8月15日だからという訳ではなく、たまたまNHKの「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」の「知の巨人たち 第2回 ひとびとの哲学を見つめて~鶴見俊輔と『思想の科学』~」nhk.or.jp/.../shogenarchives/ の録画を観てました。
戦後すぐの「思想の科学」創刊の頃に、敗戦の意味を考えること、敗戦から学ぶことをしていたそうです。その中から「言葉のお守り的使用法」や「転向」が取り上げられています。
具体の内容を伴わずイメージだけで共感させるような抽象的な言葉を使い、あたかも何か目標を持っているかのように示す現在も、当時でいう「言葉のお守り的使用法」と同じ状況にあると思います。
鶴見さんは、番組の最後で、戦後よりも戦時中のことの方を考えることが大事と話しています。一般の人だけでなく知識人や高位の人でも、戦争はやるべきでない、やりたくない、勝てる見込みは無いと考えていた人のほぼ全員が、その考えを出さなくなるだけでなく、「転向」して世の大勢に合わせてしまったのはどうしてか…と。
現在もまた、個人に限らず行政やメディアまでも、波風を立てるのを避け、一般大衆の大勢や一部著名人の大勢に乗っかって話しを合わせるだけ…なのは、その大勢が良からぬ方向に向かい始めた時に、方向を修正するのではなく、後押しするようになってしまうのでは…と。
戦争は、直接的な部分は武力行使であるけれど、その前に作り上げられていく主義思想の時点から、始まっていると考えなくてはいけないと感じます。武力行使に意識がいっていると、自分の意を発するタイミングを逃してしまように感じます。今現在の状況は、果たしてどうなのでしょうか…。
「第1回 原子力 科学者は発言する~湯川秀樹と武谷三男~」の録画も先週観ていたのですが、この2回の両放送で、自らで「見極める」という言葉が、なぜかとても印象に残ります。どちらも、本筋ではないところで出てくるのですが…。
自らで「見極める」とこを放棄した原子力というか核政策、自らで「見極める」ことを内心に閉じ込めた戦前・戦中の政策…、どちらも誰も良く分からないまま、分からない方向に惰性?で進んで行き、予想できない結末に至る…という。
様々なことを、全ての人が自ら持っている材料で「見極める」ということが、とても大事だと感じます。ですが、また今現在、何事についても自らで「見極める」ことはしないのが主流です。我々は次は何を、分からない方向に流し始め、予期できない結末に向かわせようとしているのでしょうか…う〜ん。