発的に起こした行動を無駄にすることはない。レポートは手書きと決めることだけでも生徒は「コピペ」を自分で書き写さないといけない。それだけでも「学び」になるというものだ。教授法を工夫すれば「コピペ」を出発点として到達点はいくらでも伸ばすことが出来る。
日経夕刊には次のようにモラル教育の重要性を指摘する意見が紹介されているが、私もまったく同感である。「引用する際は出典を明記する」ことさえ徹底的に生徒に教え込めば、教育関係者の悩みは雲散霧消疑いなしである、いや、そうでなければならない。「コピペ」を発見するソフトが開発されたそうであるが、そのようなソフトに頼るようでは教師失格と心得るべし。