地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

日本百名山 37、奥白根山(2578m)

2014-02-19 | 日本百名山

日本百名山 37、奥白根山(2578m)

奥白根山(日光白根山)は関東地方の最高峰で、北や東にはこれより高い山はないそうです。
また、日光群山の最高峰でもあり、男体山の奥院ともいわれています。

 (男体山の頂上より。 霧で 遠くが青くかすんでいます)


設定: カメラ:PEX、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調0倍、仰角0度。


同じ白根山でも、草津白根山は標高2162mで、この山には及びません。


登山コースは次の赤線です。

  


「私は日光側から登った。
湯本から白根沢の急坂を攀じて前白根山の頂きに着くと、目の前に奥白根山が大きくそびえている。・・・
前白根からいったん下って火口原らしい平らな草原へ達するが、その途中眼下に五色沼が見下ろされる。・・・
魔ノ湖と名づけられている火口湖で、四周山に囲まれた深い湖だけに、何か凄愴なおもむきがあって、それが魔を感じさせたのであろう。」

(“凄愴〈せいそう〉”とは、新明解国語辞典によると、“ひどい損害をうけたりして、痛ましい様子”とある。)

「火口原から奥白根の急登が始まる。
樹林の間を喘ぎながら登って行くと、やがてザクザクした砂礫を踏む高山帯となり、ついに巨岩の散乱した頂上に立つ。

奥白根の頂上は一種異様である。
それは蜂の巣のように凹凸が激しく、どこを最高点とすべきか判じ難い。
小火口の跡があちこちに散在しており、それをめぐって岩石の小丘が複雑に錯綜している。・・・


下山の道を私は上州側へ採った。
頂上からその側へ大きな薙ぎが崩れ落ちている。
それを御釜大割れと称しているが、明治六年の大爆発によって生じたものである。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

想えば、日光へは何回も行きました。
会社の旅行で数回、そして山のグループやマラソンの合宿で、そして彼女とプライベートでも・・・

最初の会社旅行の時は、まだ金精トンネルは出来ていませんでした。 
日本道路公団により開通したのは、1965年(昭和40年)10月です。総延長755m。
想えば、私も長く生きてきたものです。

 

 それだけ行ってるのに、日光白根の存在を意識していませんでした。

戦場ヶ原や光徳牧場にはたびたび訪れましたが、関東一高いこの山には興味を持ちませんでした。
中禅寺湖あたりからは日光白根山までの展望が開けなかったせいもあるのでしょうが、認識不足が第一です。

元地図屋らしくないと、反省することしきり・・・。

 

 


日本百名山 36、男体山(2484m)

2014-02-11 | 日本百名山

日本百名山 36、男体山(2484m)

約7,000年前、噴火により湯川が堰き止められ、中禅寺湖、戦場ヶ原、小田代ケ原が出来、その流出口に、華厳の滝や竜頭の滝が出来たと云われています。

男体山は、それらを睥睨するようにそびえ立っています。

 (男体山の頂上からの眺め)

設定: カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:夏の山々、高さ強調1.5倍、仰角-18度

 

勝道上人、三度目の挑戦である。

「今度こそはと彼は堅く意を決したのであろう。
中禅寺湖畔に至って経を読み仏を礼すること七日、神仏の加護をひたすら祈って登山の足を踏み出した。
時に勝道四十八歳、われ若し山頂に至らざれば、また菩提に至らず、との強い発願であった。」

ところで、「菩提に至らず」とは、
辞書によると、(煩悩を断って入る悟りの境地)だそうです。

 

「湖畔から山頂まで約千二百米の高距で、殆ど登りずくめの急坂である。
勝道(天応二年旧歴三月=782年4月上旬・勝道上人)は自ら道を開いて行かねばならない。
まだ残雪も深く、樹木の生茂っている間を攀じ登って行く苦労は、なみなみではなかった。
身は疲れ力は尽き、途中二夜のビバーグを重ねて、元気を取り直しては登行をつづけ、とうとうその絶頂に立った。
その時のさまを、空海の文章(性霊集)はこう記している。

『遂に頂上を見る。
怳怳惚惚(こうこうこつこつ)として、夢に似たり、寤むるに似たり。・・・
一たびは喜び、一たびは悲しみ、心魂持し難し。』

この最後の言葉がまことに簡潔適切である。」

『勝利の最初の歓喜の後に、悲哀の感情が来た。
山は屈したのだ、誇り高い頂は遂に屈したのだ。』
(ヒマラヤに初登頂したティールマン氏の言葉)

 

  

「私が男体山に登ったのは昭和17年(1942年)8月・・・、
またこの表登山道が勝道上人の取ったルートに最も近いと思ったからである。
非常に急峻で、湖畔から頂上までひたすら登りずくめである。

行程を十合に仕切ってあって、三合目で初めて樹間に中禅寺湖を見下ろすことが出来た。

頂上は(湖は)細長く鎌の形に伸びていて、眼下に何十丈の深さに爆裂火口が落ち込んでいたが、
それは湖畔から眺めただけでは想像できない男体山の荒々しい姿であった。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

経験豊かな、ある登山家は云っていました。
我々の登山は、ハイキングみたいなもんだ。人に踏み固められた、安全な道のりをただ歩いているだけだと、・・・
前人未到の山に挑むのは、さぞや難儀なことでしょう。

それを成し遂げて初めて、
『遂に頂上を見る。
怳怳惚惚として、夢に似たり、寤むるに似たり。・・・
一たびは喜び、一たびは悲しみ、心魂持し難し。』


日本百名山 35、高妻山(2353m)

2014-02-07 | 日本百名山

日本百名山 35、高妻山(2353m)

「高妻山は戸隠連山の最高峰である。」から、天の岩戸開きの神話で始まります。

「修験者は大てい岩の険しい山を選ぶ。
大峰山、石鎚山、八海山、両神山など皆そうである。
屏風のように長々と岸壁を連ねた戸隠山が見逃されるはずがない。」

ここで取り上げられる高妻山は、戸隠への表山コースと、高妻山への裏山のコースとに分かれています。
どちらも相当きつい山のようです。

 (赤線が表山、青線が裏山のルート)


先ず表山コースですが、

「奥社の裏から登って、蟻の戸渡とか、剣の刃渡りとかいう岩場を通って八方睨み(1911m)に達する。
ここが普通戸隠山の頂上とみられている。

そこから更に岸壁の上っぷちの尾根を一上一下しながら、一不動というキレットまで出て、そこから戸隠牧場へ下る。
これが戸隠の表山で、登山者の多い道である。」


さて、キレットとは、「切戸」とも書き、山の鞍部で特に 深くV字状に切れ込んだ所を云います。

ここでは、表山から、戸隠牧場へ下らず、直接高妻山へ辿るときの鞍部(一不動)がキレットです。

 

そして次に、戸隠牧場から登って、一不動から高妻山へ辿る道が裏山コースですが、


「一きわ高く峰頭をもたげている高妻山、その脇にかしずくようにつつましく控えている乙妻山、・・・

高妻山は2353m、乙妻山は2315m、戸隠・飯縄・黒姫連山での最高峰であるのみならず、山の品格からいっても一番立派であるに拘わらず、登る人は少ない。

昔はこの高妻・乙妻も戸隠の御裏山と称して、修験者が登拝した。」

そして山登りベテランの筆者さえも
「五地蔵の二つのコブを越えて、高妻山への長い登りは急峻で、実に辛かった。
ようやく頂上に達して私の喜びは無上であったが、
もう乙妻まで足を伸ばす元気がなかった。」そうです。

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

さて、経路断面図から見ると、
五地蔵岳から二つのコブを越えたあたりから、高妻山までの裏山コースの勾配は、
沿面距離1.27Km,最大傾斜40.4度(最大勾配85.1%)です。

ちなみに、戸隠神社から八方睨みまでの表山の勾配は
沿面距離1.36Km,最大傾斜44.9度(最大勾配99.7%)です。
ほぼ歩く距離と登る高さが同じです。

どちらも、私には真っ青!
私には、せいぜい30度弱の傾斜で300m程度が限度です。
よくやるよ!まさに百名山です。


日本百名山 34、火打山(2462m)

2014-01-28 | 日本百名山

日本百名山 34、火打山(2462m)

 

「北にあたって三つ並んだ山が見えた。
頸城(くびき)三山と呼ばれるもので、まん中が火打山、右が妙高山、左が焼山である。

妙高と焼はまとまった形をしているのに、間の火打は長い稜線を引いた不整三角形である。
人はとかく整った形には注目するが、そうでないものには迂闊である。
妙高や焼は人目を引き易いのに、火打は案外見逃されている。」

 (真南の高妻山より)
設定:カメラ:PRE、レンズ:28mm、風景:雪の季節、高さ強調1.5倍

「三月下旬ではまだすべての山が雪を置いていたが、とりわけ火打は白かった。
どんなに雪が降り積もっても山のすべてを覆うわけにはいかない。
どこかに雪をつけない崖や岩壁がある。
ところが火打だけは完璧に白かった。
こんなに一点の黒もなく真っ白になる山は、私の知る限り加賀の白山と火打以外にはない。」

  

「普通笹ヶ峰牧場(笹ヶ峰口)から登るが、その登り道が一様ではなく、
林あり、平あり、池沼あり、変化に富んでいる。
殊に嬉しいのは雪の多いことである。雪は山を立派に見せる。

私が訪れたのは六月の下旬であったが、まだ山の大半は雪に覆われていた。」
(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

私も、妙高山や焼山の名前は知っていたが、火打山は馴染がなかった。
しかも、頸城三山の中でももっとも標高の高い山なのだそうです。

筆者も
「・・・戦争前に妙高と焼山には登っていた。
三幅対の残りの一つ火打の頂上を踏むのに二十年遅れた。
それだけにこの登頂はいっそう嬉しかった。」 そうです。


日本百名山 33、妙高山(2446m)

2014-01-23 | 日本百名山

日本百名山 33、妙高山(2446m)


「・・・一番みごとなのは、関山(信越本線関山駅)付近から見た姿であろう。

中央の火口丘がスックと高く、その右の神奈(かんな)山、左に前山、この二つの外輪山の尾根が、ちょうど火口丘を首にして両襟を掻き合わせたようなさまを呈している。・・・」


設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景: 火山、 高さ強調1.5倍、仰角10度
 

「登山路は、赤倉および池の平の両温泉からついている。

火口瀬の北地獄・南地獄、どちらを通っても、天狗平で一致する。
そこから上が中央火口丘の登攀である。
岩ばかりの道で、途中、鉄の鎖や梯子のかかった笈摺岩などもあるが、たいした難所ではない。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

  

私ども山の会でも燕温泉までは行きました。
2006年7月に男女合わせて15人で訪れました。
懐かしい山です。

温泉街のすぐ前に、高くそびえ立った妙高山を眺めただけで、露天風呂を楽しんで帰りましたが・・・。


日本百名山 32、苗場山(2145m)

2013-12-31 | 日本百名山

日本百名山 32、苗場山(2145m)

「もし苗場が平凡な山であったら、ただの奥山として放っておかれただろう。
ところがこれは人の目を惹かずにはおかない。
そして一遍その山を見たら、その名を問わずにはおられない特徴を持っている。
すぐれた個性は、どんなに隠れようとしても、世に現れるものである。・・・

方々の頂上から、この独自の姿をもった山をすぐ見分けるだろう。
それは緩く傾いた長い稜線を持った山である。

 (4.5Km南の赤倉山頂からの眺望)

設定:カメラ:PRO、レンズ:5mm、風景:南アルプスの春、高さ強調1.5倍、仰角10度



いわゆる山らしい山の沢山重なっているあいだに、
苗場だけはまるで鯨の背のようにその膨大な図体を横たえている。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

私も、20歳台の頃、会社の仲間に誘われて登ったことがあります。

初日は、バスで三国トンネルを超え、二居本陣に泊まりました。

本陣の主人はユニークな人で、一緒に囲炉裏を囲んで食事をとり、そのあと延々と囲碁を打った覚えがあります。
主人は、時々東京に来て、日本棋院で碁を打っているような本格的な実力者で、我々は上手く遊ばれたようです。

そして、次の日は山を越えて赤湯温泉に泊まりました。
11月3日の文化の日(当時)で、赤湯温泉最後の営業日でした。

まだ電気が付いておらず、ランプの下で食事をし、茣蓙に寝ころんで寝た覚えがあります。

風呂は、河原の砂土に穴を掘っただけの、全くの天然風呂で、時々前を流れるせせらぎをザブザブ渡って温度調節をしました。

2,3の他の泊り客は、一杯気分で歌を呻っていました。月も輝きいい夜でした。

 

次の日、苗場山に登りました。
途中の苦しさはよく覚えていませんが、頂上へ達したとき、まるで尾瀬ヶ原に出てきた気分でした。
広々とした原野のあちこちに、小池が散乱していました。

仲間の一人はそこで記念品の “うんこ” を置いてきました。

 

これは、「・・・人の目を惹かずにはおかない。・・・」素晴らしい原野でした。
今でもその時の感動は忘れられません。

そして帰りは、長い長い笹薮を掻き分けて長時間歩いて、バス停に辿りついた覚えがあります。

そのくせ、次の日は清津峡を歩いたのです。

若かりし頃の、いい想い出です。


日本百名山 31、雨飾山(1963m)

2013-12-29 | 日本百名山

日本百名山 31、雨飾山(1963m)

 

「・・・北側から仰いだ雨飾山は良かった。
左右に平均の取れた肩を長く張って、その上に、猫の耳のような二つのピークが睦まじげに寄り添って、すっきりと五月の空に立っていた。
やはり品がよく美しかった。」

 (大糸線根知(ねち)駅より)
設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍、仰角10度

 

遠眼には、二つのピークをもった、優しい稜線を描く山のようですが、
実際登った記録だと、見ると聞くとでは大違いの山のようです。

 

「(二度失敗して)三度目の雨飾山は、戦後のある年の十月下旬であった。・・・
登山口はやはり小谷(おたり)温泉を選んだが、道路は途中までしかなかった。・・・
大海川へ入るともう道は消え、河原伝いに遡って行くほかなかった。

  
大海川は上流で二つに分かれ、私達は左のアラスゲ沢を採った。
それまで比較的ゆるやかだった谷が、にわかに急な沢となり、石を飛び越えたり、へつったり、谷を避けるために藪の中を高捲きしたりせねばならなかった。


沢筋に水が無くなって、ゴロゴロした大きな石を踏んで行くようになると、もう森林帯を抜け出て、見晴らしが開け、直ぐ頭上に素晴らしい岸壁が現れた。
それはフトンピシ(布団菱?)と呼ばれる巨大な岩で、その岩の間に廊下のような細い隙間が通じていた。
その咽喉(ゴルジュ)を通り抜けて上に出ると、既に沢の源頭で、あとは枯草つきの急斜面を登るだけであった。
急登にあえぎながら稜線に辿りつくと、ハッキリした道がついていた。・・・
それから頂上まで、急ではあったが、一登りにすぎなかった。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


日本百名山 30、谷川岳(1963m)

2013-12-23 | 日本百名山

日本百名山 30、谷川岳(1963m)

「・・・今日までに谷川岳で遭難死亡した人は二百数十人に及ぶという。
そしてなおそのあとを絶たない。
この不幸な数字は世界のどこの山にも類がない。・・・」

そして、その数は、2005(平成17)年までで 781名に達しています。
世界のワースト記録としてギネスに認定されています。不名誉な記録です。

それほどまでして、この危険な山に登りたいのか?
私には、よく解らない。理解できません。
後で出てきますが、これだけの死者の出る理由は、谷川岳のロッククライミングにあるようです。

 

 

「・・・五万分の一の地図に山名が誤記されたので、名称の混乱が起こった。

 (現在発行されている1/5万地形図)

現在の谷川岳は古来『耳二つ』と呼ばれていた。

そしてさらに、その『耳二つ』の北峰オキノ耳を谷川富士、南峰トマノ耳を薬師岳と称していた。
そして谷川岳という名は、今の谷川の奥にある俎(まないたぐら)に付せられていたのだという。・・・

今では『耳二つ』を谷川岳と呼ぶことは決定的となってしまった。
 

『耳二つ』とはいみじくも付けられた名前で、上越線の上牧(かみもく)あたりから望むと、遠くに猫の耳を立てたようなキチンと二つの耳が並んでいる。・・・」

 (上牧駅から見た谷川岳)
設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:奥秩父の森、高さ強調1.5倍、仰角20度

 

「上越線が開通して土合(どあい)からの登山道がひらけた。
土合はまるで谷川岳登山のためにあるような小駅で、下車するとすぐそこがもう登山口である。・・・

土合から清水峠に向かって、谷川連峰の腹を縫って断続した道が見える。
これが清水越えの旧道で、・・・
現在はその下に、湯檜曽川に沿って小路がついている。

この小路を私は数回通ったが、これほど素晴らしい景観に恵まれた道も数少なかろう。

(現地に入っていないので写真がありませんが、そのうち転載させていただくつもりです。)

マチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢等、凄い岸壁をつきあたりに持った沢を、一つ一つのぞいて行くのである。
こんなに手近に、こんなみごとな岸壁がある以上、岩登りの好きな連中がここに集まるのも無理はない。
そして谷川岳の遭難の大半はこの岸壁であった。・・・」

一ノ倉沢の岩場は、その険しさから剱岳、穂高岳とともに日本三大岩場といわれています。
ロッククライミングのメッカとなっています。

私も、瑞牆山へ登った時、すぐ横のローソクのような切り立った岩にぶら下がっていた若い男女を観ましたが、
彼らはなんのてらいもなく、その岩を攀じ登っていました。
今でも信じられない光景です。 
私は、今後ともハイキングでやめときましょう。 

さて、本題ですが
「私が最初に谷川岳に登ったのは昭和8年(1933年)の秋で、・・・
谷川温泉で一泊して、翌日天神峠を経て頂上に立ったが、当時は登山者一人にも出あわなかった。

帰途は西黒沢を下り、湯檜曽まで歩いた。」

(あるガイドブックによると、 素人は西黒尾根は下るなと注意書きがありました。
多分急坂すぎるからでしょう。)

  

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


日本百名山 29、至仏山(2228m)

2013-12-20 | 日本百名山

日本百名山 29、至仏山(2228m)

書き出しは
「尾瀬沼を引き立てるものが燧岳とすれば、尾瀬ケ原のそれは至仏山であろう。」
から始まっている。

「燧と至仏は尾瀬ヶ原を挟んで相対しているが、前者の威のある直線的な山容に引きかえ、後者は柔らかな曲線を描いて、何となく親しみやすい。」


至仏より燧を、    燧より至仏を、

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:地図との合成(白)、高さ強調1.3倍、仰角-12度

この両山の対照は、カシバードでは あまりはっきりしないようです。
その姿を実見するのは何時の事やら解りませんが、テレビや雑誌の写真を注意して待つことといたします。

 

  

「私が初めて至仏山の頂上を踏んだのは、大正十五年(1926年)の秋であった。・・・
狩小屋沢から登った。
当時は(今でも)その沢には道がなく、飛沫を浴びて滝を攀じたり、岩を匐い上ったりしながら、登って行った。

沢を詰めると、頭上に至仏の全容が現れた。
満山紅葉で、その間に点々と浮島のような岩石が立っている。

優美な紅葉の色調と、それを引緊めるように峻厳な岩と、双方のコントラストが実にみごとな眺めを形作っていた。・・・

頂上が近くなって、沢を離れて左の尾根に取りついたところ、その深い灌木帯に入りこみ、籔と戦いながらようやくそれを切り抜け、今度は岩石を攀じ登って、遂に頂上に達した。

狩小屋沢の野営地を出てから六時間かかった。・・・」

4Km 余りの道のりだから、1時間に700m位の速さになります。普通の1/3~4の速度です。

この道の厳しさが想像されます。

 

「原一面まるで燃えるような代赭色(たいしゃいろ)で、それがずっと向こうの端、ピラミッドの燧の裾まで伸びている。・・・

下りは滑りっこい狢沢を採って、待望の湿原に踏み込み、あの広い尾瀬ヶ原を夕日を浴びながらトボトボと横切っていた。・・・」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

今後、いろいろな書籍やテレビ等で見る機会は多いでしょうから、是非その紅葉の美しさを見てみたいと思います。

私には、もう実見は無理でしょうから。


日本百名山 28、燧岳(2346m)

2013-12-14 | 日本百名山

日本百名山 28、燧岳(2346m)

私は20代の若かりし頃、会社の仲間達と燧ケ岳に登ったことがあります。
三平峠から長蔵小屋に泊まり、翌日登りました。
燧ケ岳頂上の厳しかったことをおぼろに記憶しています。
アップダウンが激しく、その上、鉢巻状に辿る山腹を腹這いで伝い歩きした記憶があります。

『もういいよ、勘弁してくれ!』という感じでした。

 

さて、『日本百名山』の書き出しによると、
「広大な尾瀬ヶ原を差し挟んで東西に対立している燧岳と至仏山。
燧の颯爽として威厳のある形を厳父とすれば、至仏の悠揚とした柔らかみのある姿は、慈母にたとえられようか。
原の中央に立ってかれを仰ぎ、これを眺めると、対象の妙を得た造化に感嘆せざるを得ない。」

 (尾瀬沼から燧)   (尾瀬沼の同じ所からの至仏)
設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、仰角20度

 

今回は、燧岳の記録にとどめ、至仏山は次回の29章に譲ります。

 

「(燧ケ岳)頂上は二峰に分かれ、三角点のある方を俎(まないたぐら)と呼び、他を柴安(しばやすくら)と呼ぶ。後者が二十米あまり高い。
クラ()は岩の意で、マナイタグラは俎のような岩の形に由るものであるが、シバヤスクラのシバヤスは何かまだわからない。・・・」

 


「この峠(富士見峠)の近くのアヤメ平から、広い原の向こうの果てに、遮るものもなく燧岳の全貌を臨んだ時は、天下一品と云う気がした。
それは胸の透くような伸び伸びした線を左右に張って、ほぼ純正なピラミッドであった。・・・
山岳展望台として燧岳は無類の位置を占めている。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、仰角20度

 

何時か近いうちに本物の写真を撮ってみたいです。