川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

知らないうちに凄いことになっていた保育園の保護者会(準備会)

2004-11-19 14:55:26 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
うちの下の子が通ってる区立保育園には保護者会がない。
何年か前にいろいろあって、やめてしまったのですね。具体的には負担感ばかり多くて、役員のなり手がおらずクジで決めるようなことになってしまったので、いっそやめちゃえ、と。

今、その保育園が、民営化されることになりまして、その対応(行政との話し合いの窓口になったり、行政に文句言ったり)のために、保護者会を復活させようと動きがあるんです。

ここまではよし、なんですが、いよいよ27日に保護者会設立のための保護者総会が行われることになって、その案内を見てびっくり。

新保護者会は、全員参加(強制加入)なんです。

こんなん、あり、なんですかね。
もちろん、こういうのは多くの保護者が参加してはじめて力を得るものでしょう。
でも、それが強制ってのはナシ、なんじゃないか、と。

たとえは、民営化に基本的に賛成な人がいたとして、その人は何も問題ないと考えていたので、これまで保護者会の設立にもコミットしていなかった。意志を問われれば「いらない」と思っている。にもかかわらず、強制加入させられる。

あきらかにおかしいです。

この手のこと、よくご存じの方、ご意見をいただけたら幸い。

そもそもこういうのって、どういう手続きを踏めば、代表権をもった保護者会になるんでしょうかね。
また、強制加入って、極端な話、人権問題にもつながりかねないと思うんですけど、どうでしょうか。



尾崎豊が嫌いなわけ

2004-11-19 00:06:37 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
前の記事の流れで、こういうことを書くはめに……
基本的に、書くからには褒めたい(あるいは建設的な批判をしたい)ぼくがあえて嫌いというからには相当な何かがあるわけで……。

最初に言っておくべきは、実は尾崎は嫌いじゃないんです。バカだとは思うけど。
ファンですら、ヤツがバカだと思ってる人は多いでしょう?

で、誰が嫌いかというと、尾崎の信者です。
あれはまいります。こまります。というか、昔、おおいに困らされました。
尾崎豊と聞くと、自動的に、信者を連想し、「嫌い」という気持ちがわき上がってくるほどに。

尾崎信者の特徴。
尾崎だけが自分を分かってくれ、自分だけが尾崎を分かっていると信じている。
以上。

尾崎だけが分かってくれるらしいので、その他の人たちの言葉には耳をかしません。
また、自分だけが尾崎を分かっているがゆえに、人の尾崎評に耳を貸しません。
それどころか、批評的な論調で語ろうものなら(批判じゃないよ、単に批評)、怒り出します。こまったもんだ。

彼らは気づかないのでしょうか。
自分だけが尾崎を分かっているという人が、1万人いたとしたら、1万人分の尾崎がそれぞれ別々にいて、それぞれが違う尾崎なんだってことに。

問題は、尾崎は、作る楽曲も含めて、そういう信者を常に引き受けるような行動を取っていたってことですよね。
だから、彼が活動を続ける限り、信者は増え、深まり続けたわけです。
迷惑至極です。

さらに、尾崎自身の問題も指摘しなきゃ。
彼は、十代のロックシンガーとして世に出て、「汚い大人」と「イノセントな若者」を峻別する形で、歌をうたい、支持を得ました。
あれはティーンエイジャーがつくって歌う分にはいいのだけれど、年齢を重ねるとだんだん具合がおかしくなるのは当然の理屈でしょう?

彼が拒絶されたと感じたこの世界が、「大人」によってつくられたものだとしても、彼が「支配から卒業」して何年かたてば彼自身、もう選挙権を持った立派な大人なんです。
もちろん、20歳の若者は、まだ社会に本格的に参画してまもないから、今の社会の「汚さ」にそれほど責任はないでしょう。それは21歳でも22歳でもそんなに変わらないよね。

じゃあ、30歳は?
選挙権を持って10年。
会社ではそろそろ若手ではなく中堅の「戦力」にカウントされていく。
でも、10年で何かが変わる? 変えられる?

じゃあ、40歳では? 50歳では?

何か強い信念を持っていて、社会を動かそうとしても、そう簡単じゃないのはあたりまえで、たぶん、それは一人の人間にとって「一生の仕事」です。
人は、むかしの人が延々と継続して、たえず建設中の、それこそガウディのサクラダ・ファミリア聖堂みたいな形で「世界」を受け取るわけであって、尾崎が歌った汚い世界、そこに安住する大人たちは、尾崎自身や、信者たちの未来の姿でもあるわけ。
それはもう、残酷なほど確実に。
いや、それどころか、イノセントなはずの若者ですら、彼らの周囲のプチ世界で、プチ大人として、汚い存在でも同時にありえるのは自明でしょう?

尾崎自身は、時々、こういうことに気づいているのですよ。
でも、はっきりとテーマ化できない。
避けてる印象すらある。

もちろん尾崎の歌が、あの時にティーエイジャーを救ったのは本当。ぼくはもうティーンエイジ後半にさしかかっていて、ある意味、大人にになる覚悟を固めていたから、響かなかったけれど、あの時に尾崎がああいうふうに歌わざるを得ず、多くの人の心にそれが響いたことはよく分かります。それは貴いことで、尾崎が日本の「歌」史上、屈指のシンガーであるのも間違いないでしょう。
ぼくも、歌い手/作詞作曲家としての彼をとてもとても高く評価します。

でも、そのあとはどうなのよ、と思うわけ。
彼自身、うすうす気づいていたのに、あの残酷な真実に直面しようとはしなかった。
自分自身がもう大人であり、なにかを変革していく立場なのに相変わらず、似たような「汚い世の中」について歌い続けた。

本当は彼が歌った、「イノセントな若者」と「汚い大人」の構図は、そんなにすっぱりと分かれるものではなく、もっとだらりとしたグラデーションなんです。完全に無力な新生児から、社会的な影響力がピークになる壮年期をへて、また無力な老人へとつらなっていく、「権力」のグラデーションの中に、ぼくらははめ込まれている。
それに気づいた時、彼はそれを歌えばよかったのに、結局、できなかったわけですよ。

汚辱とイノセンスは実は裏表です。
たとえば、汚いとされる政治の世界で清濁のみあわせて、何かひとつでも自分の信念を実現しようとするヤツのほうが、ぼくにはよほどイノセントに見えるわけです。
ただ、綺麗にいきるなんて本当に簡単なんだ。

おまけに20代で死んじまいやがって、ファンに対して、とりわけ信者にたいして、どう落とし前をつけるわけ?

やっぱ、尾崎豊、本人も嫌いです。
才能の無駄遣いは犯罪です。
自ら知らないあいだ握ってしまった権力(影響力、特権、もろもろ)を直視できずに潰れるなんて格好悪いです。

以上。
論旨がまとまらないので、ご指摘などあれば、ちゃんと練り直します。