単身赴任中に国道17号で埼玉へ戻る際に素通りしてましたんや。
お江戸三大祭りの一つ、神田明神さんとは知ってましたが。
明治以降は正式名を神田神社と呼ぶようになったんだって。
この時点では、今回が東京見物の見納めと考えてましたんや。
今後もそうなる可能性が十分におますけど。
(神田神社 鳥居と隋神門)
左手の甘酒屋さんはまだ朝が早いのでオープン前の感じ。
何かの本で読んだ、江戸時代から有名な「甘酒屋」さんだとか。
甘酒は苦手なので確かめもせずに随神門へ向かったんですわ。
(随神門を背景に自撮り)
昭和天皇即位50周年を祝し再建されたようで朱塗りの奇麗な門でっせ。
1923年(大正12年)の関東大震災で拝殿もこの門も焼失したとか。
(神田神社の 拝殿)
神田神社の拝殿は1923年(大正12年)の関東大震災で焼失したそうで
1934年(昭和9年)に当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造で
権現造りの朱塗りで完成し1945年(昭和20年)の東京大空襲にも耐え
令和の時代にも江戸時代の面影を今に伝えてくれる江戸っ子の自慢のお社かも。
(だいこく様の 石像)
神田明神には現在3人の方をお祀りしてあるそうですわ。
一ノ宮 大己貴命(オオナムチノミコト) だいこく様
二ノ宮 少彦名命(スクナヒコナノミコト) えびす様
三ノ宮 平将門 (タイラノマサカド) まさかど様
だいこく様は創建以来の、ご祭神なので承知しました。
鎌倉時代に疫病がはやり平将門を二ノ神として江戸時代まで
神田明神の側神としてお祀りしてきたんですが。
明治天皇が行幸されることになり、逆臣が祀られているのは
好ましくないとなり、平将門を摂社に移し替えると共に
大洗海岸から「少彦名命」を二ノ宮にお招きしたそうです。
こうして明治7年に明治天皇さまは神田神社に行幸されたとか。
戦後になり平将門は三ノ宮にお戻り頂いたと言う訳でんな。
(神田神社の ご朱印)
新型コロナが蔓延して以来ご朱印は1枚の紙切れで提供され
自宅に戻ってから朱印帳に貼り付けるのが基本になってまぁ。
ご朱印巡りが少し略式となり残念に思うのは鉄ちゃん爺やだけかしら?
(神田神社門前から 東京スカイツリーを撮影)
高台からですが東京スカイツリーも半分しか写ってまへんな。
鳥居と社殿に一礼して再び国道17号に戻りまひょ。
同じく国道17号には湯島聖堂前という交差点がおまして
そこから本郷通りが左手から国道17号線に合流しますんや。
この湯島聖堂も高校の歴史で学んだだけで参拝は記憶になし。
(湯島聖堂の 入徳門) (唯一残った 江戸時代の門)
この門と塀の一部だけが関東大震災や東京大空襲からも焼失を免れ
江戸時代後期の趣を今に伝えてまぁ、石段を上れば湯島聖堂になりまぁ。
(杏壇門) (昭和10年に再建)
(大成殿) (昭和10年に再建)
土日祝 にしか内部は公開されないんだって。
中央に孔子さま 東の座に2人 西の座に2人 聖賢がお祀りされているんだって。
孔子さまの廟ですので建物も中国風になってまっしゃろ。
大成殿をはじめ各種の門は1935年(昭和10年)の再建だとのこと。
(孔子さまの銅像)
戦後に台湾から寄贈されたと書かれてますね。
世界一の大きさになる孔子さまの銅像だと書かれてまんな。
(湯島聖堂の ご朱印)
1690年(元禄3年)に5代将軍・徳川綱吉公が林羅山が上野忍ケ丘に持つ
孔子廟をここ湯島に6000坪の敷地を与えて聖堂を建立したとの事。
この頃までは学問好きな将軍さまで林家に湯島聖堂を管理維持させたようです。
以後は大学頭(だいがくのかみ)の位は林家の世襲となってまんねん。
一時8代将軍・徳川吉宗公の時代に朱子学が嫌われ実学が栄える時代を挟んで
1790年(寛政2年)寛政異学の禁が始まり朱子学が再び正当な学問とされ
ここに「昌平坂学問所」が置かれて敷地も16000坪に達したそうです。
因みに「昌平坂」とは孔子の生まれた昌平郷から採用したと記されてまぁ。
「昌平坂学問所跡」は現在は東京医科歯科大学の敷地になりますよ。
江戸時代は本郷通りを挟んで広大な敷地が湯島聖堂の土地だったんだね。
(聖橋の上から 東京医科歯科大学を背景に自撮り)
この聖橋も神田川を挟んで南のニコライ堂そして北の湯島聖堂に
あやかって名付けられたと聞いてますんや。
下から眺めたら奇麗な橋なんですが撮影を忘れてまんな。
今日はこれぐらいにしておきまひょ ほな! さいなら~♪