K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

7月度 信長公記を読む会

2018年07月07日 | 講座・会合

7月3日(火)10時から信長公記を読む会がありました。出席者は22名でした。

テキストは巻八(7)の最後の場面。

10月19日の条、伊達輝宗の名馬・鷹の贈与と使者の饗応の場面から。レジュメの信長から伊達への礼状には畿内のみならず、武田がたの甲斐・信濃・駿河の兵士や越前・加賀の凶徒を征伐したこと,戦争の理由などが書いてある。また松井友閑の書状からは取次役である友閑にまで黄金3両を贈与したことがわかる。

信長からのの返礼①虎皮5枚、②豹皮5枚、③段子10巻、④しじら20端は信長を権勢の誇示したもの。

砂川先生は伊達の使者を清水寺で饗応したのは、「清水寺の紅葉を鑑賞させる&舞台から京の街を見せる」という配慮があったかも知れないと仰る。さらに2人の使者に黄金2枚(今のお金で2500万円?)を与えたとある。

この段は信長の外交の一端を示すものだが,砂川先生はレジュメの長宗我部(取次役は光秀)への書状から長宗我部元親の嫡男に偏諱を与え(信親)るとともに,阿波への出兵も認める旨の記述があることから,天正3年の時点では信長と長宗我部の間は良好であったことがわかる。天正10年,本能寺の変の直前には四国攻めをすることになるのだが・・・。

また毛利との関係もこの時点では良好であり(戦状態になるのは天正4年5月 足利義昭が毛利を頼り鞆に入ってから)まさに信長の勢力が拡張してゆくのがよくわかるのだ。

この時点の信長公記の信長に対する記述に将軍に対し使う記述が出てくる。これは太田牛一のみならず家臣もそのように対応していたことを示すのであろうか。

(8)大坂三軸進上の事 に入る。

本願寺から和解の申し出があり、信長も了承する。この時点で信長の勢力は盤石となった。

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