星のひとかけ

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パトリック・モディアノとトマス・ド・クインシーと夏目漱石…?:『地平線』P・モディアノ著

2021-12-20 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
パトリック・モディアノの読書 2冊目は『地平線』です。

前回の『迷子たちの街』が84年の作品だったので、今度はもっと現在に近いものを、と思って、2010年に書かれたこの作品にしました。

 ***

物語への感想、というよりまずは、 とっても驚いたことから先に書いてしまいましょう。

『地平線』を読んでいる間、私のあたまには何度となく別の本のことが浮んできて、読めば読むほどに両方の作品が近づいてくる気がしたのでした。。 その本とは 19世紀の英文学者 トマス・ド・クインシーが書いた『阿片常用者の告白』。

前回書いた『迷子たちの街』にも 若き日のパリの街での出会いと別れが書かれていましたが、 『地平線』で描かれる 《群衆》の中での女性との出会い、 なにかに怯えている身寄りの無い境遇、 街角での待ち合わせの約束や、互いを見失うという不安、、 年月を隔てた記憶や夢での再会、、
さらには、 女性が救済を求めても相手にされなかったことや、  主人公の寄宿学校からの脱走、、となってくると、 ん??? と、私の頭に引っ掛かってくることばかりなのでした。



『地平線』パトリック・モディアノ著 小谷奈津子・訳 水声社 2015年
『トマス・ド・クインシー著作集Ⅰ』 国書刊行会 野島秀勝・訳

   (『阿片常用者の告白』は現在 岩波文庫にあり)


『阿片常用者の告白』はトマス・ド・クインシーの回想録で、 父親を亡くし寄宿学校にやられた若きド・クインシーが、学寮を脱走して放浪の果てにロンドンの街に流れ着くまでの記憶が前半部分で語られています。 倫敦の街路で身寄りのない少女アンと出会い、二人は夜な夜な街を彷徨います。 ド・クインシーはアンの窮乏を助けるため、一週間後に通りの角で待っているという約束をして金策のため街を離れます、、が… アンに二度と会うことはできなかったのでした。。

、、このアンの物語が『地平線』を読むあいだずっと私の頭から離れずに、、 
でも、ド・クインシーは英国の作家、、 モディアノさんはフランス人。。 だけど、 ド・クインシーの『告白』に魅せられたアルフレッド・ド・ミュッセやシャルル・ボードレールは、 まるで自分自身の物語でもあるかのように自己流のアレンジを加えてこれを翻訳したくらいだから、、 二度と会えない少女アンとの生き別れのテーマは、 英国人よりもフランス人の心をより深くつかむものだったのかしらん…… 

だから、もしかしてモディアノさんも、、
などと思って、、 「Patrick Modiano Thomas De Quincey」と、両者の名前を検索窓に入力してみました、、 らば…

なんと、、 検索のトップに モディアノさんご本人の ノーベル文学賞記念講演(英文翻訳のもの)があらわれてきて、、 びっくり… というか 唖然…。。

https://www.nobelprize.org/prizes/literature/2014/modiano/25238-nobel-lecture-2014/


私は難なく英語を読める語学力はないし、 なによりモディアノ作品がまだ2作目なので あまり詳しい解説とか情報を仕入れてしまうと まっさらな気持ちで作品を読むことができなくなってしまうおそれがあるので、 「Thomas De Quincey」の文字の前後だけを拾い読みしてみたのですが、、 
モディアノさんが言及していたのも、 倫敦の街という迷宮のなかでアンと生き別れてしまった苦悩をド・クインシーが振り返っている箇所でした。

  ‘If she lived, doubtless we must have been some time in search of each other, at the very same moment, through the mighty labyrinths of London; perhaps even within a few feet of each other – a barrier no wider than a London street often amounting in the end to a separation for eternity.’
     (Confessions of an English Opium Eater / Thomas De Quincey 1821)



話は少しとびますが…

『阿片常用者の告白』は (アヘン中毒の異常な悪夢を語った告白録として有名ではあるものの) 若き日の少女アンとの出会いと別れ、 追憶と夢の物語というロマン派文学としてもう少し広く読まれてもいいのになぁ、、と思っているのですが…

この作品は夏目漱石の大学時代の愛読書でもあり、 漱石先生は 「オキスフォード」で「アン」を見失った(「倫敦消息」) と、これ以上になく端的な言葉でこの物語を言い表しています(笑 
漱石もまたアンとの生き別れの物語に強く影響を受けたのでしょう、、 都市の群衆の恐怖や、 迷宮のような小路で人とはぐれ、 或は人と人が運命的にめぐり会う、という内容をたくさん書いています。

「都市」「雑踏」「見失う」 というテーマは モディアノさんが記念講演で触れている点とも驚くほど共通していて(モディアノさんは Soseki Natsume の作品をご存知かわかりませんが)、、 作家という感性が引き寄せられる共通項なのか、 生まれ育ちや境遇の類似性によるのか(詳しくは知りませんが)、、 モディアノ作品と漱石作品を掘り下げていけば きっといろいろと響き合うものが見えるはずです。


 運命は丸い池を作る。池を回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海の湧き返る薄黒い倫敦で、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐もなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重の壁に遮られて隣りの家に煤けた空を眺めている。それでも逢えぬ、一生逢えぬ、骨が舎利になって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古に隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲を回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。 (『虞美人草』)


上記の引用の 「書いた人」というのは もちろんド・クインシーのこと。 それにしても、 この部分はモディアノさんがノーベル文学賞記念講演でド・クインシーについて触れた箇所とぴったり符合していますね。 だから 『地平線』を読んだときびっくりしてしまったんです、、私。

 ***

モディアノの『地平線』に話をもどして…

  もうすぐ、僕らは新しい地平線を求めてパリを離れることができる。僕らは自由なんだ。 (『地平線』p47)


地平線の彼方に自由があり、未来がある、という考え方は、 ド・クインシーのロンドンと違って パリならでは という感じがします。 陸続きに列車で地平線を越えてゆけば、ヨーロッパのどこへでも行けますね。


、、作品の終わりのほうで モディアノさんはインターネット検索を登場させていますが、 ネットの世界にはもう 地平線など存在しないのだなぁ… と感慨深く思いました。 

ド・クインシーが、 ミュッセが、 ボードレールが、、 アラン・ポーが、 漱石が、 そしてモディアノさんが、、 人と人を出会わせ、 また永遠に隔てさせた 「都市」や「群衆」や「通り=street」や、、 それから「年月」という時間の「地平線」さえも、、 検索ツールで易々と超えて結びつけてしまう今の世の中。。 記憶がつむぐ物語は、 SNSのタイムラインの中に閉じこめられた 永遠の「事実」というものにすりかわってしまうのでしょうか…



そのような世の中における 見失った《アン》の物語は、、


どうなっていくのでしょうね…


 ***

貴重で ふしぎな、、

パトリック・モディアノさんとの出会い…



今年のラストにすばらしい収穫です。

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