板橋区立 赤塚植物園とその周辺を散歩しました
今日は、新宿駅、池袋駅を経由して東武線成増駅まで電車で往復しました。
そして、成増駅からは松月通りをてくてく歩いて赤塚公園界隈を散歩しました。
歩いた距離は約7Kmです。
まず、板橋区立 赤塚植物園と万葉 薬草園に行きました。
よく整備されていて、名札がついていましたが、今頃は木花が咲いていないのですね。
ハギもこんな状況です。
仕様がないので、木の実を撮りました。
そして、ぶらぶらと乗連寺に行きました。
正面に東京大仏が鎮座していました。鎌倉大仏に次ぐ規模の阿弥陀如来像です。
座高:8.2m 頭部は3mです。
そしてそのすぐ右隣に天保飢饉の供養塔が建っていました。
その説明板を紹介すると、
「天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。
天保四年(1833)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって
大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。
幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなるものは後を絶ちませんでした。
この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の・・・死者を寺内に埋葬し、・・・
台座には同八年三月から十一月の間になくなった423人(男333人、女49人,子供41人)の戒名が刻まれています。・・・」 板橋区教育委員会
“行路病死者(行き倒れ)” と一言で書かれていますが、ご本人の心情はいかがでしたか、
多分、地獄への三途の川が見えていたのでは・・・。
最近、地震・津波・台風・竜巻・・・などが多発し、異常気象が感じられますが、
情報の少なかった昔は、もっといろいろな天災や人災があったようですね。
せめて、人災だけは避けたいと思いますが・・・。
さて、その供養塔の後ろには、石仏が沢山祀られていました。
そして、この大仏の左には、妙な地蔵様達がまつられていました。
その一つは、三途の川の“奪衣婆”の像です。
おそる、おそる通り過ぎました。いい気はしませんでした。
それからしばらく歩いて、赤塚溜池公園を覘いてみました。
ここは、赤塚城の跡地で、武蔵千葉氏や北条氏の擁護を受けていました。
従って、秀吉の小田原城陥落と共に亡びました。
その城跡です。
そして最後に、松月院に寄りました。
ここは、高島秋帆先生ゆかりの地です。
先生は阿片戦争による清国の窮状を知り、わが国に西洋式砲術を育成した人です。
その本拠地がこの松月院であり、その訓練をしたのが、すぐ近くの高島平団地です。
当時の徳丸原です。
正面玄関を後にして成増駅へ急ぎました。
帰りは、成増駅前で、回転ずしと生ビールをたらふく頂きました。
台風一過の、いい一日でした。