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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

一弦琴「四季山」再演

2008-07-24 18:17:25 | 一弦琴
               詞 不詳
               曲 真鍋豊平

  春は吉野の 白雲も 花とみへけり 音羽山
  卯の花になく ほととぎす 初音ゆかしも
  
  龍田山 秋は紅葉の 色こきに
  妻恋ふ鹿の 声すなり
  
  冬は鞍馬の 峰の雪 
  さゆるふすまも 忘れつつ 眺めやるこそ あはれなれ
  
  かぞふれば かぞふれば
  春夏秋も 冬もみな 一年ながら おもしろや


「四季山」を譜から離れてもなんとか奏でられるようになった。せっかく時間をかけて会得したことだから、あとは忘れないように一日に一度でも浚ってみるつもりでいる。譜がなくても即座に弾ける曲をせめて五、六曲ぐらいは持ちたいものである。これまでも年に一度の演奏会で演奏する曲はほぼ覚えていたが、それでも譜を開いていると安心感があった。それをも止めての独り立ちで、いわばようやく這い這いの赤ん坊からよちよち歩きの幼児になったようなものである。立ち上がったおかげで今まで見えなかったことが視野に入るようになった。しかし見えるということとそれを演奏に反映させることは別物で、だから面白い。

今朝の演奏を前回と同じく前半後半に分けてアップロードした。この演奏自体、声の調子を別にして直したい所が少なくとも数カ所ある。多分一生かかってもこれの繰り返しなんだろう。


夏の半日 一弦琴のお浚い そしてにぎりをお箸で

2008-07-22 23:58:34 | 一弦琴
月に一度の一弦琴のお稽古で昼下がりに家を出て京都に向かう。暑い。少し歩いただけでもう汗ばんでくる。でもジャケットを手放すわけにはいかない。電車に乗ると冷房がよく効いているので冷気避けである。

お浚いの曲はいぜんとして「四季山」。三ヶ月ほどほとんどこの曲ばかり弾いている。最近になりようやく手がひとりでに動いてくれるようになった。ところが緊張感を欠くと手が同じところを行き来するようになる。やはり奏者の脳が指令を出しているようなので居眠りは出来ない。脳の働きは偉大なのだ、と実感する。手が独りでに動いていい演奏が出来ると思ったのは錯覚で、それならオルゴールと変わらない。それでもお師匠さんの前で譜を見ずに演奏できたのはいい気持ちだった。お師匠さんは「忘れっぽくなって」と譜を開いておられたからなおさらである。

気分がよくなって帰りは京都大丸横の築地寿司清に寄る。夕べだったか物まねのコロッケがもう一人の相棒と東京築地のさる店でにぎりをお箸で上手に食べているのをテレビで観てその真似をしたくなったのである。お箸でまずにぎりを横に倒しながらネタとご飯を挟む。そうするとネタを落とすことなく醤油につけることが出来るのである。店の主人の伝授だったけれど、その通りに出来た。これは凄い、目から鱗であった。回転寿司でも同じように出来るのか、また試してみるつもりである。

一弦琴「四季山」

2008-06-30 15:08:52 | 一弦琴
               詞 不詳
               曲 真鍋豊平

  春は吉野の 白雲も 花とみへけり 音羽山
  卯の花になく ほととぎす 初音ゆかしも
  
  龍田山 秋は紅葉の 色こきに
  妻恋ふ鹿の 声すなり
  
  冬は鞍馬の 峰の雪 
  さゆるふすまも 忘れつつ 眺めやるこそ あはれなれ
  
  かぞふれば かぞふれば
  春夏秋も 冬もみな 一年ながら おもしろや


「四季山」のお浚いを始めてもう二ヶ月近くになる。むつかしい。
まず演奏時間が15分を超えるほど長いので、なかなか覚えにくい。お浚いを始めて全曲を少なくとも百回以上は弾いているが、それでは曲の流れが頭に収まるにはまだ足りない。ちゃんと覚えようと思えば寝食を忘れるほど熱中しないといけないのかも知れない。それではお遊びがお遊びでなくなってしまう。その頃合いをはかるのが難しい。

とにかく辛うじて一応は弾けるようになった。忘れないようにしばらくは毎日弾くことにしようと思う。そのうちに手が独りでに動き、声も自然と出てくることだろう、と言うことを夢見ながら。

徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」に従ったが、「七八」をその通りに弾くとどうも落ち着きが良くない。お師匠さんは「八」で行きましょうと仰る。たしかにその方がぴったりと来るので、気が変わらない限りこの弾き方にする。一曲が長いので前半後半に分けてアップロードした。

追記(7月24日) 演奏を差し替えた。

 

一弦琴サイトに2年足らずで2万アクセス

2008-05-14 23:26:01 | 一弦琴
昨日、著作権関連の本を紹介した際に、私の歌サイト「恥ずかしながら・・・」について触れたが、そのサイトへの開設以来のアクセス数が2万近くになっていることに先ほど気がついた。午後6時過ぎで19993なので、今日中に多分2万を突破するだろう。2006年7月15日に三浦環さんと「埴生の宿」を一緒に歌ったのが最初なのでほぼ22ヶ月で2万アクセスということになる。



現在登録している66件の四分の三、49件が一弦琴である。だから単純に一弦琴だけのアクセス数を考えると1万5千で1年当たりだと8千ということになる。このブログへのアクセス数自体としては決して多くはないが、一弦琴を聴いたいただいた延べ人数が年間8千人となるとこれは凄い数と言うことになる。たとえば私の属している一弦琴の会で毎年10月に開かれる演奏会に来てくださる方は多くても200人足らずではなかろうか。私の師匠は積極的に演奏活動をなさる方であるが、その演奏を聴きに足を運ばれる方は一年を通じて千人を超えることはないのではなかろうか。そう考えると年間8千人という数字の大きさに改めて感動を覚える。

アクセス数とは一日のアクセス人数で普通は重複を排除している。Aさんが午前中に1回、午後に1回アクセスしてもアクセス人数は1人である。アクセスしても新しい曲が登録されていないとそのまま出て行く人もいるだろうし、一日に何回もアクセスしてはその度ごとに歌を一曲ずつ、また時には数曲も聴く人でも勘定はそれぞれ1人である。だからアクセス数は歌に耳を傾けてくださる人数の概数にほかならないが、それにしても年間8千人とは大きな数である。リピーターもおれば始めてこのサイトを訪れてくださった方もかなりいることだろうから、期せずして一弦琴なるものをを知っていただく手がかりになっていると思いたい。

一弦琴の演奏を上記のサイトで公開することにしたのは別に深い意味があってのことではない。何事であれ新しいものが好きで、面白そうなら自分でもやってみる、ただそれだけのことで始めた。とは言うものの、こんな面白くて楽しいものがありますよ、と吹聴する気持ちが根底にあったことは間違いない。いったん一弦琴を公開すると決めた以上、素人の強みを発揮することにした。一弦琴の先生ともなればなかにはCDを出しておられる方もいる。となるとその先生方がネットで演奏を無料で公開するとすれば、CDを買った方に申し訳ないことになる。また先生ともなれば人にとやかく言われそうな演奏はできない、と気構える方もおいでであろう。ネットて何?と仰る方もおられるかも知れない。

素人の私にはネットで自分の演奏を公開する気恥ずかしさだけを克服すれば済む。それも馬齢を重ねたおかげで苦もなく乗り越えられた。ただ一つ、気になることと言えばお師匠さんをはじめ、稽古仲間にも内緒で始めたことである。お稽古ごとの世界にはうるさい決まり事もあるようだが、私が入門した際に勝手に演奏してはいけないと申し渡されたわけではないので、それは気にしないことにした。ただ仁義としてお師匠さんそっくりの演奏をすることは避けることにした。しかし心配しなくても、お稽古中一生懸命に真似をしているつもりでも家に帰ったらもう細かいことを忘れてしまうものだから、真似するにもしようがない。だからこれもことさら気にするまでもなかった。それにお稽古仲間は研究熱心な方ばかりなので、私がブログで唄っていることはすぐにばれてしまった。ひょっとしたらお師匠さんもとっくにご存じなのかも知れない。

私は出来る限りシンプルな唄い方を心がけている。チャラチャラ唄うようなものではないとの思いがあるからだ。チャラチャラとは装飾過多のことで、その意味では抑揚もことさら抑えた。遊び心が自然と備わってきたら唄い方にも彩りを添えられようが、それは先の先のことになるだろう。今のところは心を開いた古人(いにしえびと)から何か言葉が返ってこないかとただただ敬虔に語りかけるのみなのである。

思うがままに一弦琴の演奏をアップロードしていたら、いつの間にか一弦琴曲のコレクションの唯一のサイトに成長してしまった。大げさに言えば世界唯一のサイトであろう。演奏曲を増やしていく一方、すでにアップロードしている曲もまたお浚いを繰り返し、少しでも納得のいく演奏を集めたサイトに仕上げていきたいと思う。訪れてくださる方の存在が大きなはげみであるが、ご厚意に甘えついでに、唄い方などにもコメントを寄せていただければ望外の喜びである。ゆくゆくはネット上でもいいから、一弦琴を楽しむもの同士が演奏を通じて交流できればと思う。

午後10時現在、ついに2万アクセスを突破した。感謝!



一弦琴「翁遊」(おきなあそび)

2008-05-04 16:15:55 | 一弦琴
               詞、曲 真鍋豊平

   難波津の 何は思はず 七十路の 
   春を迎えて 入れ紐の 
   おなじ心に 睦びあふ 翁(をじ)をともなひ
   今宮の 幸をたまはる 神垣の そのほとりなる
   かぐはしき 花の吉野と 名に負へる 吉田の蓆に
   酒ほがひ わが弾く琴の ひとすじに 
   神にちかひて ことぶきを 祝ひあふこそ たのしけれ

「翁遊」は豊平の古希の祝いの歌だそうである。

後期高齢者医療とか罰則付き強制的「落ち葉マーク」表示などなど、目前に迫る年齢による社会的差別に心を揺れ動かすことの無かった時代を偲んで唄った。

一筋縄では行かない一弦琴

2008-05-03 18:01:13 | 一弦琴
一弦琴は実に素朴な楽器である。台に張られた一本の弦を弾くだけ、誰にでも出来そうだとこの道に入って足かけ九年になる。面白さの分かってきたのはこの二三年であるが、同時に難しさも折に触れて感じるようになった。たとえば音の高さの正しい関係である。

最近一弦琴「伊勢海」再演のところで、音の高さの変え方を説明した。要点は《一弦琴の表には弦の勘所を示す目印として、直径が3ミリから5ミリの小さな象牙製の円盤が貼り付けられている。これを徽(つぼ)と呼んでおり、左から右へ一番から十二番まである。演奏に際しては、左手の中指にはめた芦管で徽に合わせて弦を軽く押さえて、右手人差し指にはめた芦管で弦を弾く。徽の番号が大きいほど高い音が出る。》ということであった。

琴譜の指示に従い徽を押さえて弦を弾けば音が出る。ピアノの白鍵黒鍵を叩いて音を出すのと本質的には変わりがない。ところがピアノの場合は「ドレミファソラシド」と子供の時から馴染んだ音階があるので、「ド」を基準にして「ソ」がどんな音か、自分で判断してその音をピアノに頼らずに声で出すことができる。ところが一弦琴の場合は、開放弦を弾いた場合にくらべて「六」を押さえたときは1オクターブ高い音が出ることは分かっているが、「六」の音を基準にして「一」の音を自分の声では出せないのである。唄っているときは「六」の次に来る「一」の音を出せるが、それは曲として既に頭に入っているから出来ることで、音名を一々認識して音を出しているわけではない。

教えられるままに師匠の演奏をなぞっておればそれはそれで済むことであるが、何か自分で疑問を持つとこの世界は途端に大きな暗闇に変わる。基礎知識が欠けているからで、たとえば「伊勢海」でふんだんに出てくる「七八」を師匠の指示通り「八」で弾けばそれで終わりであるが、もし自分で「七八」の音を出したくなって出した「七八」の音が、果たして正しい音なのかどうか、判断のしようがないのである。そして、そんなことを考えていると、琴の徽を頼りに出している音が果たして正しい音なのかどうかが気になりだしてきた。

一弦琴の出す音の基本となる徽の位置の決め方は、徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」に次のように述べられている。

「徽ノ配置ハ十二律ヨリ出ツ 而シテ十二律ハ絃ノ寸尺ニ応シ一定動カスヘカラサルノ数ヲ現ハス 音ヲ学フ者知ラスンハ有ルヘカラス 若シ柱ト軫トノ間二尺四寸ナリトセハ軫ヨリ絃ノ中央一尺二寸ニ至ルノ間タヲ十二分シタル其ノ各一寸ハ即チ十二律中ノ一律ニシテ・・・」

ここで柱とは琴柱(ことじ)、軫とは糸巻きのことで、目の前に置いた一弦琴の左側にある。白い丸点が徽で一番左側が「一」の位置である。



「柱ト軫トノ間二尺四寸」を絃の実寸とすると「一」から「十二」の位置は次のようになる。



そこで絃の長さ、二尺四寸を100とする百分率で各徽の位置を表し、一方私の一弦琴の徽の位置を軫の中央から実測して同じく百分率で表して両者を比較したのが次の表である。



これで面白いことがわかった。第一徽から第四徽までは私の琴と一絃琴譜はほぼ一致するが、第五徽から第十二徽までは第八徽を除いて私の琴の徽が一絃琴譜の示す位置より右側にずれている。相当箇所の百分率を赤字で記したが、徽の左側が一絃琴譜の位置に相当することになり、ここを芦管で押さえて弾けばよいことになる。例外の第八徽では私の徽が一絃琴譜の位置よりかなり左側にずれている。だから第八徽の少し左が一絃琴譜の「七八」に相当するので、琴によっては第八徽を押さえることで「七八」に近い音を出すこともあり得る。

ではこれまで私が徽の真上を押さえて弾いていたかというとそうではない。偶然なのか必然なのか、第七徽から第十二徽まではすべて徽の左側を押さえて弾いていたし、第一徽から第四徽まではそのちょうど上を押さえていた。ということはこの一弦琴の音階に自然と耳が慣らされてきていたのだろうか。そうだとすると私の音感も捨てたものではないことになる。しかし手放しで喜べないのは、第六徽では左側ではなく右側を押さえていたし、第八徽では本来の「八」よりかなり低い音で満足していたのである。

ところでこのたびは徳弘太の「清虚洞一絃琴譜」を出発点としたが、この徽の配置が確かに十二律にかなったものかどうかを私は検証していない。音律をしっかり勉強してから取り組む課題のようである。


一弦琴「伊勢海」再演

2008-04-05 15:39:20 | 一弦琴
             詞 蒔田 雲処
             曲 真鍋 豊平

   伊勢の海の 清き渚(なぎさ)の 葦の根の 
   ねもごろ念(も)ひて 取り出でし
   玉持てる猟夫(さつ)が 手にはまかずて 絹もてつつみ
   十重二十重 箱のみ置きて たれをか待たむ

一弦琴の表には弦の勘所を示す目印として、直径が3ミリから5ミリの小さな象牙製の円盤が貼り付けられている。これを徽(つぼ)と呼んでおり、左から右へ一番から十二番まである。演奏に際しては、左手の中指にはめた芦管で徽に合わせて弦を軽く押さえて、右手人差し指にはめた芦管で弦を弾く。徽の番号が大きいほど高い音が出る。

時には徽と徽の間を押さえることもある。琴譜でたとえば下図に示したように「七八」と記されるが、徳弘時聾(太)著「清虚洞一絃琴譜」には『「七八」ハ第七徽ト第八徽トノ中間ノ音程ナリ』との説明がある。ところがどうしたことか私の師匠は「八」で弾くことが多い。時には「七」になったりする。中途半端がお嫌いな性分なのだろうか、と勝手に想像してそのように演奏してきたが、今回、せっかく「清虚洞一絃琴譜」を使って演奏するのだから「七八」を太流で弾いてみることにした。

下左の譜は琴のみの長い演奏が終わり、「十重二十重」と歌が始まる部分である。これは琴譜のオリジナル版であるが、実際の演奏は松崎一水師の改訂版に従っているので、どのように違うのか比較のために右下に示した。これは私がPhotoshopを使って修正したものである。

     


ところで「七八」がふんだんに出てくるこの演奏、「八」で唄うより深みがあるように感じるが、気のせいなのだろうか。



一弦琴「伊勢海」

2008-03-27 10:20:52 | 一弦琴
          詞 蒔田 雲処
          曲 真鍋 豊平

伊勢の海の 清き渚(なぎさ)の 葦の根の 
ねもごろ念(も)ひて 取り出でし
玉持てる猟夫(さつ)が 手にはまかずて 絹もてつつみ
十重二十重 箱のみ置きて たれをか待たむ


ここしばらく「伊勢海」に取り組んできた。歌の心を会得することから始まるが、昔の人のこの詞はまるで判じ物である。そこであれやこれや解釈するのはやめて「素読」から入ることにした。何遍も繰り返して唄っているといつの間にか息継ぎの不自然なところが分かるようになってきた。

「読書百遍(ひゃっぺん)義(ぎ)自(おのずか)ら見(あらわ)る」

昔の人はいいことを言っている。訳が分からないまま唄っていても楽しいのは、いずれは分かるはずと思っているからだ。あわてることはない。


追記(4月5日) 演奏を差し替えた。

リング製本の一弦琴譜

2008-03-24 17:09:34 | 一弦琴
国会図書館で入手した徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」のコピーをもとに琴譜を復元する作業のことを以前に述べたが、その続きに稽古用の琴譜を作成してみた。

印刷にはプリンター用の1000年和紙を使った。1000年後に誰かが見てくれるのを想像するのは楽しいが、インクが多分色あせていることだろう。それはともかくA4サイズに2ページ分をプリントして、それを二つ折りにして綴じることにしたので出来上がりはA5サイズとなる。

印刷に「和紙」を使ったのもそれに見合う表紙を探し出して和綴本にしたかったのであるが、この「和紙」は結構腰があるので和綴じにすると見開いた状態が安定しないように感じた。そこで和風のイメージからはずれるがリング製本にしてみた。これだと開いたときに完全に平らになって見やすいし、ちょっとした工夫で素早くページを繰ることができる。これは製本屋さんでして貰ったが、ほかにも綴じ方を試してみようと思う。



これは「今様」の2ページ、3ページ目を開いたところである。使い勝手のテストに久しぶりにこの曲を演奏してみた。

一弦琴「後の月」 清虚洞一絃琴譜による再演

2008-02-27 21:40:09 | 一弦琴
               詞 中根香亭
               曲 真鍋豊平

  初冬の たそがれ寒き 人かげに うかれ
  うかれて 思はずも 見あぐる望の 月のかげ
  友のさかなに 妻の酒 かさねて遊ぶ波の上
  やがて岡なる 山岸を あゆみつくして たちかへる
  舟の景色の かぎりなく 酔ひてぬるまの 夢のうちに
  まさしく見えし 仙人(やまびと)の 姿は鶴に かはりつつ
  雲ゐはるかに 飛びゆけど けうのあそびの つきぬ楽しさ


私は一弦琴を師匠の著した「一絃琴清虚洞新譜」に従って習ってきた。この譜では下左に示すように原稿用紙のような枡目に音の高さを表す漢数字が入っており、また枡一つが一拍に相当する。歌の言葉がその横に添え物のように記されているので、つい琴の演奏が主であるような印象を受けるが、初心者には分かりやすい譜である。



これに反して「一絃琴清虚洞新譜」の元になった徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」は、以前にもブログで紹介したように、歌のところでは言葉が主になっていて、それに拍子や音の高さが添えられている(上右)。一見取っつきにくいようではあるが、一弦琴ほぼ全曲を仕上げる頃になると素直に分かってくる。私は歌が好きなので、歌に琴の演奏をつける形式になっている「一絃琴譜」のほうが合っているような気がし始めた。この一ヶ月ほどは「一絃琴譜」で唄ってきたが、その成果はどうだろうか。

枡目だとつい拍子を数えてしまうが、こちらだと言葉で語るという感じになるのがよい。それに、たとえば上の詞の「かさねて遊ぶ」の横には、「九ノ音ニテ詞ノ様ニ」と注釈が加えられたりして分かりやすいのがよい。