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東大寺の荘園「板蠅杣」のこと

2012-01-23 | 日記
東大寺の荘園「板蠅杣(いたはえそま)」のこと


中公文庫「日本の歴史(6)」を読みながら、地図を見たりメモを取ったりしながら整理してみました。

「板蠅杣は、東大寺の建物の修理木材を調達するところで朝廷から土地を所有することを許されていた。」

※ 杣(そま)とは、古代から中世にかけて律令国家や貴族・寺社などのいわゆる権門勢家が、大規模な建設用材を必要とするとき、
その用材の伐採地とした山林のことです。
後に一種の荘園として扱われるようになりました。

 奈良に都があったころ、木材を調達するといえば、この板縄杣あたりだったようです。
板蠅杣で伐採された木は、名張川から木津川に流されて東大寺に運ばれていた。

「木津」というのは木の港という意味で名づけられた地名で、名張の板蠅杣とは関係が深い。



 板蠅杣=東大寺の荘園・黒田荘には、木材を調達するための杣地のほかに、農作物を作る田畑が必要でした。

杣工は木材を調達していたが、彼らの食料は自給自足で、近くに田畑を開く必要があった。
12世紀のころのその中心が黒田荘で、安倍田(安部田)・黒田・大屋戸・夏焼(夏秋)・薦生の村へと広がっていったようです。
杣地から田畑の拡大(荘園の拡大)へと広がっていったようです。
(下の地図の緑色着色部分)



それがますます発展して、杣地の外まで自領を広げていった。
いわゆる「出作(でづくり)」です。
その目印として標識(牓示石)を立てた。
その結果伊賀は、東大寺や興福寺など大寺院の私有の荘園が激増していった。

これでは、国司への納税は減る一方となる。

国司側は社寺の立てた荘園の境界を示す標識(牓示石)を抜き捨てた。
それに対して、黒田荘の住人は抜かれた標識をまた立てた。

そんな抗争が百年(十二世紀のころ)も続いたが、結局は黒田の荘園の勝ちとなり、長い戦で、黒田荘は拡大し、
荘民は戦術や武力も貯えることになった。

その荘民の区域は、黄色に着色した
「四至 東限名張川、南限斎王上路(鹿高~笠間山)、西限小倉倉立(奈良県都祁)から小野、北限八多前高峯並鏡地(袖野山~中峰山)」でしょうか。

これらを根拠に、武士団が生まれてきたようです。
これが、この地の黒田悪党(くろだのあくとう)の始まりであり、大江一族で固めていました。

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