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地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

大和は日本のふるさと

2016-09-23 | 読書

大和は日本のふるさと 

 そのふるさとが飛鳥(明日香)である。

 

 今読んでいる『橋のない川』(住井すゑ著)から、

少し、日本の歴史を辿ってみる気になりました。

6世紀中頃には、物部氏と蘇我氏が対立(仏教採否で争う)、
587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、
更に592年には崇峻天皇(馬子暗殺計画ばれる)を暗殺。

そして、(蘇我馬子でなく)推古天皇即位。

それから、聖徳太子や中大兄皇子(天智天皇)などによる大化改新。
天武天皇、持統天皇の壬申の乱(蘇我氏滅亡)を経て、
天皇中心の中央集権体制へとすすむ。

 

地方の有力豪族らも飛鳥の地に邸宅を構えていた。

蘇我氏は飛鳥の西北の曽我の地に、
阿倍氏は東北方の安倍の地に、
大伴氏は鳥見と畝傍山の麓に、
巨勢氏は西南方に、
倭漢(やまとのあや)は檜隈(ひのくま)にと

しかし、飛鳥の地は次第に天皇中心の都として姿を整えてきた。(その詳細は?)

 

 飛鳥の宮から藤原宮の時代へ 

 5世紀中旬の允恭天皇から、710年文武天皇までのあいだ(200年余)、 
 飛鳥川の上流の平地と丘陵の交わる地方に飛鳥の宮は、てんてんとし、

 710年、雷、豊浦などの地から、耳成(みみなし)、香久、畝傍の大和三山の平地に
 本格的な天皇の邸宅が造られた。これが藤原宮である。

 持統天皇の遺志を継いだ文武天皇の手で、大和三山の地に造られた。

 その後、平城宮(奈良)、長岡京(向日)、平安京(京都)へと続く。

 


紫君子蘭を拝見して

2016-06-21 | 読書
紫君子蘭を拝見して
 
生意気な名前の花だなあ~。
しかし、実に美しいく、気高い感じの花です。
いつも散歩している通りに咲いています。
    
こんな気高い花、以前からこの辺に咲いてたかな~ 

早速、ネットで調べると、
「紫君子蘭(むらさきくんしらん) 
百合(ゆり)科 学名:アガパンサス( Agapanthus
南アフリカ原産
開花時期は、 6/20 ~ 7/末頃。
梅雨の頃、紫色の小花をたくさん咲かせる。
白花の品種もある。
葉は君子蘭に似ている。
根は太く強いので、
斜面や土手などの土の流出を防ぐのに役立つらしい。」
とありいました。
高速道路の土手などでこの種の葉はよく見かけますが、
花は平地で、ちゃんと栽培されているのしか見ていません。
今日は、一日この花のように、しゃんとしよう。
 
 

露草が咲き始めました

2016-06-08 | 読書

露草 (つゆくさ)が咲き始めました


毎朝、ラジオ体操に行く途中に、今年も露草が咲き始めました。

私の大好きな色です。しかも朝露に濡れているのがいい。

雑草の中に、ほんの少しだけが、花をみせてくれます。

      

 朝だけ咲いていて、夕方には閉じています。

まさに、露草(つゆくさ)です。  

開花時期は、 6/ 5 ~ 10/末頃です。

名前は ”露を帯びた草” から来ているそうです。

 

ネットによると

「花は3枚あり、、うち2枚は青で大きく、残り1枚は白で小さい。

この形、なんとなく <ミッキーマウス> に似ている。・・・

 別名には

 「蛍草」(ほたるぐさ)  蛍を飼うとき籠にこの草を入れるから。

  「藍花」(あいばな) 「青花」(あおばな) 

   花で布を染めたから。

 「月草」(つきくさ)

 「鴨頭草」(つきくさ)  紙や布をつき染めた。 京都の友禅染めの下絵に使われる。」 等々


ドクダミ草で思うこと

2016-06-07 | 読書

ドクダミ草で思うこと

小学校に上がる前後の頃、隣のうちの日影でよく見かけた覚えがあります。

確かに、日当たりのあまりよくない、陰気くさい隅に咲いていて、印象はあまりよくありません。

変なにおいも追い打ちをかけています。

その花が、何時も散歩する道端に、沢山咲いています。

6月上旬の頃の花ですか。(開花期:5月~7月という)

   

ネットで拾い読みすると

ドクダミ草

草・・・〈難しい字だね〉 学名:Houttuynia cordata) ドクダミ科ドクダミ属の多年草。 

別名、ドクダメ(毒溜め)、ギョセイソウ(魚腥草)、ジゴクソバ(地獄蕎麦)。

〈地獄蕎麦が ピッタリの字ですね。〉


ドクダミの名称は「毒矯み」(毒を抑える)から来ているという。
即ち、毒を止める効能があるようです。

・葉、地下茎は漢方薬になる。「どくだみ茶」

住宅周辺や道ばたなどに自生し、特に半日陰地を好む。

全草に強い臭気がある。
開花期は5~7月頃。・・・」

 と、云う。

 


『地図をつくった男たち』 を読んで

2016-02-16 | 読書

『地図をつくった男たち』 を読んで

 山岡光治著 原書房刊行 の本です。
近くの図書館で借りました。

読んでいるうちに、私の不勉強さを痛感しました。

後日、この本を買い求め、再三読んでみたいです。

 

今回は、地図の大まかな変遷のみをを羅列します。

①    先ずは、「国絵図」です。

これは、徳川幕府が諸大名に作らせたものですが、
私の観た対馬藩の地図などは、その精度、美しさ、詳細さにおいて、
現代地図に引けを取らない出来のように見えました。

②    次に、伊能図(1821)。

米屋を終えた隠居身分のおっさん・伊能忠敬さん(1745~1818)の作品です。
彼は 「天に基準を求めて、地をはかる」 から出発した人です。

全国測量と「大日本沿海与地全図」作製は、単なるもの好きではなく、
天文学、数学(和算)、測量器具など本格的に勉強し、直接自分の足で歩いて測量しました。

その様子は、井上ひさしさんの著作 『四千万歩の男』 に垣間見ることができます。

③    お雇い外国人(政府雇用外国人)による地図

そして、新政府になるのですが、
新政府は、経験の浅い薩長等だけで地図をつくったのではない。

静岡移封を命じられた徳川家の沼津兵学校(明治5年廃校)の生徒たちや、
お雇い外国人により、地図は作製されたようです。

④ その一つ、フランス式地図が主流になります。

その成果に、
参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(明治17年)が、

陸軍参謀本部「二万分一迅速図」(明治13~19年)があります。

フランス式の色鮮やかな原図として残されています。

その美しさは、川上冬崖(1828~81)らの指導によるともされています。

特に欄外に添えられた「視図」(風景のイラスト)は代表的な点景で、軍事作戦用に重要な風景でした。

見たことはありますが、手元にはありません。橋の絵など目標になります。

⑤    ドイツ式の国家機密地図「陸地測量部の五万分の一」へ

明治6年(1873)山縣有朋が陸軍卿に就任すると、
普仏戦争(ドイツ諸邦もプロイセン側で参戦)に勝利したドイツを範とする軍制に変わり、
地図も参謀本部で作成され、
一般人を対象としない軍機密の一色刷り地形図に変わりました。

「明治30年(1897年)鉄道補入」とあります。

 そして、日清、日露戦争などをかいくぐって、
地形図が全国網羅されたのは大正13年(1924)です。

実に50年を要しています。

⑥    太平戦争後の日本地図

アメリカは終戦前後数年のうちに日本全土を写真撮影し、地形模型までも作りました。。

空中写真を利用し、五色刷り「特定五万分の一」を
日米共同利用の地形図として作成し始めました。

その地図には、ローマ字も併記されていました。
嘆かわしい限りです。

しかしその後、ローマ字併記等は止め、日本固有の地図に衣替えされました。
大変なご苦労があったのでしょう。


監督官庁も建設省国土地理院と改編し、
平和目的に利用されるようになりました。

⑦    現在はデジタル化し、広く、無償で利用されるようになりました。

測量の精神は、測量法にも記されているように、

 「測量の正確さを確保し、その精度の向上を図ること。」

 「測量の成果を広く利用させることによって、測量の重複を除くこと。」 ですね。

 



 

  

 

 


「始皇帝と大兵馬俑」を見る

2016-02-05 | 読書

「始皇帝と大兵馬俑」を見る


天気もいいし、暇々だから、

上野の東京国立博物館へ、ぶらり「兵馬俑」を観に行きました。

東京というところは、便利な所で、

こうした展示会がたちどころに見に行けます。

電車で上野御徒町駅へ行き、そこからブラブラ歩きました。

櫻はさすがに、まだ早すぎますが、牡丹園が開いていました。

それを横目で見て、真直ぐ東京国立博物館へ。

    

ざっと一杯程度の入りで、割とゆっくり見れました。

入口には、兵馬俑のポスターが貼られていました。

紀元前221年に中国を統一した 秦の始皇帝 の墓守達です。


そのころのことを想うと、今の中国は遅れてしまいましたね。
多分、習近平さんも、そんなことを胸に秘めておられるのでしょうが。

そのころ、日本は卑弥呼さんも生まれていない、縄文土器の時代で、
小集落が採集を中心に、ほそぼそと暮らしていた時代でしょう。
もちろん、たいしたボスもいなかったでしょう。


中の説明板を見ながら、ネットで見た説明を紹介します。

(撮影禁止で、説明板は紹介できません)

  

兵馬俑は、全体でひとつの軍団を写したものです。

そのため、将軍、歩兵、騎兵など、
軍団を構成するさまざまな役割の将兵が表されています。

8000体の大集団です。

(将軍、歩兵、騎兵たちの等身大の像を、各々紹介できません) 

下は始皇帝の愛用した騎馬車です。

2両の銅車馬は始皇帝が実際に乗った馬車を青銅で細部まで再現した模型です。

始皇帝はなぜ兵馬俑や銅車馬を陵墓の周囲に埋めさせたのでしょうか。
その背景には、
死後も皇帝として永遠に世界の支配を夢見ていた始皇帝の野望が垣間見えます。」

ところで、こうした陵墓は、始皇帝生前に作られたもののようです。

多分、「死後も皇帝として永遠に世界の支配を夢見ていた」のでしょう。」

詳しいことは、講談社文庫『始皇帝』を買いましたので、後日に。

今日はこの辺で・・・

帰りは、新宿から歩きました。

 


映画 『パディントン』 を見る

2016-02-03 | 読書

映画『パディントン』を見る

 

久し振りに、新宿の「バルト9」に映画を観に行きました。
もちろん、幡ヶ谷~新宿は往復歩きです。
運動を兼ねた散歩には打ってつけです。 

映画は、大人1000円です。
ひところのように混雑もなく、
ゆったりした席で、のんびり楽しめる、いい娯楽です。

なのに、お年寄りが全くといっていいほど入っていない。
知らないのかな~ 

さて、見た映画は、
以前友達から借りた絵本『パディントン(パデータン)』の一コマです。

内容は、パソコンの説明を借りると、

「イギリス・ロンドン。

 真っ赤な帽子を被った小さな紳士が、
家をさがしにはるばるペルーからやってきた。
 丁寧な言葉づかいで道行く人に話しかける彼だったが、
なぜか誰からも相手にしてもらえない。
それは・・・彼が"クマ"だから!

やっと出会った親切なブラウンさん一家に"パディントン"と名づけられ、
屋根裏に泊めてもらうことになる。

そうして始まった初めての都会暮らしはドタバタの連続!

それでも、純粋で礼儀正しいパディントンは、
やがて街の人気者になっていく。


そんなある日、彼をつけ狙う謎の美女・ミリセントに誘拐されてしまう!
果たしてパディントンは無事に家を見つけることができるのか―?


 そして、そこには、もっと素敵な何かが待っていた・・・!」

もうすこし付け加えると、

部屋を世話してくれた家の奥さんや、おばあさんが
可愛がってくれて、成れない都会生活が始まります。
そして、慣れないだけに、部屋中を荒らしまわるのだが、 
やがて、子供達やお父さんにも、彼の誠実さが認められ、
一家の一員として、なくてはならないクマさんになり、
パピーエンドに終わります。 

ちなみに、パディントンは、
最後には “パデータン” の愛称を貰うようだが・・・

 

館内で、ポプコンとビールを頂いたので、

帰りは、どこへも寄らず、マースグ帰りました。

 


『ワカタケル大王』を読んで

2016-02-02 | 読書

『ワカタケル大王』を読んで


黒岩重吾 著 『ワカタケル大王』(文芸春秋社 発行) を読んで、
その世界を地図にしてみました。

地名を増やし、河川名を加えれば、もっとその世界がはっきりしてきますが、
今日はこの辺で・・・

B5判 600頁ぐらいの分厚い本で、読み切るのにひと苦労しました。


5世紀半ばの大王で、允恭天皇の末っ子、後に雄略天皇と呼ばれています。

この本は、ワカタケル王子が大王に成るまでの、権謀術数の数々を物語ったものです。

特に感じたことは、


仁徳天皇稜に代表される巨大な前方後円墳の存在です。

以前、私は百舌のこの稜の後円部の前に立ったことがありますが、
その、巨大さに、唖然とした覚えがあります。

 

「倭の王族や有力者達は、百数十年にわたり、大和や河内に、巨大な墳墓を作っている。
百丈級(300m)の墳墓を作るのに、延べ数万の民で数年かかる。  
この労役の民は、半数はこの地域の農民で、ほかは服従した国の奴らしい。」

大変大きな力がないと、これだけの人は動かせません。
 

「大王家や王族の威厳を民に知らせるのは、
墳墓の巨大さが一番。

昔は、大きければ大きい程、神に近づくという信仰もあったそうだ。
大きな墳墓は権威の象徴として考えられている。
それは海に囲まれてる国のせい。
陸続きであったら、いつ敵が攻めてくるかも知れず、
のんきに墳墓など作っておれないはず。

これは権力の誇示。
しかし、時が経つに従い、
権威の象徴は別のものに代わるだろう。」

 

「倭の島々が大和の王の下に纏まったのは、
卑弥呼女王の神託、宗教が最も新しく、優れていると
諸国の王に認められたから。
祭祀的な威光に百余国が纏まったわけ。
朝鮮や中国が、宗教よりも政治的な力によるのと違います。}

 「四世紀の王は祭政一致で神の意が大事であった。

五世紀の『倭の五王』の辺りから、政治の主導権は大王に移った。
神は豊作を念じたり、吉凶を占うくらい。」

 「倭の王権は漸く司祭者よりも武力の大王が必用であると知り、
新しく樹立した河内の王権は、国内の統一の必要を痛感した。」

「五世紀の応神・仁徳王朝といわれる倭国の大王は、国内統一戦を使命とした。
四世紀に比べると武力の大王である。ただ専制大王はいない。
まだまだ力をもっている地方の豪族がいる。
今、王権が二つに割れて戦うと、地方の豪族が動揺する。
毛野国、越国、吉備国、筑紫国など・・・」

 話が、前後してるが、要するに

前方後円墳が造られた意図、その力で田畑を開墾したほうが・・・
倭の国は、まだまだ統一されておらず、
せいぜい大和一円のみが支配下、
葛城、河内、それと、毛野、越、吉備、筑紫など、
面従腹背の国々に取り囲まれていた。

そこに、大化の改新が必用であった。、

 

 

 


 


蘆花恒春園を散歩して

2015-12-19 | 読書

蘆花恒春園を散歩して

 

蘆花の旧宅・恒春園を訪れるのは、今回が三度目です。
前回までの二回は、まだら蚊が多く、落ち着かなかったが、
今回はほとんど花のない、うすら寒い旧宅でした。

歩いたコースは、下の赤線です.
どう勘違いしたのか京王線芦花公園駅から千歳通りを歩きました。



 八幡山駅から環八通りを南下するほうが近くて解りいいようです。

公園協会のパンフレットを引用すると、
「『不如帰』(ホトトギス)、『自然と人生』、『みみずのたわごと 』などの名作で知られる
明治・大正期の文豪・徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人の後半生を過ごした住まいと庭、
それに蘆花夫妻の墓地を中心にした公園です。・・・」
と、あります。

 

同じパンフの中に、蘆花夫妻の写真が載っていました。


普通は、夫人が椅子に掛け、旦那がその後ろに立っているものですが、
蘆花は威張って椅子に掛けているのが微笑ましいですね。
それに、夫人のしゃれた帽子と、左手が蘆花の肩に添えられているのも・・・
きっと、仲のいい夫婦だったのだな~と 想像しました。

旧宅の様子は次の写真の如しです。

    

旧宅の説明板『茅屋(ぼうおく)』を紹介すると、

「僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。
其筈さ、先の家主なる者は素性の知れぬ捨子で、赤子の時村に拾われ、三つの時に人に貰われ、
二十いくつの時養家から建てて貰った家だもの。
其のあとは近在の大工の妾が五年ばかり住んで居た。即ち妾宅さ。
なげやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、
壁は落ち放題、床の下は吹通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、些真剣に降ると黄色い雨が漏る。

越してきたのは去年の此の頃(注明治四十年(1907)二月末日差す)。

雲雀は啼いて居たが、寒かったね。
日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押し寄せてくる武蔵野の春寒、
中々春寒料峭(りょうしょう)位の話じゃない。

国木田哲夫兄に与えて僕の近状を報ずる書   『二十八人衆』より」

 と、ありました。

 木枯らしの舞う、うすら寒い日でもあり、墓もみず、一回りして帰りました。

  

公園の案内図を添えておきます。

帰りは真直ぐ、幡ヶ谷駅へ  最近、途中であまり飲まなくなったね。寒いからか・・・


六本木界隈を散歩

2015-11-27 | 読書

六本木界隈を散歩

 

先日、道に迷い、どこをどう歩いたのか分からなくなっていたので、
改めて歩いてみました。

歩いたコースは次の黄色線です。

先ず、青山一丁目駅まで千代田線で行き、そこから乃木神社までブラリ・・・

乃木邸は先日に続き改修工事中で入れませんでした。

その分、乃木神社でゆっくりしました。

サービスのお茶が美味しかった。お茶の質が違うのか、環境が違うのか・・・

学問の神様といわれる正松神社で、時間を費やしました。

 

チラシの説明文によると

「乃木将軍は、松陰先生の弟弟子として玉木先生(玉木文之進・松陰先生の叔父)に薫陶せられ、又松陰先生を深く敬い、之が人格形成の基になったものと拝察します。・・・」

ゆっくり礼拝を済ませ、乃木坂に出ました。


ここは大正元年乃木将軍が仆れるまでは幽霊坂といわれていました。
現在、その面影はありませんが。


東京には江戸時代から幽霊坂といわれたところが多かったようです。
それだけ淋しい土地だったのでしょう。

 

暫らく乃木坂を下ると、赤坂中学に出ました。
坂道を登り中学正門前に出ました。
さらにその先に行くと、ミッドタウンの裏口に出ました。
後で来ることにしてUターン、元の赤坂中前まで帰りました。

 

そして右折し、以前うろちょろした道から
元自衛隊本部の東京ミッドタウンに出ました。
広々とした公園です。

小さな子連れのお母さんたちが、の~んびり乳母車を押していました。

今は、乳母車などと云わないらしいですが・・・

 

その後、隣接する檜町公園に行きました。

東京ミッドタウンが洋式庭園なのに対し、この公園は日本式庭園です。

都心部によくぞ残してくれたという公園です。

“小滝の景”や中央の泉水池など、素晴らしい眺めです。

      

 

特に、紅葉が素晴らしいです。

   

 

 

そこを出て、谷町JCTに向かいました。
この前も道を間違えましたが、今回も少し迷いました。

行ったり来たりして、氷川神社に出ました。

 

今日は、ゆっくり見て回りました。


なかでも目についたのは、2本の黄葉したイチョウです。

   

説明板によると、

「目通り(地上1.5mの高さ)に幹径約2.5m、幹周辺約7.5mを測る、

推定樹齢400年の巨樹である。・・・」

 

そして社殿については

   

 

「この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、
いわゆる権現造の形式です。

江戸幕府の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(1730)に建てられました。

吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約改革をとったことで有名で、
社殿にも当時の質素簡素な気風を見ることができます。・・・」

とありました。

 

ゆっくり一回りして、もと来た谷町JCTに出ました。

 

そして、先日はカメラを持参しなかったので撮れなかった、
ばかでかいビル工事を撮影しました。

   

地上40階、来年5月の完成予定です。

殆どが住宅らしいです。
平面図は次の見取り図のようです。

 

途中、ラーメン屋により、塩ラーメンとサワーを頂いて終わり。


そして、乃木神社から国立新美術館、青山墓地、根津美術館をへて
表参道駅に辿りつきました。

今日は、ここから地下鉄とバスです。
多少草臥れました。  終わり。