歩こう会の今回のメイン訪問先はキッコーマンでした。
そこで今日は「キッコーマン」、「キッコーマンもの知りしょうゆ館」
更にもの知りしょうゆ館の資料から醤油の歴史の一部をご紹介させて頂きます。
キッコーマンについて
千葉県野田市に本社を置く醤油を主とする調味料の会社で
キッコーマン醤油をはじめとして、醤油関連調味料、和風そうざいの素、デルモンテトマト製品、マンジョウ本みりん
マンズワイン、豆乳飲料などを製造しています。
キッコーマン本社以前ご紹介した興風会のお隣にあります
江戸時代の野田周辺は水運が盛んで、野田の東側の利根川沿いは、大豆や小麦の生産地で
西を流れる江戸川下流には行徳塩田があり、大消費地の江戸にも通じているなど、醤油造りに有利な条件が揃っていました。
有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して1917年に設立した「野田醤油株式会社」がキッコーマンの前身です。
複数あった醤油商標のうち亀甲萬(キッコーマン)を後に統一商標および社名とした100年近い歴史を刻んでいる会社です。
アメリカ、アジア、ヨーロッパにある7つの海外工場から100カ国以上の国々に出荷しています。
キッコーマン野田工場
入り口
キッコーマン野田工場入り口に向かうお仲間
入り口を入ると物知り醤油館野田工場案内表示と大きなサイロが見えます
もの知りしょうゆ館案内
御用醤油醸造所(通称「御用蔵」)
もの知りしょうゆ館への途中にある立派な建物の御用蔵は、今回は丁度閉鎖中で入れませんでした。
御用蔵
この御用蔵は宮内庁に納めるしょうゆの醸造所とのことで、2011年に野田工場内に移築されたものです。
移築前の御用蔵は、宮内省(現宮内庁)に納めるしょうゆの専用醸造所として
1939年に江戸川沿い(千葉県野田市中野台)に建設されました。
老朽化で大規模な補修工事が必要となり、70年の節目に移築工事が行われました。
移築にあたり、しょうゆを仕込む木桶、屋根の小屋組み、屋根瓦、石垣、門などは移築前のものを使用し
原形に近い形で再現されました。
御用蔵では、現在も宮内庁に納めるしょうゆを醸造しているとの事です。
また、伝統的なしょうゆ醸造技術や1939年の御用蔵の建設当時の道具や装置を保存・展示されているようです。
銅像婦人像
途中に銅像があり、説明文に「創立40周年の喜びを共にしこの像を送る 昭和31年5月18日 亀甲萬全国特約店」とあります。
銅像婦人造
もの知りしょうゆ館について
工場の中にある「キッコーマンもの知りしょうゆ館」は“しょうゆ”のすべてがわかるミュージアムです。
しょうゆ工場入り口
もの知りしょうゆ館の見学途中では工場見学も行われますが
家内が「お父さんは疲れるから工場見学は止めなさい」と言われたので
一人で「もの知りしょうゆ館」に残り、ゆっくり見学しました。
見学と言っても醤油につてのあれこれを紹介した図やサンプルが展示されているのを眺めるだけですから楽でした。
お蔭で「しょうゆの歴史」や「しょうゆの知識」を学ぶことができましたので、その資料をご披露することにします。
今日は先ず醤油の歴史です。
醤油の歴史その1
江戸時代、狂歌師・大田蜀山人は、「世を捨てて 山に入るとも 味噌醤油 酒の通ひ路 無くてかなはじ」と詠んでいます。
古くから日本の味をつくり、日本人の食生活になくてはならなかったのがしょうゆです。
1)しょうゆのルーツは中国の「醤」
しょうゆは日本で発展した発酵調味料ですが、そのルーツを探ると、中国の「醤」にたどりつきます。
人々は食物を塩に漬けて保存するうち、発酵・熟成してうま味を持つことを体験的に知りました。
それが「醤」の起源といわれています。
醤についての最初の文献は、中国の古書『周礼』(しゅらい:紀元前11世紀頃、周王朝初期の記録書)とされています。
また、孔子の『論語』(紀元前6世紀)にも、「その醤を得ざれば 食らわず」(食物それぞれに適した醤が手に入らなかったら
食べない)と記されています。
中国以外にも古代ローマには、ガルムという一種の醤があったといわれますが、魚の塩漬けの汁を発酵させたものという以上のことは
わかっていません。
また『聖書』にも、これに類したものがみられます。しかしその後、ヨーロッパの醤は早々と姿を消してしまいます。
気候風土の違いや食生活の違いなど、様々な要因が考えられます。
2)肉醤・魚醤
中国の古書『周礼』によると、政府の宴会用として、醤が百二十甕(かめ)備えられていたと記されており
なくてはならないものだったことがうかがえます。
しかしここに書かれている醤は、獣・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類であり、大豆を原料としたものでなかったようです。
文献でみる限りこの頃の醤は、肉醤(ししびしお)または魚醤(ししびしお)だったということです。
3)肉醤・魚醤から穀醤へ
穀醤(こくびしお)が最初にあらわれるのは、中国湖南省から出土した紀元前2世紀(前漢時代)の とされています。
そして紀元1世紀(後漢時代)『論衡』に豆醤の記述が、さらに6世紀中頃(南北朝時代)『斉民要術』のなかに
大豆にコウジを加えて醤をつくる方法が述べられています。
このように周時代から前漢以前までは、肉醤または魚醤、前漢時代からは穀醤が併用され、以後穀醤が主流を占めるようになりました。
なお肉・魚醤よりも穀醤が多く用いられた背景としては、次のことが考えられます。
穀醤となる大豆は肉・魚に対して比較的安価であり、大量生産も可能でした。
また輸送・保存も容易で、食味、特に香味に優れていたせいでしょう。
醤油の歴史その1終わり
この後もよろしくお願いいたします。
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野田のキッコーマンの事も、リポートされてました。
因みに醤油のランキングは13位でした。
https://www.tv-asahi.co.jp/imadesho/osarai/0023/
これが作られてから、江戸前にぎりや天麩羅が流行ったそうですね。
templesさんのブログで、野田市のこと見てましたから、
興味深く見られて良かったです(^^)
歴史をはじめ、醤油の色々をご紹介するつもりに着き
お付き合い頂ければ幸いです。
キッコーマンについてどんな紹介があったかは
記憶がありません。
この頃は昔の事は憶えていても、例えば昨日の事を
憶えだせない状況で、ボケが大分進んでいる様で
心配です。
江戸前すしも、醤油があったので広まったのでしょうね。