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川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

尾崎豊が嫌いなわけ

2004-11-19 00:06:37 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
前の記事の流れで、こういうことを書くはめに……
基本的に、書くからには褒めたい(あるいは建設的な批判をしたい)ぼくがあえて嫌いというからには相当な何かがあるわけで……。

最初に言っておくべきは、実は尾崎は嫌いじゃないんです。バカだとは思うけど。
ファンですら、ヤツがバカだと思ってる人は多いでしょう?

で、誰が嫌いかというと、尾崎の信者です。
あれはまいります。こまります。というか、昔、おおいに困らされました。
尾崎豊と聞くと、自動的に、信者を連想し、「嫌い」という気持ちがわき上がってくるほどに。

尾崎信者の特徴。
尾崎だけが自分を分かってくれ、自分だけが尾崎を分かっていると信じている。
以上。

尾崎だけが分かってくれるらしいので、その他の人たちの言葉には耳をかしません。
また、自分だけが尾崎を分かっているがゆえに、人の尾崎評に耳を貸しません。
それどころか、批評的な論調で語ろうものなら(批判じゃないよ、単に批評)、怒り出します。こまったもんだ。

彼らは気づかないのでしょうか。
自分だけが尾崎を分かっているという人が、1万人いたとしたら、1万人分の尾崎がそれぞれ別々にいて、それぞれが違う尾崎なんだってことに。

問題は、尾崎は、作る楽曲も含めて、そういう信者を常に引き受けるような行動を取っていたってことですよね。
だから、彼が活動を続ける限り、信者は増え、深まり続けたわけです。
迷惑至極です。

さらに、尾崎自身の問題も指摘しなきゃ。
彼は、十代のロックシンガーとして世に出て、「汚い大人」と「イノセントな若者」を峻別する形で、歌をうたい、支持を得ました。
あれはティーンエイジャーがつくって歌う分にはいいのだけれど、年齢を重ねるとだんだん具合がおかしくなるのは当然の理屈でしょう?

彼が拒絶されたと感じたこの世界が、「大人」によってつくられたものだとしても、彼が「支配から卒業」して何年かたてば彼自身、もう選挙権を持った立派な大人なんです。
もちろん、20歳の若者は、まだ社会に本格的に参画してまもないから、今の社会の「汚さ」にそれほど責任はないでしょう。それは21歳でも22歳でもそんなに変わらないよね。

じゃあ、30歳は?
選挙権を持って10年。
会社ではそろそろ若手ではなく中堅の「戦力」にカウントされていく。
でも、10年で何かが変わる? 変えられる?

じゃあ、40歳では? 50歳では?

何か強い信念を持っていて、社会を動かそうとしても、そう簡単じゃないのはあたりまえで、たぶん、それは一人の人間にとって「一生の仕事」です。
人は、むかしの人が延々と継続して、たえず建設中の、それこそガウディのサクラダ・ファミリア聖堂みたいな形で「世界」を受け取るわけであって、尾崎が歌った汚い世界、そこに安住する大人たちは、尾崎自身や、信者たちの未来の姿でもあるわけ。
それはもう、残酷なほど確実に。
いや、それどころか、イノセントなはずの若者ですら、彼らの周囲のプチ世界で、プチ大人として、汚い存在でも同時にありえるのは自明でしょう?

尾崎自身は、時々、こういうことに気づいているのですよ。
でも、はっきりとテーマ化できない。
避けてる印象すらある。

もちろん尾崎の歌が、あの時にティーエイジャーを救ったのは本当。ぼくはもうティーンエイジ後半にさしかかっていて、ある意味、大人にになる覚悟を固めていたから、響かなかったけれど、あの時に尾崎がああいうふうに歌わざるを得ず、多くの人の心にそれが響いたことはよく分かります。それは貴いことで、尾崎が日本の「歌」史上、屈指のシンガーであるのも間違いないでしょう。
ぼくも、歌い手/作詞作曲家としての彼をとてもとても高く評価します。

でも、そのあとはどうなのよ、と思うわけ。
彼自身、うすうす気づいていたのに、あの残酷な真実に直面しようとはしなかった。
自分自身がもう大人であり、なにかを変革していく立場なのに相変わらず、似たような「汚い世の中」について歌い続けた。

本当は彼が歌った、「イノセントな若者」と「汚い大人」の構図は、そんなにすっぱりと分かれるものではなく、もっとだらりとしたグラデーションなんです。完全に無力な新生児から、社会的な影響力がピークになる壮年期をへて、また無力な老人へとつらなっていく、「権力」のグラデーションの中に、ぼくらははめ込まれている。
それに気づいた時、彼はそれを歌えばよかったのに、結局、できなかったわけですよ。

汚辱とイノセンスは実は裏表です。
たとえば、汚いとされる政治の世界で清濁のみあわせて、何かひとつでも自分の信念を実現しようとするヤツのほうが、ぼくにはよほどイノセントに見えるわけです。
ただ、綺麗にいきるなんて本当に簡単なんだ。

おまけに20代で死んじまいやがって、ファンに対して、とりわけ信者にたいして、どう落とし前をつけるわけ?

やっぱ、尾崎豊、本人も嫌いです。
才能の無駄遣いは犯罪です。
自ら知らないあいだ握ってしまった権力(影響力、特権、もろもろ)を直視できずに潰れるなんて格好悪いです。

以上。
論旨がまとまらないので、ご指摘などあれば、ちゃんと練り直します。


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42 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
リアルタイムに尾崎の時代だったけど、おいらには... (しのぶん)
2004-11-19 00:41:51
ところで、
ファミリア・サクラダ聖堂→サクラダ・ファミリア聖堂
だす。
返信する
そうか、訂正。形容詞が前なのね。 (本人)
2004-11-19 00:47:45
そうか、訂正。形容詞が前なのね。
返信する
ちょっと、書き足しました。 (本人)
2004-11-19 00:53:39
ちょっと、書き足しました。
返信する
せんせー、しつもーん。 (しのぶん)
2004-11-19 01:00:02
信者はもう三十代半ばで、立派に「ばっちいオトナ」の仲間入りを果たしていると思うのですが、やはり今でも彼らはイノセントなのでしょうか。
返信する
しりましぇん。 (本人)
2004-11-19 01:10:44
信者の追跡調査はしていないからです。
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「昔はよかった」式に保存されているというモデル... (snjx)
2004-11-19 02:54:53
「昔はよかった」式に保存されているというモデルはどうでしょうか。
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それは、尾崎がいた頃はよかったというふうに思い... (本人)
2004-11-19 03:02:20
「自分もよごれちまった」という自己批評性があるものであれば、歓迎。歓迎ってなにをどう歓迎してるんだろ、おれ。

あ、その際、「尾崎はイノセントだっけど、おれはよごれちまったなあ」なら、ちょっと嫌だな。
尾崎はぜんぜんイノセントじゃない。一度として。
なぜなら、ごくごく最初から、例の「構造」に気づいていて、見て見ぬふりをしつつ、「構造」についての歌を大勢にばらまき、それによって自分の特権性を確保したにもかかわらず、やはりそれを無視し、無視しきれずにつぶれたから。

熱くなりすぎてます。
すみません。
おまけに推敲してません。
返信する
うわうわ、おろおろ(笑) (snjx)
2004-11-19 10:20:51
審美眼の出来上がってないときにはじめてであった何かよいものって、審美眼を得た後で振り返ってみてもあまり冷静に見れないという現象ってよくありませんか?
たとえば私にとっては「8時だよ全員集合」のオープニングコントとかタイムボカンシリーズのあのフォーマットとか・・・いや、すいません。適切な例を思いつきませんでした。

ああ、そうか。冷静に見てない自分に自覚的かどうかがこの場合のボーダーなんですね。
返信する
そうか、なるほど、ですね。 (本人)
2004-11-19 14:09:17
ぼくが信者から受けてきたネガティヴな印象は、つまり、自己批評性のなさであり、それはオザキ自身の自己批評性のなさでもあった、と。
たしかに、それが自分の「審美眼」の焦点なのかもしれません。

逆にある時点で成熟を決意し、オトナになろうと決めた自分も、それに対してあまりにも不可思議な反応をしてくれる「信者」との関係にといて、冷静になれていないわけですね。

それにしても……ぼくが大事にしたいのは、ぼくらは良くも悪くともこの世界に住んでいて、この世界の被害者にもなりえるけれど、この世界を動かしていく当事者でもある、というある種の、当事者感覚なんです。
自分の小説についても、その当事者感覚について書きたいと思ってる部分がかなり意識的にあります。
返信する
 や~。信者っていやよね、てのには同意。ものす... (猫が好き♪)
2004-11-19 16:03:23
 さて、そんなときに時々読み返していたのが、リチャード・バック(*1)の「イリュージョン」つう本。この本はたしか「退屈している救世主の物語」とかいうサブタイトルがついています。冒頭ノッケ、信者に取り囲まれて頭を抱えてしまった救世主が逃げ出すところから話がはじまります。うろ覚えだけど、こんな感じだ。
 「『ぼくはもう、救世主をやめるんだよ』。救世主がそう言うと、聴衆は静まり返りました。しかし救世主が段から降りて聴衆にまぎれると、もう誰も救世主を見分けることができなくなってしまった」。
 この救世主ってのがまたいいかげんなやつで、その後も時々思い出したように救世主に復帰する。そういうときなんと言うかというと、「フルタイムの救世主はやめたけど、パートタイムでやるくらいならいいんじゃないかなと思って」とか言うんですね。こいつ、いいだろー(笑)。

*1
 リチャード・バック。「カモメのジョナサン」で一世を風靡し
 た作家。よーわからんけどとてつもなく寡作らしい。最近「One」
 つう新作を出したが、これはどーでもいい作品だった。

 尾崎もねー、まあ自業自得とは思うが、逃げ場がなくなったような気がしたら、「ぼくはもう救世主をやめたんだよ」つうて裏切ってとんずらこいちゃえばよかったと思うんですよ。まあ、自己批評性がなけりゃそれも無理な道だったかもしれないけど。信者なんて裏切って突き放してしまってもたいていは勝手に生きていくものなんで、アフターケアなんか考えてやることはないんだよね。あ、まあ、恨まれることは多々あるみたいですけどね。

 さってと。
 全然違うぞという声もあるだろうけど、尾崎と似たポジションにいたシンガーって何人か思い浮かぶ。渡辺美里なんかがおれの中ではイメージが近い(ちなみに、リアルタイムでは渡辺美里は好きだったが尾崎はいまいちだった)。その渡辺美里は今でも元気です。だいぶ歌の内容が変わってきましたけどね。
 どっちがいいか、おれにはよくわかんないのよね。渡辺美里の行き方もアリだろう。行き続けていくなら、あれしか手がないとも言える。しかしまぁ、尾崎の行き方もアリなんじゃないか。ディーン方式とでも言うか。ディーンがもしあそこで死なずに生きていたらどーなってたか。まあ、アンソニー・パーキンスあたりを想像すればあたってるんじゃないか。尾美としのりが今でも生きていたりせず「転校生」の直後くらいに死んでたらどういう評価になっていただろうか(*2)。ま、どっちが良かったかはしごく微妙な程度問題じゃないのかなー、と。
 尾崎に関して言えば、「(徹底した)引退」ではなく「明確な自殺」でもなく、「(あいまいなかたちで)死んでしまう」という、ある意味では他力本願な方法(*3)、決定的に不可逆的な方法で決着をつけたあたりに、覚悟の不在を感じるというか、あまり主体性が感じられないわけですが、しかしそれでも物語として言うなら、あれはま、アリだろう。

*2
 その後の尾美としのりもけっこういい芝居をしているとは思うの
 だが、俳優としては泣かず飛ばず状態になっちゃったことも否定
 できなくてね。

*3
 念のためですが、この「他力本願」は、仏教的意味で言うと誤用
 というやつです。

 当事者性の話からは離れてしまって失礼。
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