「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「ベゴニア と 活性化スイッチ」

2010-07-14 17:11:57 | 和歌

 「ベゴニア」の花は近くで見れば、時により光線の加減で瑞々しい肌が煌めき、その表情には言葉を
失うこともある。多肉植物ゆえの花の表情であろうか?

 花も葉も傷つき易いのもこの花の特徴の一つだが、今年はカメラに収めるタイミングがよかったので、
花も葉も殆ど無傷の姿を写すことが出来た。室内の鉢植えは別として、屋外の路地植えのベゴニアは、隣の草花の葉と擦れあうなど、路地の環境ではごく当たり前のことであっても、敏感なベゴニアには擦り傷などが残って、いつもながら気の毒な思いであった。ベゴニアの置かれた「環境」に関連して、若干横道にそれるが、若者の環境についてチョットだけ考えてみたい。

 昨今の若者の挙動を見るに、何やら「ひ弱になった」のではないかとの批判もまま聞こえてくる。隣の
草花の葉が触れただけで、ベゴニアの花が傷つくほど、若者は鋭敏でもひ弱な存在でもないと信じているが、「草食系」人間などという表現も「肉食系」との対比から、ある意味ではもっと逞しい若者への期待を
こめたものであろう。「学生とシニアの対話会」などを通じて、沢山の学生とも交流してきた実感として、両者の差はごく僅かな刺激の与え方、環境設定によってはかなりの変質が可能だと思われる。

 学生に限らず一般人でも共通だと思われるが、「予備知識の有無」で反応は「月とスッポン」の差が生じる。対話会でも、事前準備を入念にこなした学生の発言や応答には目を瞠るが、そのチョットした努力をサボった学生の反応は生彩を欠き、「草食系」との批判がそのまま当てはまる。学生は自分の置かれた立場、環境を理解して僅かでも事前準備をなし、「心つもり」を胸に秘めることで、対話会でもシニアの発言から多くのものを掴み取り、それを短時間のうちに自分の中で消化している様だ。
 
 一方、事前の準備をサボった学生は、まず彼らの意識が前向きでないことから、挙動は受け身であり、シニアの発言から何かを掴み取ろうとする積極的な姿勢が希薄だ。従って対話会での収穫は、シニアの発言の表面的な部分にとどまり、プラスαが殆ど見られない。

 学業も研究も、或いは日常生活でも、多分同じことが云えるのではなかろうか。
ほんのチョットした「心がけ」の差が、結果的には大きな成果の差につながるのであろう。
人間は自らの意思で、自分の置かれた環境を替えることも、更には成果を評価してフィードバックする知恵も持ち合わせている。はたまた感性自体も、自ら切磋琢磨することで感度を磨き、多くの情報を手に入れることも可能だ。

 人間は活性化のスイッチを自ら”ON”に入れるか、そのスイッチの存在に気付かずに所謂「草食系」の侭でいるかは、基本的には本人の問題であるが、指導者がいるのであれば、「活性化スイッチ」の存在に気付かせるところまでは、若者を導いてやりたいものだ。

 ベゴニアの環境から話が横道にそれたが、ベゴニアの環境への気配りはベゴニアを楽しむ人間の務めであろう。たまたま今年は傷のないベゴニアの写真がとれたことから、思わぬ話題になったが、「シニアと学生の対話会」ではより多くの学生に、「活性化スイッチ」の存在をそれとなく伝えられればと念じている。






            花も葉も傷つき易きベゴニアの

            無傷のすがたを如何にや守らむ


            陽を受けて煌めく花びら白妙の

            素肌に穢れの無きぞ貴し


            ベゴニアの瑞々しくも咲けるかな

            滴るみどり葉 無垢の白花


            観る人の少なき哀しもわが庭に

            ベゴニア無垢に咲けるを告げなむ






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