川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

「不完全な世界で子どもを護る、ということ」(中央公論・3月号掲載)をブログで公開します

2011-04-22 23:25:04 | 雑誌原稿などを公開
中央公論 2011年 03月号 [雑誌]中央公論 2011年 03月号 [雑誌]
価格:¥ 900(税込)
発売日:2011-02-10
中央公論・3月号掲載の「不完全な世界で子どもを護る、ということ」という小論を、公開します。

公開するのは、校正前の原稿であれ、厳密には雑誌に掲載されたものとは違い、誤字脱字なども多く残っていることをご承知起きください。
***********
「不完全な世界で子どもを護る、ということ」

非実在青少年から非実在犯罪規制へ

「東京都青少年の健全な育成に関する条例」(以下、都条例)の改正が、2010年12月、都議会で可決され、本年7月より施行される。過激な性描写を含むマンガやアニメなどの事実上の表現規制として話題になり、メディアでも取り上げられたため、それほど関心のない方でも「なにかやってるぞ」と気づく機会はあったのではないだろうか。

 簡単におさらいをしておく。

 きっかけは、2009年、東京都青少年問題協議会から都知事に提出された答申「メディア社会が拡がる中での青少年の健全育成について」だ。この中で、18歳未満と認識される登場人物(のちに都条例改正案で「非実在青少年」とされる)が、性的な対象として描かれたマンガやアニメを問題視した。これを受け2010年2月に都議会に上程された改正案で、都は「性交又は性交類似行為に係わる非実在青少年の姿態を視覚により認識することが出来る方法でみだりに性的対象として肯定的に描写する」図書の流通を限定する事実上の表現規制に乗り出した。

 これに対して、里中満智子、永井豪、ちばてつや、竹宮惠子といったマンガ家らが、「憲法で保障された表現の自由を侵害する」といちはやく反対を表明したほか、日本図書館協会、出版倫理協議会、日本ペングラブ、東京弁護士会、日本弁護士会、といった諸団体(他にも多数)も同主旨の反対を表明した。組織の後ろ盾を持たない市民レベルでも、インターネットなどで情報を交換しあい、都議に対して手紙や電子メールでの意見表明を行うなど盛り上がりを見せ、6月、条例案は継続審議として差し戻されることになった。

 そして、11月22日、満を持して都は、新改正案を提出した。

 新改正案では、「非実在青少年」という言葉を排し、その代わりに「刑罰法規に触れ」たり「婚姻を禁止されている近親者間における」性交、若しくは類似行為を「不当に賛美し又は誇張」してはならないとの表記にかわった。

「青少年の性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがある」というのが理由だ。

「非実在青少年」という言葉を引っ込める一方で、「刑罰法規に触れる」性行為すべてを対象にするわけで、むしろ規制範囲は広がったと取れる。多くの漫画家、諸団体、一般市民等が、再度、反対を表明したものの、時間の猶予がない中での審議であり、今回はするりと可決され条例改正は現実のものとなった。慎重運用を求める付帯決議も同時になされたが、「表現の萎縮」を懸念する声は今も大きい。

 以上が、大ざっぱな経緯だ。さらに興味のある方は、「東京都青少年健全育成条例」でネット検索していただければ、これでもかというくらいの情報を得られるだろう。


PTAの関与

 筆者がこの問題と出会ったきっかけは、2010年の3月、インターネットのツイッターで「都小P(東京都小学校PTA協議会)という団体について、川端裕人なら素性を知っているだろうか」という主旨のメッセージを受け取ったことだ。

 筆者は、現在、中1、小4(注・当時)の子どもを持ち世田谷区立の小中学校に通わせている。小学校のPTA役員(副会長)をつとめたこともあり、本業は小説家だが『PTA再活用論』(中公新書ラクレ)というノンフィクションの著書もある。ならば都小Pについて情報を持っているのではないか、とのこと。

 都小Pは、この条例改正と密接な関係があり、そもそものきっかけになった審議会にも、会長(新谷珠恵氏)が参加していたし、早期の採択を求めて請願書も提出していた。しかし、ネット検索しても、定款や構成員の情報がない「謎の団体」として、改正案に反対する人たちの間で話題になっていたそうだ。

 質問者の想像通り、筆者は多少なりとも都小Pのことを知っていたので、情報提供しつつ、条例案改正の動きについて調べた。そして、なんとも変なことが起きていることに気づいた。

 都小Pが提出した請願書ひとつとっても、現実の被害者がいる児童ポルノの検挙者数が過去最高(平成21年)になったことと、マンガやアニメなどに過激な性描写にあることを同列に論じ、条例改正案に反対する人を「子どもを守るよりも自分を守ることが大事だと言っている」と一面的に断罪していた。

「私たちは親としてこのような主張(「表現の自由」などをめぐっての条例案への反対・筆者注)を受け入れられない」と、東京都の保護者がこの件に非常に強い立場を共有していると誤解させる文言には、首をひねらざるを得なかった。

 誤解、とあえて書いた。

 都小Pは、字面の上では東京都の小学校PTAを代表しているように聞こえつつも、実は決してそんなことはない。それも、二重、三重もの意味で。

 理解していただくために、誰もが名前を知っているわりには、実態を知られていない「PTA」について一般論的に素描しよう。

 PTAは、戦後、GHQの発案、文部省の旗振りで、教育民主化のため、各学校ごと個別に結成された団体だ。保護者と教師が学びあい、とりわけ民主主義について理解を深め、成果を教育(学校教育はもちろん家庭教育も)の現場に還元するのを旨としていた。もっともこの理念は早々に忘れ去られた感があり、実質的に「保護者代表組織」として扱われるようになって久しい。学校単位のPTAが連合して、市区町村単位の連合をつくる場合が多く、筆者が住む世田谷区では、区内のすべての区立小学校の64PTAが、世小P(世田谷区立小学校PTA連合協議会)に加盟している。そして、世小Pをはじめとした他の市区町村の小学校PTAが連合してできたのが都小Pだ。

 ひとことでPTAと言っても、個々の学校のPTA、世小Pのような市区町村PTA、都小Pのような都道府県のPTA、さらには日P(日本PTA全国協議会)にいたるまで様々な階層がある。これらはメディアでもあまり区別されないことが多く、まずその点に留意。また、日P、都小P、世小Pといった組織は個々のPTAにとって上部組織というわけではなく、あくまで「連合組織」であることも、忘れられがちだが重要な点だ。

 いずれの階層のPTAも慢性的に抱えている問題は、参画意識の希薄さだといえる。

 保護者にとって一番身近なのは、学校単位のPTAだ。自分の子が通う学校で活動するものだから、いやがおうにも意識せざるを得ない。ただし、父親は、直接PTAにかかわることが少なく、自覚がない人も多いかもしれない。また、趣旨に賛同した者が入会する任意の団体であることを知らない保護者も多く(多くのPTAで、入会手続きを極端に簡略化し、自動加入・強制加入させている悩ましい現状がある)、割り振られる「役」をこなして「義務」を果たせばお役目ご免という風潮がまかり通ることも多々ある。

 ましてや、市区町村のPTA連合となると、自分が会員であることに気づいていない保護者の方が圧倒的多数だし、都道府県、日本全国レベルでは、その傾向はさらに強くなる。筆者がテレビ局に勤務していた時、担当する番組が日Pの「子どもに見せたくない番組」にランクインしたとを嘆く同僚や同業者がいた。実はその彼らもPTA会員であり、日Pの構成員でもあった。市区町村レベル以上の「PTA」は、保護者自体加入していると自覚していることが希な以上、意見表明したり、方針に賛意あるいは異議唱えたりすることはほとんどあり得ない。たまたま自覚的な人がいても、一会員が意見を執行部に届ける仕組み自体、整っていない。

 さらに東京都固有の問題。

 都小Pは全国的にみて極端に加入の市区町村PTAが少ない。23区のうち加入しているのは、世田谷、足立、目黒、文京、江東の5区だけであるようで、1311校ある公立(市区町村立)小学校のうち248校(全体の18・9%)のPTAが参加するのみだ。本来保護者代表組織として設計されておらず、ただでさえ参画意識が希薄になりがちな組織構造を持ち、実際に組織割合が極端に低い都小Pが、二重、三重の意味で「保護者代表」の資格がないことをご理解いただけるだろうか。

 ゆえに、東京都の区立校に子を通わせる保護者として、勝手に代表してくれるな!というのが第一の感想だったわけだ。


保護者は条例改正に賛成?

 歴史をひといてみると、たしかにPTAは表現規制と親和性が高い。1955年の悪書追放運動では、各地の校庭で焚書が行われたという。その中には、手塚治虫の『鉄腕アトム』なども含まれており、今の目で考えるとなぜこれが?と衝撃を感じる。1964年、都の健全育成条例制定(以降、幾度も改正され、今回のものに繋がっている)の際には、台東区のPTA連合会からの陳情がきっかけになった。焚書に関しては個々の学校のPTA会員や今よりずっとさかんだった「母の会」会員レベルの動きであろうし、台東区の連合会の陳情も小中学校の数が少ないこぢんまりした区であることを考え合わせると比較的保護者に近いところでなされたものだろう。

 けれど、今回は勝手が違う。都小Pが「代表」していると想定される、都内公立校に子どもを通わせるような「大多数」の人たちの、子育て、そして、教育の現場から、声が聞こえてこないし、行動も見えてこなかった。

 というわけで、自分にできるささやかなこととして、身の回りの保護者仲間に聞いてみた。

 都条例改正に賛成? 反対? それとも無関心?

 結論は、無関心がほとんど。改正案自体知らなかった人が大多数だった。

 そこで、概略を説明して、意見をあらためて聞くと、非常に興味深い「ねじれ」に遭遇した。

 改正される条例は青少年の「健全育成」を目的としたものだ。「性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれ」を問題にしている。にもかかわらず、筆者が身の回りで話を聞いた十数人の保護者(主に小学生の母親)は、この件を子どもが性的な被害を受ける可能性の問題として読み替えた。過激な表現のマンガ→認知の歪んだ性犯罪者予備軍の誕生→子どもの性犯罪被害、という都小Pの請願書にも垣間見られる連想の流れが、ごく自然に起きた思われる。その意味で都小Pの請願書は図らずも、表層的ながら「代表性」を持っていたかもしれない。もちろん、だからといって、無条件に代表されてしまうのは困ることに変わりないのだが。

 なにはともあれ、筆者は、対話する相手に、都条例改正案がはらむ数々の問題点を背景のレベルから説き起こすようにつとめた。そもそも児童ポルノ事件が増えたのは、我々の社会が(つまり警察が)つい最近になってこの問題に熱心に対処するようになった部分も考慮しなければならないこと、母親たちが心配する子どもの犯罪被害や性犯罪被害は、長いスパンで見ると画期的に減り続けていて、短期的にもここ7年ほど減少方向にあること、等々(「少年非行等の概要」〈警察庁生活安全局少年課〉)。

 説明に大いに納得して、「ああ、なるほど、こりゃやりすぎだ」と条例案を評する人もいた一方で、「だって、性犯罪は、たとえ減ったとしても、本来あってはならないものだよね」と主張する人もいた。その割には、自分の子どもが規制を受けるようなマンガと出会って認知が歪むことを心配している人はゼロだった。あくまで、被害を受ける側の立場として、どこかでだれかが有害マンガのために歪んだ認知を持つこともありうると、感じているようなのだった。

 青少年の健全育成を語っていたはずが、いつの間にか、防犯の文脈になってしまうわけで、筆者にとってこれは大きな発見だった。というのも、以前「PTA再活用論」において、今世紀になってからのPTAは、かつてのような環境浄化運動よりもむしろ、治安・防犯に関心を抱き、変貌を遂げたと結論づけたことがあるからだ。

 2000年の池田小事件は、学校という安全であるべき空間においてさえ、凄惨な悲劇が、外らかの危険な侵入者によって起こりうると印象づけた。以降、学校は警備員や防犯カメラに護られるべきものとなった。

 さらに、2002年と03年、各地で起こった小学1年生の連れ去り事件は、小学生の子を持つ親を恐慌に陥れ、全国各地でPTAによる防犯パトロールが続々と誕生した。筆者の住む世田谷区でも、この時期に64校すべてのPTA防犯パトロールが実現している(以前はパトロールを実施しないPTAも多かった)。その一方で、区内のある養護学校では、急激な「不審者」へのまなざしのの変化に戸惑い、「私たちの子らはしばしば不審な行動をすることがあるが、むしろ護られなければならない存在だ」という趣旨の緊急アピールを出さねばならなかった。

 筆者はこれらの一連の様相を今世紀になってからのPTAの顕著な特徴と感じ、「防犯PTA」と呼んだ。また90年代「開かれた学校」をキーワードに地域社会への開放を模索する流れがいったんせき止められた上で、今世紀には「学校・家庭・地域が連携して築く地域社会の安全安心」に横ずれしたとみた。

 今回の都条例改正で認識を新たにしたのは、「防犯PTA」を形作った保護者の心性は、やはり広い意味での環境浄化であり、健全育成と防犯の問題はかくも容易に合流するということだった。


過激な性的マンガを読むと健全育成は阻害されるのか

 では、都が問題にするようなマンガやアニメは、実際に健全育成を阻害するのか。

 実は証拠はない。しかし、条例の改正を望む人は証拠など別に必要と感じていないようだ。

 都小P会長の新谷珠恵氏は「マイノリティ(過激なコミックなどの愛好者・筆者注)に配慮しすぎたあげく、当たり前のこと(氏が不適切と感じるマンガなどの規制・筆者注)が否定されるのは納得できない」という立場だし、審議会委員のひとりで出産・子育てに関する論者、大葉ナナコ氏に至っては、その手のコミックを好む者を「認知障害を起している人たち」「エビデンス(証拠)を出す時間も必要もない」と述べている(両氏ともに審議会議事録より)。

 極端な意見であると、筆者には思える。

 ある問題について社会的コストをかけて対策を施そうするなら、当然、問題を引き起こしているされる「原因」との因果関係と、施策によって期待できる効果について証拠(エビデンス)があった方が望ましい。声の大きな人の意見が自動的に通ってしまうのでは困る。「証拠がなくても懸念され、対策を取るべき」場合というのはもちろんあるが、その際には、既存の知識と整合性がとれた充分に合理的な対策であるべきだろう。

 証拠と単純に書いたが、因果推論で最も信頼されるのは、疫学的な研究だ。そもそも、日本では「科学的な証拠」と訳されることが多いエビデンス(evidence)とは、主として疫学証拠のことだ。疫学について、ここで多くの紙幅を費やすことはできなのが残念だが、医学や公衆衛生分野の研究から始まり(例えば感染症や生活習慣病、あるいは治療法の効果などの研究)、「なにかの原因が、なにかの結果を引き起こす」という因果関係を推定するための手法として世界標準となっている。今では防犯も含むその他の多くの分野で活用されるようになった。

 残念ながら、日本での認識は浅い。日本は、たばこ会社が「喫煙とがんの因果関係は、まだ科学的に解明されていない」という立場を今もとり続けられる珍しい国であることに留意。これも疫学への社会的無理解から来ている。21世紀の社会を生きるためのリスクセンスを持つためには必須のものなので、ここではじめて「疫学」という言葉を知った読者は、入門書の一読をお奨めする(「市民のための疫学入門」(津田敏秀、 緑風出版)など)

 さて、疫学の入門書を1冊でも読んでみると、「子どもが過激なマンガを読んだら、認知が歪む」という仮説について、適切なグループを設定して、表に示したような各マスを埋めるような調査をしてみたくなる(これを単純に2X2表と呼ぶ)。
 
        過激なマンガ等を読んだ  読まなかった
認知が歪む
認知が歪まない

 これらの各マスの人数を比較してはじめて、過激なコミックが健全育成に与える影響の目星がつけられる。しかし、ぱっと見ただけでもこのような調査は難しい。そもそも、認知の歪みとは何だろう? 健全と不健全の境界は? 定義が困難だ。問い自体が充分に客観的ではないのだ。

 そこで、過去の悪書追放運動でやり玉にあがった『ハレンチ学園』や『鉄腕アトム』を子どもの頃に読んだ現在の大人が、どのように成長したか考えてみる。例えば性犯罪や粗暴な傷害・殺人事件を起こした大人のグループと、犯罪歴のない大人のグループを対照研究して、先ほどのような2X2表を作成した場合、『ハレンチ学園』や『鉄腕アトム』の犯罪への影響は測定できるだろうか。

 実際問題として、日本における性犯罪や暴力事件、とりわけ暗数が少ないとされる殺人事件は、1950年代の悪書追放運動の時代から、増加しているわけではなくむしろ劇的に減っているので、そもそも検証すべき仮説として提示することすら無理があるというのが正直なところではないだろうか。

 え? 日本では犯罪が増えて、治安が悪化しているのではないの? 
 青少年犯罪が増加、凶悪化しているのではないの? 
 と疑問を抱く人がいるかもしれない。

 実はこれらは、21世紀に入ってからそれぞれ一定の期間、力を持った言説だが、のちに統計の恣意的な解釈が指摘され、今ではおおっぴらに述べる論者はあまり見かけなくなった。


リスクはゼロになりえない、しかし……

 すべての施策にはそれなりのコストが伴う。だから根拠もなしに、対策をほどこすことは、様々な意味で得策ではない。

 現在、青少年による犯罪は目立って多いわけではなく、かつて青少年だった大人による性犯罪も多いとはいえない現状の中で(つまり健全育成の文脈でも、治安・防犯の文脈でも、今はそれほど酷いわけではない)、大きな「事実上の規制」をかけることは、病気の症状のない人に無理に副作用のきつい薬を飲ませるようなものだ。

 施策を推進するためには税金が使われる。規制するマンガのリストアップひとつとっても、書店をめぐり、置かれている棚を確認し、充分に読み込んだ上で判断しなければならないわけで、膨大な労力になるだろう。辛辣な規制反対派は、警察の権益拡大とポストづくりが目的と指摘する。

 その一方で、「子どもが被害にあうのは、本来あってはならない」という筆者が聞き取った保護者の意見もないがしろにできない。健全育成の議論と同時に語ろうとすると、さきほども見たようにおかしなことになってしまうわけだが、防犯・治安は常に重視されるべきだろう。

 気をつけなければならないのは、悲しいことではあるが、いかなる施策をもってしても、被害をゼロにはできないことだ。我々が住んでいるこの世界は実に不完全にできていて、こんな「当たり前」の願いすら達成するのは絶望的だ。

 1日24時間大人が交代で見守ったとしても、どこかで何かが起きる。なぜならいかなる大人も、「完全」ではありえないから。子どもたちが護られているべき学校でいくら外部からの侵入者を防いでも、教師が生徒・児童に対して性的な犯罪行為を働く事例は後を絶たない。表に出てこない暗数も少なくないだろう。しかし、いかに規制や厳罰化などを推進してもゼロにはならないし、ある領域より先は、むしろ「教育現場の萎縮」の方が問題になってくる。

 また、学校外に目を転じると、見ず知らずの他人に命を奪われる子どもより、保護者による虐待をはじめ、身近な者によって命を落とす子どもの方がはるかに多いという事実は本当に重たい。親による虐待は、胸をかきむしられるほど切ないが、かといって、親権の剥奪・停止をどの水準で行うべきか、唯一無二の正解などない。

 なお、ゼロリスクが望み、極端に推進したとき起きる弊害について、医学・疫学分野で言われる「感度と特異度は両立しない」ことを例に引くとよく理解してもらえる場合があるので、その概念を紹介しておく。防犯の施策は、集団を対象にする点で、公衆衛生施策と対比できることが多く、参考になることが多いと筆者は感じている。

 がん検診を例に考える。がんを見逃さないためには、感度のよい検査方法が望ましい。感度とは、検査を受けた人の中で、「本当にがんの人ががんと判定される割合」だ。これは100%に近い方がよいと考えるのが自然だが(見逃しがあったら困る!)、感度を上げると必ず「がんと判定されたが、本当はがんではない人」(疑陽性)も同時に増えてしまう。防犯に当てはめるなら、「感度のよい防犯体制は、真の犯人を取り逃さないと同時に、誤認逮捕を冤罪も増やす」ということになるかもしれない。さらに「本当は不審ではない不審者が増え、社会の体感治安が悪くなる」効果もあるかもしれない。

 がん検診では、感度のよい検査法の後で、今度は「がんではない人が、がんではないと判定される」(これを特異度が高い、という)タイプの検査を行いスクリーニングする。本当は一度の検査で済ませられればそれに越したことはないのだが、残念ながら感度と特異度は一般に両立しないことがわかっている。感度を100%に持っていこうとする意識が、防犯100%を目指すゼロリスク指向に対応するとすれば、その副作用は前述の通りのものになりそうだ、というわけ。いかがだろうか。ひとつの説明として成立していると思われるだろうか。

 いずれにしても、リスクはゼロにならないし、無理に目指しても副作用が噴出することを織り込んだうえで、いったいどこで折り合いをつけられるかというのが、我々のテーマだ。その際、「悪いこと」を少しでも減らせないかと考えるのは、ごく自然なことであり、そのためのベターな施策をあきらめずに模索したい。健全育成と防犯を混同した心性によって支持されるようにみえる都条例改正より、ずっと合理的で、コストも適正であり、「表現の自由」などにかかわる副作用も少ない、実効ある方法はないものか。


証拠にもとづいた防犯

 警察庁直属の機関、科学警察研究所(科警研)の研究を嚆矢とし、すでに証拠に基づいた防犯の試みが現実に始まっている。

 まず現状認識として、PTAや地域住民が闇雲にパトロールするだけでは、事態の改善は期待できない、と思った方がいい、ということ。それどころか、科警研では「ムリ・ムラ・極端なものであったならば、その防犯対策は資金や手間の面で非効率で持続しないばかりか、子どもの健全な発達を阻害する可能性すらある」「客観リスクに見合った良質の対策を追求すべき」と警鐘を鳴らしている(島田貴仁主任研究官、予防時報232、2008年)。

 つまり、ここでも、防犯と健全育成が密接にかかわっていることが示されている。しかし、今まで見てきたものとは逆で、防犯への過度の取り組みがむしろ健全育成の阻害要因になりうるという認識だ。たとえば、曖昧な不安感に駆られて、子どもに「外遊びは怖いから、家でゲームしてなさい」というのは、いかがなものか、ということ。筆者の観点では、防犯にからめて都条例改正を読み込み対策を推進することが、実は本来の目的の「健全育成」を阻害する可能性すらあると見る。

 では、客観リスクに見合った良質の対策はどうすればよいのか。

 具体例として、都条例と同じく東京都での取り組みを挙げよう。

 平成21年度、警視庁は科警研の協力を得て「さくらポリス」なる組織(子どもと女性の安全を守るために創設された庁内のチーム)を発足した。詳細は、科学技術振興機構・社会技術研究開発センターの研究領域「犯罪からの子どもの安全」のウェブサイトの記事(http://www.anzen-kodomo.jp/pdf/col17.pdf)などがよくまとまっているので参照されたい。

 思い切り単純にまとめてしまうと、疫学で重視される「時・場所・人」(どんな時に、どんな場所で、どんな人が加害者となりうるか)という情報を蓄積し、ピンポイントで犯罪防止をしようという考え方に基づいて捜査員の配置を行う。

 近年、発達がめざましい地理情報システム(GIS)を導入することで、犯罪が起きる場所や時間や人についての情報が、非常に分かり易く視覚化でき、また、統計処理も容易になったことか大きく寄与している。「今まではなかなか検挙や 警告までできなかったような事例」にも対処できるようになったそうだ(前掲記事)。発足した平成21年度中には、46人を検挙、16人に警告を与える「成果」を挙げている。

「時・場所・人」の情報を適切に集積する「記述疫学」を基本に、因果関係を推論する「分析疫学」を駆使することで、防犯も「証拠」に基づき効果をあげることができるとの例となるだろう。

 なお、さきほど挙げたURLの記事は、「さくらポリス」の「証拠」に基づいた活動を紹介しつつ、その創設の背景として「年々増加し続ける、子どもに対する性犯罪」があるとしている。平成14年以降の「都内における性犯罪と重要犯罪の推移」のグラフが掲げられているのだが、奇妙なことにこのグラフからは、そのような事実は読み取れない。

「性犯罪と重要犯罪」の総認知件数はこの期間一貫して減っており、その中で相対的に強姦・強制わいせつ・迷惑条例違反などの性犯罪は、都内では目立って減っていないので、全体の中でのパーセンテージが増えていると読める。「増えているから対策する」のではなく、「本来あってはならないことをできるだけ減らしたい」という願いに基づいた施策であると述べた方が素直であろう。


青少年が「健全」に育ち、犯罪被害リスクの少ない社会へ

 閑話休題。
 そして、都条例の問題に立ち戻って、結論を述べよう。

 この世界に、親が子に見せたくない!と願うようなマンガなどの描写は存在するし、また、それを子どもが目にする機会はゼロではない。出版社、書店によるゾーニングの徹底、そしてもちろん保護者をはじめとする大人の自覚は、これまで同様に必要だ。筆者は、この部分において、都小Pや前述の母親らと思いは同じくしているつもりだ。

 しかし、前に述べた理由から、それが我々の社会における児童ポルノ事件の増加に寄与しているとは思えないし、また青少年の健全育成を阻害しているとも考えられない。治安そのものではなく体感治安の悪化が、防犯推進の原動力となり、健全育成の条例にまで強い影響を与えているように思える現在、我々は一歩立ち止まって冷静に判断を下すべきだろう。

 結局のところ、我々の社会の課題は、リスクセンスを磨くこと、だ。

 鍵となるのは、因果推論の標準的手法としての疫学か。ながらく日本の社会で理解されてこなかった世界標準の手法を早急に自家薬籠中のものとしなければならない。

 もちろん、市民全員が疫学や統計学のスペシャリストになるべきというわけではない。それは無理だ。しかし、たとえばパソコンの扱いについての知識を想像してみればよい。10人に1人、「わりとよく知っている人」がいれば、他の9人をサポートできる。だから、知識、理解度の度合いを全体としてかさ上げしたい。

 そしてこの論考を最後までかじりついて読んでくれたあなたは、まさに、かさ上げに貢献してくれるかもしれない候補者だ。自分にはきつい、という人は、ほかの人に本稿をぜひ読んでもらってほしい。そして、もちろん、メディアにかかわる人はさらにきちんと勉強してほしい。筆者も勉強する。

 その上で、今、現役の保護者である者、あるいは各階層のPTAに携わる者は、パトロールに代表されるような防犯活動が、「ムリ・ムダ・極端」に陥らないため、冷静に考え直すべきだろう。

 漠然とした不安を理由に施策を求めるのではなく、客観リスクを常に問わなければならない。我々が敏感になればなるほど(防犯に対する感度が高くなればなるほど)、実際のリスクを遥かに超えて、体感治安がさらに悪化するスパイラルに自覚的でありたい。ゼロリスクがありえない世界の中で、どこで折り合いをつけるのか常に考えよう。

「子どもために」という、聞いたところ耳障りがよく反論しにくい言葉を乱発してはならないし(社会のリソースは有限であり、すべての労力を青少年育成と防犯に注ぐ社会などあり得ない)、誰かにうまく利用させてもならない。「子どものため」という印籠は、本当に子どものために使いたいものだ。

 以上のような教訓を引き出しうるなら、今回の都条例をめぐる一件のポジティヴな面がわずかながら見えてくる。

 識者のみならず「市民」が議論し、結局は押し切られてしまった感がある都条例改正の一連の流れは、その結果とは裏腹に、政治への市民の直接参加を強く印象づけるものだった。

 主な議論の場であったツイッターやブログ、SNSなどのネットメディアは、かつて民主主義の学校として発足し今では硬直してしまったように見えるPTAのような組織よりもはるかに、民主主義について、市民社会について、さらには、21世紀の社会で我々が依拠すべき「証拠」について、考え直すための学校であったのかもしれないし、今後ますますそうなるであろうと期待する。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。