「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「名残の唐綿」

2010-12-26 14:33:57 | 和歌

 些か季節外れだが、唐綿の名残の花が「うつろ庵」の庭に咲いている。

 生垣で寒風も遮られた陽だまりの庭がお気に召したようで、よく見るとまだ沢山の莟が付いている。
唐綿に言わせれば、「名残の花どころか、まだまだコレカラヨ」と艶やかな気炎をあげるに違いない。この唐綿は苗を植えたのでも、種を蒔いたのでもないが、別の場所にあった株から種が舞い降りて咲いたものだ。この花もやがて5・6センチ程もある実を結ぶことであろう。実莢が枯れて割れると、中から銀色に輝く綿毛がのぞく。2センチ程もあろうかという長さの綿毛は、風に舞って何処へでも種を運んで、思いも懸けぬところに花を咲かせることになる。

 「うつろ庵」では、かねて門扉の脇に一鉢があって、そこで花を咲かせて愉しませてくれたが、そこから奥まった庭へ綿毛で舞い降りたものだ。唐綿はこの様に、風に舞って自由気侭に何処へでも花を咲かせるが、人間社会でこの様な振る舞いをしたらどうなるのだろうか? 好き勝手な行動は許される筈もないが、かなり気侭な言動をしながらも、受け容れられているご仁も中には居るようだ。その人間の類まれな、親しみ易く憎み難い性格によるものかもしれないが、一方では、好き勝手な振る舞いをしている様でいて、人知れず細かな気配りが行き届いている人だけが、受け容れられているのであろう。

 人の世では細かな気配を尽くしても、ほんのチョットしたキッカケで、誤解を生むことすらある。お互いに意思のある人間同士ゆえに難しいところだ。人間と、意思を持たない自然界の関わりを教訓とするならば、人間社会では気配りが過ぎるのは、得てして好まざる結果をもたらすものの様だ。






              いまだなお名残の花を咲かすとは

              日向の庭がお気に召すらし


              唐綿はまだあまたなる莟持ちて

              花咲くこころか名残の後にも


              今朝観れば既に実莢の幾つかが

              育む種をばしかと抱きぬ