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末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

信州の鎌倉 その9 安楽寺 その2 経蔵と傳芳堂

2014-01-28 16:04:05 | 家内の実家
経 蔵

経 蔵
 

1784年宇治の黄檗山萬福寺から購入した一切経を保管するために建てられた

方3間の経蔵で、この種建物の代表的なものです。

経堂内部には輪蔵があり、その前には傅(ふ)大師が祀られています。

傳大師像と輪蔵

輪蔵は傅大師によって考案されたといわれる廻転式書棚のようなもので、

中心軸に沿って回転させることが可能な八角形の書架を設け、

そこに一切経を収納した形式のものです。

この経蔵を回転させると、それだけで経典を読誦したのと

同等の御利益が得られるものと信じられています。

なお輪蔵には古来から必ず傅大師をまつる習慣がある様です。

地蔵像

経蔵から次の傳芳堂に行く途中にある地蔵像です。

地蔵像

傳芳堂

傳芳堂

本堂の後ろにある傳芳堂には重要文化財の二人のお坊さんの像があります。

この寺の開山樵谷惟仙(しょうこくいせん)和尚と、

二世の幼牛恵仁(ようぎゅう えにん)和尚お二人の像で

木像の頂相(禅僧の肖像彫刻)としては古い例に属するものです。

中の和尚の像を撮ろうとしたのですが、光の加減で像の手前は何となく撮れますが

どうしても像全体は撮れませんでしたので、借用写真を掲載します。

撮れた傳芳堂内部

樵谷惟仙和尚の像

樵谷惟仙和尚の像

惟仙は木曽源氏の出といわれてり、鎌倉時代の中期、宋に渡って修学し

1246年友人であった鎌倉建長寺開山蘭渓道隆と同船帰朝して後、安楽寺を開いた人です。

この像は1329年に造られたものです。微笑をたたえた優しいお顔の中にも

学と行で鍛えぬいた凛然たる気風が漂っています。

幼牛恵仁和尚の像

幼牛恵仁和尚の像

恵仁は幼牛と号し、惟仙とともに来日して、安楽寺二代となった中国僧です。

この像も1329年に造られたものです。

惟仙像に比べ、この像はやせ型のつつましくも鋭い表情に造られています。


楽しい湖柳会

2014-01-21 19:11:11 | 家内の実家
H家での湖柳会

湖柳会は諏訪市の湖畔の小さな町湖柳町に住んでいた旧制諏訪中学

(現在の清陵高校)の同期生11人の会です。

昨年11月に湖柳会の事や会が行われた事を詳しく書きましたが、

その時の会で決まった事で

11人の仲間でただ一人亡くなってしまったH君の奥様のご招待で

昨日H宅に常連の5組の夫婦が参加してマージャン会が開かれ

マージャンをしたり、H奥様手作りのお料理をご馳走になったりして

13時から21時までの9時間も楽しんできました。

一昨年12月にもこの仲間がH宅にご招待され楽しんだ事をブログに書きましたが

高級マンションの12階にあるこのお宅からの景色が素晴らしく

今回もダイヤモンド富士を眺めるのも楽しみの一つでしたが

残念ながら今回は昼間から富士は見えませんでした。

小生の下手な写真では、特に夕暮れ時の素晴らしさが示せず残念ですが

H家から眺めた景色を掲載させて頂きます。

H家からの景色

マージャンを楽しんだ応接室の外側2間半は普通は窓がある所ですが、

このお宅は床から天井まで大きな硝子が張り巡らされており

何の遮りもなく素晴らしい景色が眺められます。

左側の硝子

上の写真の様に正面だけでなく、側面も硝子になっており、

写真では見えませんが、この側面からスカイツリーがかすかにみえました。

右側の硝子

こちら側に天気が良いと富士が見えます。

中央部の硝子は桟など何も遮る物がありませんので、景色が丸見えです

上の写真の遠くのビル群は新宿副都心のビル群です.

上記の場所の夕暮れ時

来月もH家で湖柳会

今度はダイアモンド富士がみれる事を期待して、

また来月16日に再度H宅にお邪魔することになりました。

H奥様がお料理を作られるのは大変だと思うのですが

じつは奥様は今でも外部の社会活動を色々とされており

その関係もあって月に何度かパーティーを自宅で開かれており

別に大変ではないとおっしゃって下さっています。

それでもと次回は各奥様方が一品ずつ持ち寄ることにし

持ち寄る料理を幹事さんに報告し、

それを幹事さんがH奥様にご連絡し、H奥様が不足分を作って下さるという事で

H奥様の手を少しでも省くようにしようと言うことになりました。

来月がまた楽しみです。





信州の鎌倉 その7 北向観音 その2 境内の色々

2014-01-18 16:19:42 | 家内の実家
先ず観音堂内部の紹介と、次いで境内にある木や建物についてご紹介します。

堂内の様子

おびんずる尊

外陣にはおびんずる尊の像がありました。

おびんずる尊

本堂仏壇

本堂仏壇

絵 馬

堂内には平維茂の紅葉退治を描いた縦90糎、横177糎の絵馬がありました。

鬼女紅葉退治の絵馬。右上に鬼女紅葉

これは平安の世に、戸隠山に住み悪事を働いた鬼女紅葉退治の伝説で、

討伐の命を受けた平維茂は北向観音の加護により目的を果たす事ができました。

この絵馬はその模様が描かれているもので、狩野派の流れを汲む木村春洞が

描いたもので、1859年にに奉納されたものです。

境内の他の建物他

夫婦杉

夫婦杉

本堂横に杉本から二股に分かれた杉の大木が2組仲良く並んで立っています。

夫婦杉と呼ばれており、夫婦円満の象徴とされています。

前回の本堂の写真でお仲間達写っていたのは、この杉に肖りたいと眺めて戻る所でした。

愛染桂

北向観音の正面石段西側にある鐘楼横に

樹齢1200年、樹高22m、幹周5.5mの桂の大木があります。

">巨木愛染桂

境内の東隅にある愛染明王堂(後出)とこの桂の木に因んで

故川口松太郎氏が小説「愛染かつら」 を書かれ、

その小説とそれを原作とした映画が大ヒットしました。

若い人たちからは「縁結びの霊木」として親しまれており、

昭和14年には長野県の天然記念物に指定されています。

愛染堂

愛染桂と参道を挟んで向かいに建つ愛染堂は

小堂ながら精緻をこらした名堂として知られています。
愛染堂

本尊は愛染明王で恐ろしい形相をしており、

種々な誘惑や困難を打ち砕いてくれるという「恐れる仏」即ち「愛の仏」です。

1882年に建てられたものです。

鐘楼と梵鐘

鐘楼。後ろに愛染桂

当初の鐘楼の建立年代は不明ですが、梵鐘は1793年に作られたものです。

しかし第二次世界大戦で金属の供出という運命にあい行方不明となってしまいました。

現在の鐘は1949年に、鐘楼は1971年に再建されたものです。

梵 鐘

六地蔵

鐘楼の横に可愛らしい六地蔵がありました。

六地蔵

札所観音堂

札所観音堂(借り物)

愛染堂の右に札所観音堂が建っています。

享保年間篤信者が奉納した秩父三十四観音を安置してあります。

この堂の横には、別所温泉を一望できるスペースがありました。

そこから眺めた塩田平

額 堂

額 堂

一般庶民は心に秘めた悩みの解消の願いを込め、

自身で描いたり描いてもらった絵を神仏に奉納していました。

その絵を掲げたのが絵馬堂です。

北向観音ではこれを額堂といい、

江戸時代より絵の展示場として参拝者の目を楽しませてきました。

額堂の絵を見る女性の皆さん

不動堂(護摩堂)

不動堂

1981年に本堂の傍らにある護摩堂は1981年に再建されたもので

不動明王を祀り、護摩祈祷が行われるお堂です。

温泉薬師瑠璃殿

温泉薬師瑠璃殿

本堂の向かって右、崖にへばりつくように建てられている一風変わった建物で、

温泉薬師瑠璃殿あるいは医王尊瑠璃殿ともいわれています。

創建年代は不明で、別の場所にあった薬師堂が1741年の川の氾濫によって流され

1809にここに再建されました。

温泉の薬効と薬師如来の病苦から人々を救うというご利益が結びついた

温泉薬師信仰に基づいたものです。

瑠璃殿という名は、薬師如来の別名「瑠璃光如来」からきており

医王尊も薬師如来の別名です。

終わり



















信州の鎌倉 その6 北向観音 その1 北向観音と善光寺

2014-01-16 20:28:31 | 家内の実家
暇にまかして、投稿したブログをワードの画面に整理しだして分かった事は

幾つかの投稿が完結せずに尻切れになっていることです。

ネタ無しで困っている今、丁度それらを完結するチャンスですので

未だ半分程度の掲載で終わっていた塩田平散策の続きから書くことにして

前回最後に記載した中善寺の次に訪れた北向観音から取り上げます。

別所北向観音は散策初日の最後の見物先で、

宿泊場所が別所温泉でしたので、先ず宿に行き荷物を下ろし徒歩で北向観音に行きました。

北向観音

天台宗の寺院で、正式には北向山常楽寺といいます。

後程ご紹介する天台宗常楽寺が所有・管理しているお堂です。

北向観音本堂

起 源

厄除観音として知られる北向観音の創建は825年です。

常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらしたのを

見た慈覚大師が大護摩を焚き祈祷した所、

紫雲が立ち金色の光とともに観世音菩薩(北向観音)が現れ大地を清浄化しました。

大師はこの観世音菩薩を模った木像を自ら彫り込み、

小堂に祀ったのが始まりと伝えられています。

参道から見上げた北向き観音

北向観音名前の由来

南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、

善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し

北向観音は「現世の利益」に御利益があることから

「片方だけでは片詣り」と言われています。

なお寺院は南向きが多く、北向きは少ない様です。

歴 史

969年平維茂は一山を修理し、三楽寺(常楽寺・安楽寺、長楽寺)、

四院、六十坊を増築したと伝えられます。

1182年には源平争乱の中、木曾義仲の手により

八角三重塔(安楽寺)と石造多宝塔(北向観世音が出現した所)

を残して全て焼失してしまいますが、

源頼朝の命のもと伽藍復興が行なわれ、1252年塩田陸奥守北条国時により再興され

 
さらに鎌倉時代は北条義政をはじめ塩田北条氏、歴代上田藩主から

寺領の寄進などを受け庇護されました。

現在の北向観音堂は1713年に火災で焼失し1721年に再建されたものです。


本堂建物様式

北向き観音本堂とお仲間達

入母屋、妻入、銅板葺、母屋のまわりに庇が付き

正面には唐破風の向拝があるなど外観は大きさは大分差がありますが

善光寺本堂に似て見えます。

善光寺本堂正面

善光寺本堂側面で右側が正面

入母屋・妻入れについて

ここで少し脱線しますが、ご参考まで入母屋、妻入について説明します。


入母屋造り

妻入りの説明図

建物の出入り口は、基本的に平入りと妻入りの二通りがあり、

平入りは、上図に示す様に建物の平側(棟に対して直角方向)に出入口を設ける形式で

妻入りは、建物の妻側に出入口を設ける形式です。

建物のどちら側に出入口を設けるかということは

単にその建物の設置場所の問題にとどまらず

その建物自体の用途、構造、意匠ならびに外観等に係わる重要な問題なのです。

一般的に横長の建物は長手方向を正面にしたほうが見栄えが良く

堂々として落着いた感じになり、また内部の仏像の配置の関係から

大型で横長の寺院建築では平入りが多く、妻入りは極めて例が少ない様です。

妻入りの善光寺本堂について

北向観音が何故珍しい妻入りになったのかは資料が見つからずわかりませんので

正面7間奥行16間のわが国最大級の妻入り寺院の代表的建物である

善光寺本堂が何故妻入りになったかを調べてみました。、

結論的に言うと、複数の機能を持つ建物を前方に順次連結し、

これをひとつの屋根で覆い、棟を長手方向に架けたことによって妻入りとなったものです。

善光寺本堂平面図

当初は、上図の最奥部のご本尊、瑠璃壇、開山三郷像のある5間4間が本堂の原型でした。

この原型本堂の脇に左右一間を付加した後、

その前に礼堂(現内々陣)が、更にその前に内陣と外陣が付加されました。

このように順次建てられた4つの棟が一緒になり、縦に並ぶ形式となったものです。

奥の内陣および内々陣の棟は正面に直交しており、もとは平入りでした。

次の本堂を横から見た写真をご覧になるとそのことがよく分かります。

横から眺めた本堂

写真の左側の正面と同方向の屋根の下に正面、外陣、内陣が

そして左側の屋根に直行する右側屋根の下に内々陣とその奥の当初の本堂があり、

右側部分は当初は平入りだった事が分かります。

このように屋根はT字型をしており、その形状から撞木(しゅもく)造といわれます。

なお撞木とは仏具の一で、鐘・鉦・磬を打ち鳴らす丁字形の棒です。


信州の秋 その3家内の実家

2013-11-15 08:47:53 | 家内の実家
長野の家で2泊して冬自宅が終わった後、家内の実家に行きました。

裏山の紅葉

実家と後山の紅葉

裏山の紅葉が始まっています

上の写真の左側の山の紅葉と手前のリンゴ畑

手前のリンゴ畑にはリンゴがたわわに実っています

たわわに実るリンゴの木

山の中腹にあるお寺の周囲が紅葉が進んでいます

前の池の桜の紅葉

例年は綺麗な桜の紅葉、今年は色が悪くてがっかりしました。

釣り人はいつもの様にいました

赤黒い色の桜

玄関前の道で見つけたもの

タンポポ

鳥。ベルさん名前教えて下さいね

実家の庭

ドウダンツツジが1本綺麗に紅葉しており、

奥にはモミジが1本紅葉していますが、

手前の中心になる躑躅はほんのりと紅葉し始めの状態でした。

庭の紅葉状態

紅葉したドウダンツツジ

庭の花

花といえば上の庭の写真の右側に薔薇が2種類咲いていましたが

写真を撮り忘れました。

溝の中に朝顔が咲いてました。


溝の中の朝顔

あとは廊下には胡蝶蘭とガーデンシクラメンが

胡蝶蘭とガーデンシクラメン

塀の塗装と一騒動

最初の写真にある車の先の門は、実はこの道路の先にある公道が昔は狭くて

こちらの門は余り使われず、次の写真の東側の問が使われていたようです。

東側の門

前にも書いた記憶がありますが、この松の剪定は

植木屋さんが5人がかりで行う金喰い虫の松です。

この門から入った先に小さな塀があり、

大分色も落ってしまったために、小生がペンキ塗りをしました。

ペンキ塗りをした塀

次の写真でお分かり頂けるかと思いますが、

足場が悪くて無理な姿勢で塗ったためか、終わると腰痛が起こり

痛み止めの薬を飲んで寝込むという一騒ぎになりました。

幸翌日には治り無事帰宅できました。

塀の裏側は、昔ここで洗い物をした場所とか

上の写真の右に蛇口と、そこに水を井戸から送り込む電動ポンプがありますが

今は水が濁って使えない状態で、写真の左の青いバケツがある水道を利用しています。