花の殆どなくなったこの時節には、赤い実をビッシリつけたピラカンサが、主役に登場する。
斯くも無量大数の実を、枝も撓につけるのはピラカンサを措いて、他にないのではなかろうか。
元来、草木に係わらず花が咲き実をつけるのは、種の保存の法則だから別に不思議はない。が、しかしである。ピラカンサの実の付き様は尋常ではない。
世の中には「歩留まり」という概念があるが、例えばこのピラカンサの実が地に落ちて芽生える歩留まりが、仮に1%いや0.1%だと仮定しても、ピラカンサの足元には沢山の子孫が芽生える筈だ。数年の内には、辺り一面にピラカンサが蔓延ることになるが、現実はそんな情景にお目にかかった例がない。
ピラカンサの実の数がこれ程に多いのは、虚庵居士にとってはまさに「摩訶不思議」だ。
冬を迎えて野鳥たちにとっては、厳しい試練の時節を迎える。自然の食べ物は極端に少なくなって、
小鳥たちにとっては「種の保存」どころか「食べ物を探し、生きて行く」ことが、最大のテーマであるに違いない。そんな厳しい自然環境の中で、ピラカンサは小鳥たちにとって、掛け替えのないレストランなのであろう。やがて多くの小鳥たちが腹をすかせて、このピラカンサにも集ってこよう。家々の庭や遊歩道に自然が豊かなこの界隈は、小鳥たちの種類も数も豊富だ。目白・鴬・つぐみ・ひよどり・赤腹等などが集って、啄みながら交わす姦しい鳴き声の季節も、間もないことだろう。
ピラカンサの実がこれ程に多いのは、わが身の子孫を残すだけでなく、小鳥たちへの恵みを与えるためであろうか。ピラカンサがそのために無量大数の実をつけるなどと言う、「思いやり」の心があるとはとても思えない。小鳥たちだけでなく、好き者の人間はピラカンサの実でジャムを作り、砂糖漬けや果実酒を作るというが、好き者の人間の為か?
創造主の神はこの世の生き物達に、わが身のためだけでなく、次元を超えて恵みを与えることを諭すために、そして類まれなサンプルとして、ピラカンサをお造りになったのだろうか・・・。
それにしては、枝に持つ鋭いイバラは何のためだろう?
重なりて 押し合いへし合う赤き実を
なぜに斯くまでつける君かな
君知るや冬来たりなば赤き実を
啄む鳥の囀る歓喜を
神ならでピラカンサスの思いをば
知るよしもがな尽くすこころを