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末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

トレヴィの泉

2012-02-22 15:18:51 | 海外旅行
トレヴィの泉

暫く空いてしまいましたが、またローマの旅の続きを掲載する事とし
先ず広場と泉をご紹介します。
ただここでもビデオ撮りに夢中で、残っている写真が少ないので
あちこちから借用した写真でご紹介します。

ローマの泉と言えば
「後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶う」という言い伝えがある
トレヴィの泉の名を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか


トレヴィの泉

トレヴィの泉(伊:Fontana di Trevi)は、ローマの歴史地区にある
小さなトレビ広場(Piazza di Trevi)にある巨大なバロック時代の泉で、
ローマでも最も美しい泉といわれ賑わっている所です。

トレヴィの泉全景

広場の名トレヴィはラテン語のTriviumからきたもので
3本の道が集まることを意味しており
確かに次のGoogle mapの写真で見る通り3本の路があり泉を囲んでいます。

Google Mapで見た泉A周辺

トレヴィの泉は後ろにあるポーリ宮殿の壁と一体となっており
構造上は3つの部分から出来ています。

一つは大理石で作られている正面、第二はイタリア産の大理石で作られた像
そして第三は地下水の炭酸カルシウムが沈殿してできた岩礁です

泉正面

中央に立つのが水を司る海神ポセイドン
左に豊饒の女神ケレース、右には健康の女神サルースが配置されています。

少し細かく泉の彫刻を見てみましょう。

ポセイドンのアップ

噴水の中心人物である5.8米の高さのポセイドンは
筋骨たくましく長くて大量のあごひげを持ち

2匹の海馬(海神の車を引く馬頭魚尾の怪獣)によって引かれた
貝殻の形をした二輪戦車に乗っています。

各々の海馬は、Triton(海神に使える神)によって御されており
1匹の馬は穏やかで従順ですが、他は暴れ馬で落ち着きがありません。
これは海の変化の様子を象徴しています。
そして一方のTritonは強くて若く、もう一人は年をとっています。

写真ではよく見えませんが、岩礁30種類の植物があります。


後ろ向きに投げるコイン

ktempl夫妻は何を願って投げたか?

後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶うという言い伝えですが
投げるコインの枚数によって願いが異なるそうです。

コイン1枚だと再びローマに来ることができ
2枚では大切な人と永遠に一緒にいることができ
3枚になると恋人や夫・妻と別れることができるのだそうです。

3枚の願いはキリスト教が離婚を禁止していたという歴史の名残りのようです。

なお毎日投げ込まれたコインは約3000ユ-ロで
ローマの貧民層の援助に使われているとのことです。


泉に水を送る送水路と水源について

この泉は、ローマからおよそ20km 離れたSaloneの水源から
ヴィルゴ送水路(Aqua Virgo)により水が運ばれてきています。

ヴィルゴ送水路は元々は
紀元前19年アウグストゥス皇帝の義理の息子アグリッパ(Agrippa)によって
造られたもので、6世紀にゴーオト人により破壊されるまで
400年の間ローマに水を供給していました。

その後15世紀になって送水路は復活し、17世紀になると
法王アーバンVIIIは送水路の終点Trevi広場に
ベルニーニの設計になる大きな豪華な泉を作る計画をしましたが
法王の死で中止されます。

18世紀になって法王クレメントXIIが、ニコラ・サルビに泉を作ることを依頼し、
サルビはベルニーニの設計をベースに、1762年に完成しました。
ローマの人口は、その時およそ160.000人でした。

その後送水路は近代化され現在も使われているわけです。

左側方見た泉


Aqua Virgoの名前がついた訳

ところでAqua Virgoという名前が付けられたことには物語があります。
ローマの兵士達が疲れて喉が渇いていたとき、一人の処女に会い
彼女が水場に案内してくれたので元気を回復しました。

その水場が送水路の水源になったために、Virgo(処女星)と付けられた様です。
そして現在もそれが水源として使われています。

写真では分かり難いのですが、右側の女神サルースの上に見える浮き彫りに
処女が兵士の案内をしている所が

また左側の女神ケレ-スの上には
最初に送水路を作ったアグリッパがいる浮き彫りがあります。


夜景の泉

トレヴィの泉は時間により表情が変わるため
多くの画家や写真家も訪れる様です。

ローマ その4 ヴァチカン4 大聖堂内部の3

2012-02-08 11:12:09 | 海外旅行

今日は天蓋の間に光って見えていた
身廊の最も奥にある主祭壇をご覧頂きます。

身廊最奥の主祭壇

主祭壇は、中央にベルニーニの傑作であるの聖ペテロの司教座と
その左右にはパウロ3世(左)およびアーバンVIII(右)の記念碑があります。

聖ペテロの司教座

司教座は中央に象牙で象眼された古代の木製の椅子が置かれており
この椅子は聖ペテロがローマの信徒達に教えを施す時に座った
司教の椅子として伝えられ尊ばれてきたものです。

法王アレキサンダー七世は、ベルニーニにこの木製の椅子を
豪華なモニュメントにするよう依頼しました。

ベルニーニが作った聖ペテロの司教座

ベルニーニは、浮き彫りで賑やかに飾った金メッキのブロンズの中に
椅子を入れる玉座を作り、その下に高さ5米の
巨大な4つの金メッキのブロンズ像で囲みました。

玉座の後ろにはうねるような雲があり、玉座は雲に浮かぶ様です。


玉座と4つのブロンズ像

4つのブロンズ像は神学の基礎を築いた
左側の聖Ambroseと聖Anthanasius、右側の聖Chrysostomと聖Augustineです。

聖Ambrose(左)聖Anthanasius(右)


聖Chrysostom(左奥)と聖Augustine(右前)

うねるような雲の上には、多くの天使に囲まれた光り輝く硝子の窓があります。

天使に囲まれた硝子の窓

窓は十二使徒に対する賛辞として12のセクションに分割されており
その中央には聖霊のシンボルのハトが、それ等を背に浮き出ています


司教座左右の法王の記念碑


左側は 法王Paul III (1534-1549)の記念碑です。
この法王はミケランジェロを大聖堂の建築の主任建築者に任命した法王です。

この祈念碑はミケランジェロの図面を使用して Portaによって作られたものです。

法王Paul III の記念碑

下の大理石の像は法王の美しい姉妹ジュリア
および母親の肖像であると言われています。


右側は法王Urban VIIIの祈念碑です。
この法王はベルニーニのパトロンであった法王で
祈念碑はベルニーニの作品です。

法王Urban VIIIの祈念碑

下の大理石の像は、左側の子どもを連れているのはCharity(慈善)で、
右側は剣とスケールを藻もったJusyice(正義)です。


聖ペテロ像

聖ペテロの名前が度々出てきますが
その像が中央法王の祭壇の右(平面図56)にあります。


聖ペテロ像

大理石の椅子にに座った聖ペテロは、胸の近くに左手でキーをもち
右手は祝福のために上げられています。

ローマに到達した中世の巡礼者は、巡礼の間に死んだ場合には
ペテロに天国の門を開いてくれるよう祈りながら
像の足に触れキスしたそうです。

今も祈ったり、像の足に口づけをしたりしている人が絶えません。
そのため右足はすっかりすりへっています。

すり減った右足

6月29日の聖ペテロの祭日には、像に祭服が着せられ、立派な王冠をつけるため
実際に生き返るように見えるとの事です。



最後に私事

明日早朝より出発して12日まで、家内の実家に行く事になりましたので
暫くブログを休ませて頂きますのでよろしくお願いします。

昨年9月以来柏から外に出るのは今回が2度目。
前回は以前ブログにも書きましたが、東京で昔の仲間の会を
幹事として開いたために相当無理をして出掛けました。

今回は少しはその時より楽に行けるのでは思ってはいますが
寒さの影響が心配です。

実は家内の母親の面倒を見ている妹が一泊で外に出るための留守番と
色々世話になっている長野の家の近くの親戚で昨年不幸があり
葬儀には家内が出たのですが、小生も一度お参りに行かねばと思っていた事

更に家内の妹二人が小生の傘寿を祝ってくれるという事ですので
出掛けることにしました。






ローマ その3 ヴァチカン 3 大聖堂内部の2

2012-02-05 11:21:14 | 海外旅行
大聖堂身廊

前回うっかりして大聖堂に入った時の堂内の様子を
最初に掲載するのを忘れましたので先ずご覧頂きます。

上の写真が大聖堂の身廊に当たる部分です。
左右に色々の像があるのがお分かり頂けると思います。


身廊に立つktemple

中央奥に何か黒い柱とその奥に輝くもの、
そして頭上に丸いものが見えますが、これがこれからご紹介するものです。


大聖堂平面図

先ず上の平面図の中央上にある50,51をご紹介します。


主祭壇と天蓋


主祭壇と奥の聖ペテロの司教座

更に近づくと、上の写真の様にねじれた柱で囲まれた天蓋のある
大聖堂の主祭壇があります(番号51)。
ここは法皇だけがミサができる祭壇のため、法王の祭壇とも呼ばれています。

そして天蓋は後ろに光って見える聖ペテロの司教座(46)の
額縁の役割を果たすようにもなっています。

この主祭壇の真下には聖ペテロの墓があり
祭壇の手前にはそこに行くためのThe Confessio(50)という場所があります。

なお大聖堂の地下には広大な地下空間が広がっていて
歴代教皇のお墓などがあるようです。

別角度から見た主祭壇、その手前のConfessioと
左奥の聖ペテロの司教座

主祭壇の大理石の床の上には
豪華で巨大な高さ20米の青銅製のねじれた4本の柱で立つ
天蓋(baldacchino)があります。

これはベルニーニが1624年から1633年の9年間を費して作ったもので
6200キロの金属を使ったとのことです。

柱はオリーブや月桂冠の小枝で飾られ、それらの中に天使の姿等が見られ
基部と柱頭にはアカンサスの葉が絡み合っています。

小枝が見られる柱の一部

天蓋の頂上には4つの曲った脚で支えられた十字架を付けた地球儀があり
天蓋の上には花で飾られたキューピットの像があります。

キューピットの像


The Confessio


The Confessio

上の写真の手前の二つある階段から下りると、下には美しい欄干と
色々の色の大理石壁や床に囲まれた半円形の聖職者席があります。

そこは青銅製の円錐形装飾物に支えられた
多数のランプによって美しく照らされています。

聖職者席前には聖ピエトロの墓の部屋があります


聖ペテロの墓のある部屋

The Confessioには入れませんので、上から皆さんが覗いています。
ktempleもビデオ撮りで一生懸命。

The Confessioを眺める人々


ドーム

天蓋の真上にあるのは、ミケランジェロが設計した大きなドームです。

ドーム

大聖堂の建築は1506年に始まり、何人かの主任建築家が携わっていますが
1547年からはミケランジェロが担当し
この大ドームの設計と建設が行われました。

然しミケランジェロが亡くなった1564年には
ドームの下部が完成した段階でしたが他の建築家に引き継がれ
1593年にドームは完成しました。

ドームの内径は42米、内側の高さ29米、地面からの頂上の十字架までの高さは
137米で、現在も世界最高の高さのドームです。

ドーム内部は16の大きな窓からの光で照らされています。

ドーム外景


ドームの内側

ドーム内側は縦方向に16に、その一つ一つが横方向に6つ分けられており
区分された所には、色々な肖像が見られます。

例えば一番下の列には、この聖堂に葬られている16人の法王の像があり
その上にはキリスト、聖母マリア、聖ジョセフ、聖ヨハネおよび多くの使徒
さらにその上には多くの天使の姿が見られます。

これら96の肖像の上には星が輝き
その上にミケランジェロの特長であるランタンがあります。


ランタン基部の銘

ランタンの基礎にはラテン語で
「聖ペテロの栄光に。法王シクストウス5世、法王5年目の1590に」の
銘があります。

今回の最後に堂内全体の感じを知って頂く様
大聖堂でミサの行われている写真を掲載しました。










ローマ その2 ヴァチカン 2 大聖堂内部の1

2012-02-01 21:04:46 | 海外旅行
聖ピエトロ大聖堂正面

間が空いてしまいましたが、大聖堂の内部をご紹介します。
先ず大聖堂の形と大きさを見てみましょう。

聖堂平面図

聖堂の大きさは長さ211.5米、最大幅156米、高さ120米、
総面積49,737平方米です。

図の中の番号は、そこに注目すべきものがある事を示していますが
実際には更に数多くの像、彫刻、絵等があり
小生が記憶しているのは残念ながらほんの僅かしかありません。

記憶に残っているものを中心に、その一部をご紹介する事にします。


前室(Atrium)

平面図の一番下1番で、聖堂の入り口前にある部屋で
Portico(屋根のある廊下)とも呼ばれています。

前室(左側が大聖堂入り口)

前室の大きさは長さ71米、幅13.5米、高さ20米です。

平面図で番号は9ケだけですが、実際には彫刻その他が20数個あります。
一例を挙げれば、聖ペテロが最初に戴冠式を行った
ローマ王Charlemagneの騎馬像があります。

Charlemagneの騎馬像

大聖堂に入る扉

平面図に示す様に、広場からの5つの入り口と
大聖堂に入る5枚の扉2~6番があります。

左から「死の扉」、「善と悪の扉」、「Filareteの扉」
「聖礼典の扉」と「神聖な扉」です。

死の扉

死の扉

「死の扉」は、かつては葬列のための出口だったものです。
この青銅の扉にはキリストの磔刑や受胎告知、その他が彫られています。

善と悪の扉

善と悪の扉

右のパネルは善を示す光景が、左には悪を示す光景が彫られています。

Filareteの扉

Filareteの扉

制作者の名前がつけられているこの扉には
多くの聖人その他の像が彫られています。

聖礼典(Sacraments)の扉

聖礼典の扉

これは一般に聖堂へ入るために使用される開かれた扉です。
パネルには7つの聖礼典および説教の様子が彫られています。

神聖な扉

神聖な扉と法王

この扉は内側から煉瓦で封じられており
25年ごとにある聖年(Jubilee)にのみ開いているものです。
なお2000年が聖年の年でした。

聖年の1日目に、皇王は銀のハンマーでレンガ壁を打ち
巡礼者にたいして扉を開けます。
神聖な扉は神の慈悲が人類の弱さに援助の手を差し伸べるという
メッセージを伝えています。


神聖な扉


ピエタ

ピエタ

大聖堂に入って直ぐ右平面図16番にミケランジェロの作品「ピエタ」があります。

聖母子像のうちピエタ(イタリア語で哀れみ・慈悲などの意)は
死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの
彫刻や絵の事を指します。

通常のピエタでは聖母マリアは失意に沈む年配の女性として
表現されるのが通例でしたが
ミケランジェロは若々しく穏やかで神々しい女性に仕立て上げています。

聖母マリア

2年をかけて大理石の一枚岩から1499年に完成させたこの像は
署名を入れた唯一の作品として知られています。


ピエタのアップ

左肩から右脇へ垂れた帯の上に
ミケランジェロの現存する唯一の署名があります。


飾り帯の部分に刻まれた名前

ピエタの設置を終えてまもない頃に
「あれは二流彫刻家のSolariが創ったものだ」という噂が
ささやかれているのを耳にしたミケランジェロは怒りにかられ
夜中に教会へ忍び込んでマリアの肩から胸に下がる飾り帯の部分に
「フィレンツェの人ミケランジェロ・ブオナローティ作)」と
刻み込んだという事です。

のちにミケランジェロはこうした行為に出たことを後悔し
それ以後けっして自分の作品に名前を入れようとはしないことを誓ったため
この像がみずから署名を入れた唯一の作品となりました。



ローマ その1  ヴァチカン 1

2012-01-28 21:23:04 | 海外旅行

ヴァチカン全景

イタリアではローマ、ミラノ、ベネチアを訪ねましたので
先ずロ-マのヴァチカンからご紹介することにします。

ヴァチカンについて

ヴァチカンは、イタリアのローマ市の西側、バチカンの丘にある
世界最小の主権国家です。

ローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と
東方典礼カトリック教会の「総本山」です。

東西約1キロ、幅 850 メートル、面積0.44 平方キロの世界最小の国家で
その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館
サン・ピエトロ広場などがあります。

ヴァチカン地図

歴史

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって
人の住む地域ではなかったのですが
26年に使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられました。

やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して
強い影響力をおよぼすようになると
バチカンはカトリック教会の本拠地として栄えるようになりました。

しかし1860年にイタリア王国が成立すると、教皇領は接収されてしまいます。
そして1929年になって、バチカンを独立国家として
イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証する
ラテラノ条約が結ばれました。

教皇

教皇は80歳以下の枢機卿たちの選挙(コンクラーヴェ)によって選ばれます。
なお教皇に必要な資格は男性のカトリック信徒であるということだけですが
実質上は枢機卿たちの互選になっています。

軍事・警察

バチカン市国は一切の軍事力は保持しておらず
警察力もスイスからの傭兵はいますが
基本的にはイタリアの警察に依存しているため
「別国」でありながら実際の警備はイタリア国家警察が行っています。

スイスからの傭兵

なお、公共に開放されている区域への入国は原則的に自由で
イタリアとの国境の管理や検疫は行われていません。

言語


公用語はラテン語ですが、通常の業務においてはイタリア語が話され
外交用語としてフランス語が、そして警護に当たるスイス人衛兵達の
共通語はドイツ語との事です。

観光客が入れる場所は、サン・ピエトロ広場、サン・ピエトロ大聖堂
バチカン博物館周辺のみです。

国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産に登録されています。

サン・ピエトロ広場とサン・ピエトロ大聖堂

サン・ピエトロ広場

サン・ピエトロ広場はサン・ピエトロ大聖堂の正面にある
長径200m、短径165mもある巨大な楕円形の広場で
バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家ベルニーニの
設計により1656-67年に建設されました。

なお「ベルニーニはローマのために生まれ
ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたほど
彼の手により古き都ローマは、壮大なスケールと
絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌しました。

4列の合計372本ドーリア式円柱による列柱廊と
140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つています。
オベリスクの両側には二つの噴水があります。


中央オベリスクと左右に噴水


列柱廊と聖人像


噴水

左右の噴水とオベリスクのそれぞれの中間地点には
「柱廊の中心」と記された円があります。

円の上に立つktemple

そこに立って列柱を眺めると4列の列柱がピッタリ重なり合い一列に見え
広場の外の景色が見えるようになます

4列の柱が1本になり、外の景色が見えます


サン・ピエトロ大聖堂

サン・ピエトロ大聖堂正面

サン・ピエトロ大聖堂のサン・ピエトロは
ここに墓所があった使徒ペトロ=「聖ペトロ」の意味です。

キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇り
4世紀に創建されましたが、現在の聖堂は2代目にあたり
1626年に完成したものです。

大聖堂ドーム

当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わっており
その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め
聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っています。

次回に内部の様子をご紹介します。