goo blog サービス終了のお知らせ 

末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

ローマ その9 コロセウムの1

2012-06-23 22:37:20 | 海外旅行
我が家の花以外は殆ど新しいネタが見つけられない現在の小生

さてどうしようかと考えていたら

大分前にイタリアの旅をご紹介したのが3月で途切れている事を

思いだしましたのでまた続けさせて頂きます。

今回から暫くコロセウムをご紹介します。

Google Earthで見たコロセウム

コロセウムと聞けば、ローマにある楕円円形劇場で

剣闘士たちの戦いなどが行なわれた場所という事は

皆さんも思い起こされると思います。

コロセウム(Colosseum)はローマ市に残る、

ローマ帝国時代の西暦70年代にフラウィウス(Flavius)王朝の

ウェスパシアヌス帝(Vespasian)が起工し

80年に彼の息子ティトス帝(Titus)により完成された

都市の中心にある円形闘技場で、古代ローマの象徴でもあり

最大の建造物です。

実は小生見学した時はこの程度の知識でしたが

今回調べてみると色々と知らない事がありましたので

長くなりますがご紹介しますので、ご興味があればご覧頂ければ幸いです。

ビデオ撮りに夢中のktemple.変な所が光っていますね

上の写真でご覧いたける様に、小生ビデオ撮りに夢中で写真は殆どありません。

唯一残っている建物写真

この家内写真との合計3枚以外は、ネット上の写真

幸いネット上の下記に素敵な写真と解説がありましたので、それを利用しました。

若し更に詳細を知りたい方は下記にアクセスしてみて下さい

1)英文版Wikipediaの「Colosseum」  http://en.wikipedia.org/wiki/Colosseum
  こちらには非常に詳しい解説があります。

2)ROME in the footsteps of an XVIIIth century travellerの中にある
  Piazza del Colosseo  http://www.romeartlover.it/Vasi33.htm



名前の由来

コロセウムの元々のラテン語の名前は

フラビアン円形劇場(Amphitheatrum Flavium)で

上述した様に、建設がフラビアン(Flavius)王朝の王様達により

建設されたために、それに因んだ名前でした。

現在でもその名前は使われてはいますが、通常はコロセウムと呼ばれています。

コロセウム(Colosseum)の名前は

近くにあった37米の高さのネロの巨大な像(Colossal Statue)に

由来すると言われています。

ネロ像の想像図。「Rome Reborn」サイト掲載のもの 

ネロの像はロードスの巨像(the Colossus of Rhodes)の名をとって

名付けられたもので、ネロ自身が西暦64~69年に建てたものです。

ネロの後継者によって太陽の冠を加えることによって

太陽の神 Apolloによく似たものに作り直されました。

そして数回も後継の皇帝の頭に入れ替えられもしましが

中世の時代にもしっかりと立ったまま残っていた像は魔力を有すると信じられ

ローマの永続性の伝統的象徴とみなされるようになりました。

多分中世までは残っていたと思われますが、現在は土台が残るだけです。


用 途

50,000人の見物人を着席させることができたコロセウムは

剣闘士の戦いや野生動物の狩猟のショーをはじめ、処刑、有名な戦いの再現、

ローマ神話に基づくドラマの様な大衆の見世物のために使われました。

更にやキリスト教徒を猛獣に襲わせる残酷なショーもありました。

野生動物の狩猟のショーでは

アフリカと中東から輸入した多種類の野獣(例えばサイ、カバ、象、キリン

原牛、ヨーロッパバイソン、ライオン、ヒョウ、ヒョウ、クマ、トラ、ワニ

ダチョウ)を利用し、動かせる木と建物を持った精巧なセットの中で

しばしば行われました。

そのようなショーは、時折大規模に行なわれており

例えば11,000匹の動物と10,000人の闘士が出た戦いが

123日に渡り行なわれたという記録があります。

初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り

模擬海戦を上演することさえ可能で有名な戦いの再現も行なわれました。

その後せり(迫)のような複雑な舞台装置を設置したために

水を使った大規模演出は不可能となりました。

然し後述の歴史で詳細を記載しますが

中世初期にはエンターテイメントのために使われるのをやめ

その後は住宅、工場、修道会の宿舎、要塞、採石場そしてキリスト教の

聖地として利用され、現在でも特定の日にはキリスト教の

宗教儀式の舞台になっています。

そして何百万もの見学者を毎年受け入れるローマの最もポピュラーな

観光名所の1つになっている現状です。


ローマその8 サンタンジェロ橋

2012-03-19 19:03:44 | 海外旅行

朝の散歩で撮ったサンタンジェロ橋

前回ご紹介したサンタンジェロ城の前にあるテベレ川に架かる橋には
素敵な天使像があります。

朝の散歩では綺麗な橋と思って見ただけで
今迄この橋については全く知らぬままに過ぎていましたが
調べて見ると色々と歴史があり、また像も大変美しいのでご紹介します。

サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋

橋の歴史

ローマ皇帝ハドリアヌス帝により西暦134年頃
ローマの中心街から彼が建てた霊廟(後のサンタンジェロ城)を結ぶための
テレベ川を渡る橋として建設されました。

この橋は、巡礼者が聖ピエトロ大聖堂に行くためにも使われたために
「聖ピエトロの橋」(pons Sancti Petri)の名前でも知られていました。

そして7世紀に法王グレゴリー一世により前回のサンタジェロ城で述べたような理由で
城と橋はサンタンジェロの名前を持つ様になりました。

その後この橋は、1450年には訪れた何百人もの巡礼者の重みで壊れ
200人が溺れ死ぬという事故が起き、橋桁の一部を残して造り直されました。


橋の像の歴史

1534年に法王クレメント七世によって橋の入り口に聖ピーターとセントポールの像が築かれました。

現在の橋に残る聖ピーターとセントポールの像

更に1536年に、法王ポール三世は8つの化粧漆喰の天使像を橋に沿って築きました。

1669年になって法王クレメンス九世は、老化した化粧漆喰像を置き換える事をきめ
キリスト受難の道具(instruments of the Passion)を持つ10人の天使像の作成を
親友でもあったベルニーニに依頼しました。
(像の名前等の翻訳は良く分からぬため、適当にしたものですのでご了承下さい)

10体の天使像のうちの2体はベルニーニ自身が作りましたが
残り8体はベルニーニのデザインにより、当時のローマで活躍していた
ベルニーニの弟子の彫刻家たちにより1660~1668年に制作されました。

そして最初の像は、1669年9月に、最後の像は1671年11月に橋に築かれました。

天使像が並ぶ橋

像の紹介

ベルニー自身が作った天使像

ベルニーニが作った「上書き書を持つ天使」と「いばらの冠を持つ天使」は
完成した時にそれを見た法王クレメンス九世が
この天使像が風雨にさらされるのが忍びないと考え自分で保管してしまいました。

サンタンジェロ橋の上に置かれたのはその複製で現在でもその複製が飾られています。

次の写真は今橋に並ぶその二つの複製像ですが
何故同じ天使の3つの写真が出ているのかについて説明します。

ベルニーニは、人々が橋の両側から渡る事を考え、3つの視点を考えて作りました。
即ちローマの街側から入る人と、サンタンジェロ城側から入る人は
像を先ず45度の角度で見て、次いで像の所にきて正面から見ますので、
その3つの視点を考慮して作成しました。

下の写真の左はローマ側から、中央は正面から、右は城側から像を撮った写真です。

ベルニーニはこの様な3つの視点からみた像が如何に見えるかを知るために
粘土でフルスケールモデルを用いて検討しており
そのモデルの一部はバチカン博物館で見ることができるようです。

上書き書を持った天使


いばらの冠を持った天使

二つの天使像のオリジナルは、その後彼の子孫によって保存されていましたが
西暦1729年にサン・タンドレア・デッレ・フラッテ教会に寄贈され
現在もこの教会にあります。

橋の上の像全体

次の写真は、橋の左右に置かれている像を
ローマの街からサンタンジェラ城に向かっての順に並べたものです。

橋の上の像全体

写真の上の像(橋の左側の像)

聖ピーター(St Peter)
鞭を持つ天使(Angel with the scourge)
いばらの冠を持つ天使(Angel with the Crown of Thorns)
衣服とさいころを持つ天使(Angel with the Garment and Dice)
上書き書を持つ天使(Angel with the Superscription)
酢を差し出す天使(Angel with the Sponge(with vinegar)

写真の下の像(橋の右側の像)

聖ポール(St Paul)
王座を持つ天使(Angel with the Column(the throne)
粗末な衣服の天使(Angel with the Sudarium )
釘を持つ天使(Angel with the Nails)
十字架を持つ天使(Angel with the Cross)
槍を持つ天使(Angel with the Lance)


サンタンジェロ城側からの橋


個々の像

個々の像も大変美しいので、次にベルニーニの複製像以外の像を掲載しますが
写真を撮った方向はばらばらです。


鞭を持つ天使


衣服とさいころを持つ天使。サイコロは衣服の中にあります


酢を差し出す天使


王座を持つ天使


粗末な衣服の天使


釘を持つ天使


十字架を持つ天使


槍を持つ天使

今回の説明内容と写真は、主としてローマの歴史を扱っているサイト
「ABRIDGED HISTORY OF ROME」の中のサンタンジェロ橋を扱った
「Passeggio di Ponte S. Angelo」の中の「The Statues of the Angels in detail」
http://www.romeartlover.it/Vasi85b.html からのものを用いましたので
ご興味のある方はこのサイトもご覧になって下さい。



ローマその7 サンタンジェロ城

2012-03-06 18:41:52 | 海外旅行
朝の散歩で撮ったサンタンジェロ城


朝の散歩で撮ったサンタンジェロ城。城の左白い建物はサンピエトロ大寺院

上の景色はローマで朝散歩したときに見たもので
ビデオカメラを持ち出さなかったのか横長写真が残っています。

実は今迄その名前も全く知らぬままになっていたのですが
今回調べてサンタンジェロ城とサンタンジェロ橋であることを知りましたので
お借りした写真を主に利用してご紹介します。

サンタンジェロ城(伊: Castel Sant'Anglo)

サンタンジェロ城はテベレ川右岸にある円筒形の要塞を中心に
四隅に稜堡がつくられている城塞です。

上から見たサンタンジェロ城。円筒形要塞と四隅の稜堡が見えます。(Google map)

その正面には、サンタンジェロ橋があり
サン・ピエトロ大聖堂は歩いて10分くらいと近くにあります。


サンタンジェロ城、サンタンジェロ橋、テベレ川、左奥サンピエトロ大寺院


サンタンジェロ橋の反対側から見たサンタンジェロ城

なお城全域を上から見ると5角形をしています。

五角形の城全域

城の歴史

西暦135年皇帝ハドリアヌス(Hadrianus)が自らの霊廟として建設を開始し
その後継者アントニヌス・ピウス治世の139年に完成しました。

霊廟はきれいな円形の螺旋構造の建物で、当初太陽を象徴したハドリアヌスが
戦車を引く像が頂上に設置されましたが
その後この城は以下に述べるような変遷をしたため
当初の姿は見られなくなりました。

即ち中世になると、霊廟は皇帝の墓に変わり
更に外敵の侵入に備えて、難攻不落の要塞になっていきました。

そして14世紀になるとローマ法王により
いざというときにサンピエトロ大聖堂から逃げ込む要塞として強化され
非常時の脱出ルートとして、バチカン宮殿とサンタジェロ城をつなぐ通路が作られ
城は非常時用に、財宝や食物の保存場所ともなりました。

正面建物の右に縦に繋がるのが非常用通路

またその頃から牢獄としても使用され
拷問や飢えにより囚人が刑の前に死亡したり
更にここの中庭が首切り処刑の場所として使われ
切られた首が幾日か吊されたりもして悪名の場所の時もありました。

19世紀イタリア国家の設立の後は、建物は兵舎になり
現在は国立カステル・サンタンジェロ博物館
(Museo Nationale di Castel Sant'Angelo)になっています。


弾薬庫跡の庭に積まれた石の砲弾

皇帝の部屋

いかにも霊廟か牢獄と行った感じの通路

天使ミカエル(Archangel St. Michael)の像

この城は別名「聖天使城」という名の通り
城の頂上部には天使ミカエルの像が立っています。

最上階に立つ天使ミカエル像

これはかつてローマにペストが流行った際
時の教皇グレゴリウス1世が590年に
剣を鞘に収める大天使ミカエルを城の頂上に見た時に
ペストが終熄したという伝説があり
それに因んで城はサンタンジェロ城(聖天使城という意味)と
呼ばれるようになりました。

天使ミカエル像

またその事を記念して、16世紀にRaffaello da Montelupoによる
大理石製の天使の像が城の頂上に設置されましたが
1753年からはPierre van Verschaffeltによる青銅製の像が設置されています。

余談

ダン・ブラウンのベストセラーを描いた映画「ダ・ヴィンチ・コード」に続く
映画「天使と悪魔」の舞台にもここが利用されています。

歌劇「トスカ」でもこの城が出てきており、
第3幕の最後に主人公トスカは屋上の城壁に駆け上がり
そこからテベレ川に身を投げてることになっています。


ローマ その6 ナヴォーナ広場 2 噴水

2012-02-29 09:33:45 | 海外旅行
今日はナノーヴァ広場の噴水についてご紹介します。

四大河の噴水

四大河の噴水全景

広場の中央にある四大河の噴水は
4つの大陸を流れる大河、ガンジス河(アジア)、ナイル河(アフリカ)
ラプラタ河(南アメリカ)、ドナウ河(ヨーロッパ)を擬人化した
4人の男性彫像を配した岩礁と
その中心に空高く聳えている古代エジプトのオベリスクから出来ています。

この噴水はイノケンティウス10世の法王就任を記念して
法王の依頼で1651年ベルニーニの設計により作られたものです。

オベリスク

泉の中心にあるオベリスクの頂上には、
聖霊のシンボルであるオリーブの小枝を備えたハトと
法王イノケンティウス10世一族Pamphili家の家紋が付いており
その下に4つの大陸の4つの主な川を表わことで
法王権がそこに広がっている事を表しています。

このオベリスクは、西暦80年のローマの大火の後に建てられたものですが
その後6世紀には倒れて5つの断片に壊れてしまいました。

法王イノケンテイウス10世は、この広場に噴水を作る際
壊れたオベリスクを再建することを思いついたのだということです。

次に四大河噴水の擬人像について詳細に見ましょう。

四大河噴水東側の擬人像

東側。左ガンジス川、右ナイル川の擬人像

左はガンジス川、右がナイル川の擬人像で、中央には椰子の木があり
椰子の木の根元近く、写真下中央にライオンが吠えています。

ガンジス川

ガンジス川の擬人像

ガンジス川の擬人像は最も立派な顔をしており
下に鎌首をもたげる蛇を櫂で従えています。

ナイル河

ナイル河

ナイル川の擬人像は、布を被って目隠しをしており
それはナイル川の水源がわからないことを意味しています。

この目隠しに関連して次の様な話が語られています。

噴水の向かいにあるサンタニェーゼ聖堂は前述したように
当時ベルニーニと並びバロック芸術の担い手として活躍した
建築家ボッロミーニが設計しました。
この二人はいつもライバル心を燃やしていた様です。

そのため、布を被っているのは「見るに堪えない教会」だからという事で
ベルニーニがボッロミーニに向けた皮肉という話です。

ただ実際には噴水が完成したのは1651年
教会はその4年後に完成しているので不仲を揶揄したローマ人の作り話です。


4大河西側の擬人像

西側。左ラプラタ河、右ドナウ河

左にラプラタ河、右にドナウ河の擬人像があり、中央洞窟には馬がいます。

ラプラタ河(Rio de la Plata)

ラプラタ河

左のラプラタ河の擬人像は、アメリカがヨーロッパに提供出来た富のシンボル
コイン(plataはスペイン語で銀を意味します)の上に座っています。

ドナウ河

ドナウ河

ドナウ河がローマに近い大河川であるので
右手でローマ法王の盾形の紋章に触れています。
上の写真ではそれが見えませんので、像は裏側になりますが
次の写真で紋章がご覧いただけます。

紋章に手を触れるドナウ河

各擬人像に加えて、沢山の花、外来植物、それに馬、クジラ類、ヘビ、イルカ、
ワニ、ライオンおよびドラゴン等の動物で飾られています。


ムーア人の噴水

ムーア人の噴水

ナヴォーナ広場南側の噴水です。

ムーア人の噴水は、底にピンク大理石が敷かれており
イルカと格闘する逞しいムーア人の銅像の周囲を
4対の少しおかしな顔をしたトリトン像と
これもおかしな顔をした小さな像が取り囲んでいます。

ムーア人の噴水。上の写真の反対側

この噴水には次の様な色々の出来事がありました。

噴水は最初Giacomo della Portaの設計で1575年に
イルカおよび4つのトリトンからなるものが作られました。

1653年になって、中心像としてベルニーニのデザインになる
イルカに乗る逞しいムーア人(多分元々はネプチューンを意味したと思われます)
の彫像が加えられ、噴水はムーア人の噴水と呼ばれる様になりました。


付け加えられたムーア人の中央像

更に1874年には、噴水の改修中にオリジナルの彫像は
市内のボルゲーゼ公園市内のボルゲーゼ公園に移され
現在ここの噴水に設置されているのは、その時作られた複製です。

そして2011年9月3日早朝
侵入者が噴水内の像や小さな彫刻類をハンマーで
破壊するという被害を受けました。

破壊された大理石の塊は全て回収されており
元通りに修復されたと思います。


写真左の顔だけの像も破壊された様です

ネプチューンの噴水

ネプチューンの噴水。先には四大河の噴水

広場北側にあるネプチューンの噴水は
蛸と闘うネプチューンの堂々とした彫像が中央に立ち、周囲には
ネレイス神話をベースニしたキューピッドやニンフと海象の彫刻があります。

蛸と闘うネプチューンと美しいニンフ

実はこの噴水にも色々の歴史があります。
16世紀になってローマで送水管の整備が進むにつれて
幾つかの公共の泉がつくられるようになりました。

法皇グレゴリウス13世により、
ムーア人の噴水を設計したPortaのデザインで1574年に作られたここの噴水は
当初は彫像の無い泉でした。

池の下方部分は、白い大理石
そして上の部分はこの地の石でつくられました。
それ以降300年の間、泉は彫像なしで存続しました。

19世紀になってローマのインフラ整備が進んだため
泉は飲み水や洗水の目的に使うことは減り
更に1871年以降ローマがイタリアの首都となったため泉の視覚的な重要性が増し
広場の四大河の噴水やムアー人の噴水と彫像とのバランスをとって
彫像が加えられました。

反対側から見たネプチューンの噴水全体

その結果今日残っている1878年に完成した噴水は
上述した彫像が加えられた噴水になっているのです。

ローマ その5 ナヴォーナ広場 1

2012-02-25 14:16:34 | 海外旅行
広場の北からみたナヴォーナ広場の南側
中央にオベリスクその右横にサンタニェーゼ教会が見えます

今回はナヴォーナ広場についてご紹介します

ナヴォーナ広場(Piazza Navona)

ナヴォーナ広場は大変細長い広場であると共に、芸術的な広場です。

空からみたナヴォーナ広場

ここは紀元1世紀に作られた
古代ローマの競技場ドミチアン競技場(Stadium of Domitian)があったところです。
15世紀の終わりに、市設市場がそこに移った時に公共の広場となり
更に17世紀に法王イノケンティウス10世(Innocent X)の時代に
素晴らしいバロック式のローマ建築および芸術的噴水が作られました。

噴 水

広場の中には中央には「四大河の噴水」、南側には「ムーア人の噴水」
北側には「ネプチューンの噴水」の3つの噴水があります。
これらの噴水については、次回ご紹介します。


広場の南端からオベリスクのある北側を見た景色。
手前はムーア人の噴水


オベリスクのある四大河の噴水

ネプチューンの噴水

建 物

建築物としてはPamphili宮殿(the Palazzo Pamphili)や
サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(Sant'Agnese in Agone)等があります。

Pamphili宮殿

 Pamphili宮殿

法王イノケンティウス10世の家系であるPamphilj家は
元々ナヴォーナ広場に宮殿を保有していましたが
法王になった1644年に更に豪華な宮殿を建てるために
建築家Girolamo Rainaldiに1646年に建設を依頼
旧来の宮殿の一部を取り入れて1650年頃完成しました。

なお1920年以降この宮殿はブラジルの大使館になっています。


サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(Sant'Agnese in Agone)


サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会

サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会は
17世紀イタリアのバロック式教会で
聖アグネスが古代ドミティアヌス競技場で殉教した場所に
面して建てられました。

この教会を建てたのもインノケンティウス10世で
Pamphili宮殿の近くでPamphili家の人々の家族礼拝堂としても
便利な場所に建てられました。

なおアゴーネ(Agone)は、ナボーナ広場が競技場であった時の名前で
サンタニェーゼ教会は幾つかあるので
ナヴォーナ広場のサンタニェーゼ教会という事です。

この建築には何人かの建築家が参加していますが
その一人に当時の最高のバロック式建築家
ボッロミーニ(Francesco Borromi)がいます。
泉の所の説明にこの建築家の名前が出てきます。


広場でのktemple


四大河の噴水の近くでビデオ撮りに忙しいktemple

ここにはストリートパフォーマーや似顔絵画家もいて
いかにも広場といった感じでした。