たぶん、ずいぶん前に何か雑誌に書いたエッセイ。「最初の記憶」というタイトル。
短いですが、ご賞味のほど。
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最初の記憶
夏の日、祖母の家の庭。水を張った盥に、魚の形の菓子をいくつも浮かべた。水をかき回すと、菓子の魚が渦に飲み込まれる。ぼくは菓子が本物の魚のようにやがて泳ぎ出すと信じ、じっと見つめる。
これをずっと「最初の記憶」だと思っていた。ところが、それがかなり怪しいのだ。古いアルバムには、このシーンを撮影した白黒写真が張ってある。父母から、その時の様子を聞かされたこともある。とすると、この記憶は、写真や父母の話から後になって再構成したものではないか。
身近な人たちに聞いてみても、こういう「再構成派」はいる。ぼくのつれあいの場合は傑作で、「お腹の中から、母親がオルガンをひく姿を見たのが最初の記憶」と思っていたそうだ。
人は何故そのように「最初の記憶」を求めるのだろう。たぶん、不安だから、ではないか。自分がどこから来たのか知りたいという欲求は誰にもある。それが切実だった子供の頃、ぼくは利用できる様々な材料を駆使して、あのしあわせな夏の日の「記憶」を作り上げた。今、それが本物の記憶ではないことを確信し、ちょっと寂しくもある。幼年期を「損した」気分。
今、2歳の息子がいる。彼を見ながら思うのは、直接の記憶が残らないとして、逆に彼は、どういったことをこの時期に心の中に取り込むのだろう。先日、緑豊かな近所の公園に遊びに行った時、ひとつの答えを見つけた。緑が見えたとたん彼は歓声をあげた。足下に蟻を見つけ、顔を地面につけるようにして追いかける。父親であるぼくと一緒に──つまり、そういうことなのだ。
緑の中で、楽しい気持ち、大地に足を踏みしめて立つ感覚を、ぼくはその時抱いていた。これは「記憶」にはない幼年期に形作られた情動。そして同じ時空を共有した息子は、やがてこの「記憶」を昇華して、この世界とのつき合い方、感受性のありようを決めていく。そんな気がしたのだ。
ぼくにとって最初の記憶は、ある特定の出来事ではない。自分が世界の中にあるという感覚、情動そのものに違いない。そんなふうに考えたらストンと腑に落ちた。ぼくは損なんてしていない。
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追記@2008
短いですが、ご賞味のほど。
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最初の記憶
夏の日、祖母の家の庭。水を張った盥に、魚の形の菓子をいくつも浮かべた。水をかき回すと、菓子の魚が渦に飲み込まれる。ぼくは菓子が本物の魚のようにやがて泳ぎ出すと信じ、じっと見つめる。
これをずっと「最初の記憶」だと思っていた。ところが、それがかなり怪しいのだ。古いアルバムには、このシーンを撮影した白黒写真が張ってある。父母から、その時の様子を聞かされたこともある。とすると、この記憶は、写真や父母の話から後になって再構成したものではないか。
身近な人たちに聞いてみても、こういう「再構成派」はいる。ぼくのつれあいの場合は傑作で、「お腹の中から、母親がオルガンをひく姿を見たのが最初の記憶」と思っていたそうだ。
人は何故そのように「最初の記憶」を求めるのだろう。たぶん、不安だから、ではないか。自分がどこから来たのか知りたいという欲求は誰にもある。それが切実だった子供の頃、ぼくは利用できる様々な材料を駆使して、あのしあわせな夏の日の「記憶」を作り上げた。今、それが本物の記憶ではないことを確信し、ちょっと寂しくもある。幼年期を「損した」気分。
今、2歳の息子がいる。彼を見ながら思うのは、直接の記憶が残らないとして、逆に彼は、どういったことをこの時期に心の中に取り込むのだろう。先日、緑豊かな近所の公園に遊びに行った時、ひとつの答えを見つけた。緑が見えたとたん彼は歓声をあげた。足下に蟻を見つけ、顔を地面につけるようにして追いかける。父親であるぼくと一緒に──つまり、そういうことなのだ。
緑の中で、楽しい気持ち、大地に足を踏みしめて立つ感覚を、ぼくはその時抱いていた。これは「記憶」にはない幼年期に形作られた情動。そして同じ時空を共有した息子は、やがてこの「記憶」を昇華して、この世界とのつき合い方、感受性のありようを決めていく。そんな気がしたのだ。
ぼくにとって最初の記憶は、ある特定の出来事ではない。自分が世界の中にあるという感覚、情動そのものに違いない。そんなふうに考えたらストンと腑に落ちた。ぼくは損なんてしていない。
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追記@2008
話は変わりますが、マイベストセラーである「てのひらの中の宇宙」が読書感想文コンクールの題材として取り上げられたことにとてもうれしく思っております!といいますか興奮してしまいました(笑)おめでとうございます!!私としては夏のロケットもイチオシなのでこちらもたくさんの中高生に読んでいただきたいのですが!
これからも川端さんのご活躍を期待してます。お体に気をつけて頑張ってくださいね。それでは長々と失礼致しました。
で、女子高(大)生さん、ごぶさたしています。
大いに悩んで、楽しいキャンパスライフを謳歌してください。
ちなみに、予告しておきますが、今から20年くらいたっても、悩みはつきないし、また、楽しいことはいっぱいあります。最近、ぼくの身の回りは波瀾万丈、悩ましく楽しいことばかりですわ。
で、読書感想文コンクールは、うれしかったですよ。なにはともあれ、高校生の部だったのがよかった。
授賞式にいってきたのですが、高校生って、知的に完成されようとしている一歩手前のところじゃないですか。
そんな時期に、読んでくれて、おなかつ、それが響いたからこそ、感想文など書いてくれたわけで、ああ、この仕事やっててよかったなあ、と思いました。
しかし、ご指摘の通り、情動などはエピソード記憶としてではなく脳に刻み込まれる。他にも家族の顔や見慣れた光景も意識的にアクセスや取り出しはできなくても残っています。また、歩き方、スプーンの使い方などの手続き記憶もなくならない。これらのほうが古い記憶ですが、最初の記憶、というときには出来事の記憶だけが語られますね。
「ペンギンのヒナは卵黄時代に親の声を聞いて覚える」よりはまともだし…(某社編集の力説より。せめて脳と感覚器官が発達してからにしてくださいということで、この説はお流れになりました)。
その夢の話は、こないだしていたバラバラの夢とは別の夢なんですか? なんか夢の中で殺人事件件数多くないですか?
わたしは今朝、夢の中でエドはるみになっていたのに、あることでぶち切れてしまい「あっ、エドはるみは大人だからこんなことで切れないのに~っ」といたく後悔しているところで目がさめました。
> ぼくにとって最初の記憶は、ある特定の出来事ではない。自分が世界の中にあるという感覚、情動そのものに違いない。
この感覚はボウルヴィという心理学者が指摘した 愛着 というものをさしていると思います。コトバを話し出す前の小さい頃に(自分の中に私がなく、大きくなったら出来事記憶は思い出せないころ)、その人がどれぐらい人を好きか、世界を好きか、が決まってくる。
>やがてこの「記憶」を昇華して、この世界とのつき合い方、感受性のありようを決めていく
まさにこのとおりだと思います。エリクソンは基本的信頼感と呼びました。教科書の説明よりもカワバタさんの文章のほうがよく分かります。
基本的信頼感は生きていく上での 芯 になるもの。それが作られるとき立ち会うのが親の仕事、醍醐味ですね。
蕗の葉に蟻ゐることも子の歳月 細見綾子
エッセイを読んで上の句が思い浮かびました。
って、ぐっときます。
ぼくはかなり、人が好きで、世界が好きなんですが、これってきっと、言葉を話せなかった頃のぼくに接しくれた人たちや、生き物たちや、様々な物事たちのおかげなのですね。
すごく腑に落ちます。
ありがと。
って気分です。