日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

教員採用試験の見直しこそ

2008-09-01 16:53:20 | 学問・教育・研究
私が理学部に入学したのは昭和28(1953)年で、その頃、先行きの見通しはきわめて暗かった。それで多くのクラスメートがなにはともあれと教員免許を取った。そのためには教育原理や教育心理など教職課程用の単位を取得して、また中学校や高等学校で定めら時間数の教育実習を行わなければならなかった。必要単位を取得するとその証明書を自治体の教育委員会に提出して免許状が頂けるのである。教育実習の時期になると多くのクラスメートがそれぞれの出身校に出向いていったが、私ははやばやと教員免許を取らないことに決めたので無縁であった。なんとしても研究者になりたいと思っていたので背水の陣を敷いたのである。

いろんな種類の教員免許があるようだが、それを持っているだけですぐにも学校の教師になれるわけではない。公立学校の教員になりたければ、各自治体の教育委員会が行う教員採用試験に合格し、採用候補者名簿に載せて貰わないといけない。この名簿に従って教員に採用されることになる。大分県教育委員会での教員採用試験の汚職はこの段階で発生した。

教員採用試験には一次と二次があり、概ね一次が学力試験、二次が人物試験となるようである。学力試験と云っても一般常識から専門知識にわたるようであるが、点数が改ざんされたのは、このような筆記試験の答案だったのだろうか。特定の受験者を合格させたいのなら筆記試験の採点をいじくって改ざんの痕を残すのではなく、面接試験とか模擬試験など、採点者の一存で決められる試験で、思いっきり高い点数を与えれば済む話ではなかったのか。もし筆記試験結果の点数をいじくったとしたらやり方があまりにも幼稚である。教育委員会の組織的犯行とは到底思えない。

教員採用試験の本来の目的は、子供に愛情を持ち教育に情熱を傾け、教育者を天職と心得る人材の選抜であるべきだと私は思う。その意味では一次の学力試験なんて不要である。そのためにすでに教員免許があるではないか。教師がかって習った知識を思い出しながら教室で生徒に教える、そんな馬鹿げたことをする教師は居るまい(その昔、そんな教師が居たことを思い出したが、例外であろう)。必ずや授業に先立ち必要なことをいろいろと調べて自分なりの授業内容を準備することであろう。教育現場で必要とされるのはそのような能力であるのに、試験勉強としてつめこんだ知識の多寡を測るような学力試験はおよそ無意味である。教育委員会のベテランはそういうことを先刻ご承知だから、筆記試験の点数をいじくることに何の罪悪感も覚えなかったのかも知れない、とすら私には思へてくる。

私は採用試験は人物考査の一事に尽きると思う。そのためには学科試験を廃止して教育にかける自分の思いと子供への愛情を思う存分語らせることである。400字詰め原稿用紙に少なくとも5枚分は書かせる。私のブログではやや長めの文章になる。問題はその採点方法で、私は配点の七割から八割は字の美しさに当てるべきであると思っている。

いくら内容が立派でも読みづらい字、汚い字のいわゆる悪筆ではそれだけで落第とする。自分の考えを伝えるにはまず文章を読んで貰わなければならないが、汚い文字では相手に対して失礼である。そういうことすら分からないようではすでに教育者としては失格である。読みづらい字で相手に読む苦労を押しつける。相手を思いやらないこの独善的な態度だけで失格である。そのような字を黒板に書くような教師では生徒が苦労するし、また生徒に馬鹿にされるのがオチである。字が綺麗か下手かはまず一目見ただけで分かる。それでバサッと選抜すれば十分である。字(文章)は体を表す、のである。そういえば昔の先生は皆字が綺麗であった。私が国民学校三年生で受け持っていただいた当時推定二十歳前後の先生の筆跡をご覧いただきたいものである。

字の美しさという事の一面のみを強調したが、要は教師としての適格者を選び出す新しい選抜方法を作り上げることに関係者は真剣に取り組んでいただきたいということなのである。