星のひとかけ

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河の生涯・水車の夢 : 『幻の人』スチブンスン作

2017-09-28 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
夏目漱石は 『予の愛読書』の中で、

 「西洋ではスチブンソンの文がいちばん好きだ。力があって、簡潔でくどくどしいところがない… スチブンソンの文を読むと、はきはきしてよい心持ちだ。
話もあまり長いのがなく、まず短編というてよい。句も短い。殊に、晩年の作がよいと思う。Master of Ballantrae などは文章が実に面白い。
スチブンソンは句や文章に非常に苦心をした人である。…スチブンソンの書いた文句は生きて動いている。かれは一字でも気に入らぬと書かぬ。 …また、かれは字引を引繰り返して、古い、人の使わなくなったフレースを用いる。そうして、その実際の功能がある。スコットの文章などは、とうてい比較にならぬと思う」

と、ロバート・ルイス・スティーヴンスンの事を語っています。
前回、漱石が倫敦の下宿で読み耽っていたという 『誘拐されて  'Kidnapped'』1886年 について書きましたが(>>) 'Kidnapped'は、上記で漱石が語っているような《短編》とは言えないような…

漱石が好きと挙げている 'Master of Ballantrae' 『バラントレーの若殿』1889年も、長編冒険小説の部類かと…。 「まず短編というてよい」のは、漱石が 『吾輩は猫である』や『彼岸過迄』で挙げている 『新・アラビア夜話』1882年 におさめられた「自殺クラブ」や、今日書こうとしている『幻の人 "Will O' the Mill"(水車小屋のウィル)』1877年のほうかと… (だから「晩年の作」というのは長編が多いと思うのだけど… ま、そんなことは良いとして…)

 ***


『幻の人』(戸川秋骨訳注 アルス英文叢書 1925年)

この短編は、 現在では岩波文庫の 『マーカイム・壜の小鬼 他五篇』(高松雄一,高松禎子 訳 岩波文庫)の中に、「水車屋のウィル」という題で入っています。 
私も以前、 岩波だったか、別の短編集だったか定かでありませんがこの作品を読んで、何とも言えないせつないような、儚いような、、 説明し難い読後感に包まれ、記憶に強く残っている作品です。

このアルス叢書では、 左頁に英文、 右頁に訳、 下に脚注、という構成になっていて、 従って、漱石先生が語っているスチブンソンの文章の特徴が(私でも)すこしは味わえるのではないかと、 あと、大好きな秋骨先生の翻訳でもう一度、 あの不思議な読後感を確かめてみたいと… そう思って古書を探しました。

「水車小屋のウィル」という原題を、 秋骨先生がなぜ 『幻の人』と訳したのか、については既にツイートにも載せましたが、 この小説が「幻のやうな趣」をもっているから、と秋骨先生は注釈で説明していて
「併しこの題名は、鬼火狐火などいふ Will o' the Wisp に関係をもたしてあるのかもしれぬ」と付け加えています。

ここを読んで、Will o' the Wisp を辞書で調べ、 「Will o' the Wisp」 という語には「鬼火」の意味から派生して「人を惑わす望み」とか「到達できない目標」という意味があるとわかり…。
だから Will O' The Mill という《語感》の結びつきにより、ウィルは鬼火を追い求める人=幻を求める『幻の人』との意味をも持たせているのだと分りました。 そして、この「Will O' The Mill」の中に、 ウィルの夢、 ウィルの生き方、 ウィルの死に様までが込められていたのだ、 なんと深い意味があったのか、と。。 



秋骨先生は 「巻後に」(あとがき)の中で、この作品を
「それは実に英文学中の花であり又宝玉である。その長さから言えば僅か数十頁に過ぎないが、その内容から言えば、寔(まこと)に偉大なる傑作である」
「…その俗情を超脱した趣はやがて著者の人世観であらう。而もこれに配する星や花を以てし、處々に…刺すやうな警句を以てする處、全く得難い作である」… と、 まだほかにも引用したい程、言葉をかさねて書いておられます。

… その秋骨先生の仰る 「著者の人世観」、、 これをスティーヴンスン自身の「人世観」と言っていいのかどうか、 読み終えた今でも私にはまだ判断つきかねています。。 
ともかく、内容に移りましょう…

 ***

大きな山と松林の谷間に住む少年ウィルは、 来る日も来る日も下流へとくだる河の流れと、里のほうへ下る人々を見て暮らしていました。 すべては downward 下へ、下へと去っていく。 そして登ってくる者はほんの一握り。 みな何処へ行くのだろう… 流れ下る河の先には一体何があるのだろう…

水車小屋の主人は、 平原の果てでは川が大河となり、 海へ交わることをウィルに教えます。 ウィルは その遠い場所にある街を想像します、 噴水や、宮殿や、大学や、 軍隊や… 
まるで故郷を離れた者が「故郷を望むが如き病」にかかったように、 焦がれる想いでまだ見ぬ街に憧れるのです。

He was like some one lying in twilit, formless pre-existence, and stretching out his hands lovingly towards many-coloured, many-sounding life.

このような文章を日本語に訳すのはとても難しいと思いますが、 原文ならウィルの想いが感覚的に掴める気がします。 《未だ生まれぬ、 薄明の中に横たわっている存在が、 沢山の色、沢山の音のある生に憧れて手を伸ばしている…》(私の直訳です) 、、そのような未だ見ぬ世界への純粋で切実な 想い。。

スティーヴンソンは 周知の通り、『宝島』を書き、 自分自身も旅に生き、 愛する人を追って米国に渡り、 晩年は南洋サモアで生涯を終えた人でした。 

しかし、、 この物語のウィルは…

ある日、村に来た旅の(旅に疲れた)若者がウィルに、 夜空の星の話をします。 「あの星はみな吾々の世界と同じ世界だ」
けれども、 「吾々にはそれに達する事は出来ない、 人々の尤も巧智な技倆を以てしてもそれ等の内の一番吾々に近いものに向けて船を支度して出す事も出来ないし…(略)… 心臓の破れるまで聲をあげるとするも、それが囁きの聲ほども星には達しはしない…」云々と。。 
ウィルはその話を聞いた後、 自分たちは「籠の中の鼠」みたいだ、と言います。 
その言葉を聞いて青年は 「squirrel turning in a cage」と「squirrel sitting philosophically over his nuts」と、 どちらが「more of a fool」かと問うのです。

・・・ここで読者は、 来る日も来る日も同じ場所で同じ回転をつづける「水車小屋」と、 「回転する籠の栗鼠」との相似を認識させられ、、 もうひとつ「(籠から出て)哲学者ぶって木の実を得て座っている栗鼠」と どちらが「愚か」かという問いを差し出されます。。 これが私にはうまく分らない・・・(泣) 星にたどり着けないのだとしたら、 籠の中の栗鼠も、 森の栗鼠も「大差は無い」と 旅の青年は言いたいのだろうが、、 

そうなのかな、、  スティーヴンソンは本当はそうは思っていないんじゃない??、、、 ちがうだろか、、

だって…
その少し前の部分で、 イカロスを太陽に向けて翼を広げさせた思い、 コロンブスを大西洋へ乗り出でさせた思い、、 と《冒険》の熱情を文中に語っていたじゃないか・・・

でもウィルは、 この谷間に留まり、 そこで暮らし、 やがてマージョリという女性に出会い、、 
「此處自分の狭い谿地の内に忍んで待つて居ながら、 自分も亦一層よき日光を獲得したのであるから」 という幸福を知る。。。 確かに、、 自分の生まれた土地に留まり、 自分の仕事と愛する人を守り、、 そうして暮らす人生も、 冒険に出ていく人生と比べて何の差があろうか。。 ともに貴い人生に違いは無い。 それも真実だと思う。 
その一方で、 別の世界へ出ていく事と、 留まる事と、、 読む者の心は揺さぶられる。

 ***

この物語は、 ウィルの人生の終りの時までを描きます。 花が好きで、 花を摘むことが好きな恋人のマージョリ、、  ウィルは花を摘むマージョリを見て、 花とはそこに咲かせておくままが良いのか、 その美しさを所有するも良いのか、、 そんなことまで考え、 そして結婚というものについて考え、、 ひとつひとつ、、 人生を選択し、 結論を出していくのです。

ウィルの人生、、 マージョリの人生、、 後半の物語を読んでいくうちにいろんな気持ちに揺さぶられて、 ページを繰るたびに泣き出したくなってどうしていいかよくわからなくなってしまいました。。

ただ、、 こうして書きながらやっと気づいたのは、
ウィルは いつでも自分で考え、 自分で結論を出し、 自分の意志に従って生きた、という事。 そしてはっと気づきました、 ウィルの名前は 「will=意志」でもあるのです。 Will O' The Mill は、「水車の意志」でもあったのでした。


秋骨先生の仰った「偉大なる傑作」、 漱石先生が評した「句や文章に非常に苦心をした人」、、 という意味がようやく、 少しわかりました。

この作品は スティーヴンソンが『ジキルとハイド』や『宝島』などの有名な作品を書く以前の、まだ27歳という若い日に発表した作品。。 のちに生涯を共にする年上の女性ファニーとも、 まだ結婚もしていない頃。。 身体の弱かったスティーヴンソンは、 父や祖父のような技術者として生きる道を選ぶことは初めから困難でした。 裕福ではあったけれども、 自分がいかに生きるべきか健康上の制約もあった中で、 スティーヴンソン自身、 ウィルと同様に 外の世界への憧れと故郷での暮らしとの間で悩みも抱えていたのでしょう。 
…読み人も、 若い時、 年齢を経た時、 人生の後半、、 その時々で読んだ印象も変わっていくのかもしれません。 スティーヴンソンは、 人生の晩年を迎えた時に振り返ったら、 この作品をどうとらえたのでしょうか、、 そんなことも考えます。

若き日に思う遥かな未来、 未だ見ぬ世界への憧れ、 天空の星、 地上の花への想い、、
 人生の宝島って、 自分にとっての宝島って、、 本当はどこにあるのだろう…


スティーヴンスンの若き日の 傑作。 対訳で読めてよかったです。


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