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flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

崑崗臺曳行

2008-05-25 00:00:21 | 民俗・伝承
(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要民俗文化財)
 日枝神社から戻ってみると、曳き揃えられていた神明町通りから片原町の屋台蔵を経て、崑崗台(こんこうだい)が夜祭のために曳行されていた。狭い道を通る屋台も、また違った面持ちがあった。
     

(関連記事:飛騨高山平成二十年春Ⅰ
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山王祭 神樂臺

2008-05-17 03:00:28 | 民俗・伝承
(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要民俗文化財)
 五台山の屋台蔵から南へ向かうと、三番叟の屋台蔵がある。このすぐ隣りが昨日火災が発生した場所であるが、延焼は免れた。更にその少し南には、神楽台の屋台蔵があり、屋台が入っていた。からくり奉納場所に置かれていた神楽台も、屋台蔵に一時しまわれていたようだ。
 
 その後暫くし、夜祭に向けて、宮川中橋へ曳かれて行った。
   
 上一之町上組の屋台である神楽台は、それまで担ぎ台であったのを文化年間(1808-14)に台車化したものである。祭礼の際には神楽、獅子舞の主管の司り、先導をする別格の屋台である。嘉永七年(1854)の改修の際、金具の部分に純金が使用され、そして恵比須台と同じく、江戸時代後期の彫刻家谷口与鹿(よろく)の彫刻が施された。平成7年に解体修理が行われている。

 この後は、山王祭の中心である日枝神社に参拝した。
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山王祭屋台曳き揃え 五臺山

2008-05-13 00:00:24 | 民俗・伝承
(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要民俗文化財)
 屋台が曳き揃えられている神明町通りを歩いていると、小雨が降りだした。ここでも私の負の能力が発揮されたようだ。
   
(円山応挙が下絵を描いた獅子牡丹の刺繍幕)

 
(京都御所用車師中川万吉作御所車と、信州諏訪立川和四郎作の飛獅子彫刻)


(宮内省帝室技芸員幸野楳嶺原作、西陣織雲龍昇天図見送り幕)
 
 曳き揃えられている八台の内、上二之町中組の五台山だけがシートが被せられ、屋台蔵へ向けて移動が始まった。
        
 五台山は当初、盧生(ろせい)と呼ばれ、文化年間に改修された折に中国の名山の名に改められた。然し、天保三年(1832)に焼失、同八年(1837)に再建された。そして昭和48年(1973)に解体修理されている。

(関連記事:神楽台
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山王祭屋台曳き揃え 神明町通り 

2008-05-10 00:00:57 | 民俗・伝承

(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要民俗文化財)
 からくり奉納場所から、神明町通りに差し掛かる。ここには、お旅所前の三番叟龍神台石橋台神楽台以外の八台が揃えられている。

崑崗台(こんこうだい)片原町屋台
 当初は、「花てまり」「林和靖」と呼ばれ、その後、中国の金産地、崑崗から、崑崗台と改められた。故に、金の御幣、宝珠等が使われている。平成13年に解体修理が行われている。
 (トップ写真含む)
崑崗台曳行

恵比須台(えびすだい)上三之町屋台
 当初は、「花子」「殺生石」「蛭子」と呼ばれ、天保時代に恵比須台に改められた。江戸時代後期の彫刻家、谷口与鹿(よろく)作の彫刻があしらわれ、鍍金には14kgの金が使われている。昭和43年に解体修理が行われている。
  

琴高台(きんこうだい)本町一丁目屋台
 当初は、「布袋」と呼ばれ、文化十二年(1815)に漢学者、赤田臥牛が『支那列仙伝』の故事、「琴高、赤鯉に座し来る」から屋台名を名付け改めた。故に、鯉づくしの意匠となっている。昭和41年に解体修理されている。
   

青龍台(せいりゅうだい)川原町屋台
 当初は、「道成寺」と呼ばれていたが、天保三年(1832)に焼失し、嘉永四年(1851)に再建された際、青龍台と改められた。高山城天守を表現したという入母屋造りの屋根が特徴的である。昭和31年に解体修理が行われている。
  

麒麟台(きりんだい)上一之町下組屋台
 当初は、「鉄縄」「よしの静」と呼ばれ、高山藩金森家から拝領の麒麟の香炉を所持していたことにより、文化十年(1813)麒麟台と改められている。昭和46年に解体修理されている。
   

大国台(だいこくだい)上川原町屋台
 寛政八年(1796)建造の松樹台を由来とし、上二之町から大黒天を譲り受け、大国台と改められた。屋根が前後左右に揺れる構造となっており、平成13年に解体修理が行われている。
 

鳳凰台(ほうおうだい)上二之町下組屋台
 当初は、「迦陵頻」「鹿島」と呼ばれ、文政五年(1822)鳳凰台と改められている。屋根には赤木白毛の237cmの鉾が立ち、オランダ古渡りの三色幕が使われ、周囲に麒麟彫刻が施されている。昭和37年に解体修理が行われている。
   

 訪れて間もなくして小雨が降りだし、残り一台の屋台「五台山」の撤収作業が行われた。

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山王祭からくり奉納 石橋臺

2008-05-07 00:00:44 | 民俗・伝承
(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要無形民俗文化財)
 龍神台に続いて、上二之町上組、下神明町西組の屋台、石橋台(しゃっきょうだい)の奉納が始まる。
 扇笠姿の美女が踊りながら、長唄「英執着獅子」(はなぶさしゅうちゃくじし)に合わせ、機関樋(屋台からせり出すレール)の先端に進むと打掛がめくれ、獅子に変身(美女の尻に獅子が付いている)して舞い始める。そして、最後に元の美女に戻り、牡丹の花を持って踊るというからくりである。
         
 からくり奉納終了後、宮川中橋を渡り、神明町通りの屋台曳き揃え に向かった。

(関連記事:からくり屋台 三番叟 神楽台 飛騨高山平成十六年秋 平成十九年春 江名子
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山王祭からくり奉納 龍神臺

2008-05-04 00:00:24 | 民俗・伝承
(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要無形民俗文化財)
 三番叟に続いて、上三之町中組の屋台、龍神台の奉納が始まる。
錦袋に入った壺を持った唐子が謡曲「竹生島」に合わせ、機関樋(屋台からせり出すレール)の先端に進み、壷を置いて引き返すと、壺の中から赤ら顔の竹生島の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うというからくりである。
           

 続いて、石橋台のからくりが始まる。

(関連記事:からくり屋台 神楽台 飛騨高山平成十六年秋 平成十九年春 江名子
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山王祭からくり奉納 三番叟

2008-05-01 00:00:31 | 民俗・伝承

(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要有形民俗文化財)
 午前10時半に高山へ到着。道中、雪の残る場所が幾つかあったが、高山の気温も8℃であり、曇天で寒かった。
 
 先ずは観光案内所で市内の施設に入館できる「通行手形」をいただき、日枝神社お旅所前にある、からくり奉納場所へ向かった。到着直後は、まだ隙間のあった奉納場所も、みるみるうちに多くの人で埋め尽くされ、と同時に太陽が顔を出し、そして日差しが強くなり気温も急上昇、顔がじりじりと焼けるのが分かった。
  
 春の高山祭である山王祭は、江戸時代前期に、高山城下の江戸街道(国道158号線)より南側の氏神である、日枝神社の例祭として始まったものであり、からくり奉納や屋台曳き揃え、夜祭、御巡幸等が行われる。
 
 からくり奉納三台(三番叟、石橋台龍神台)の内、上一之町中組の三番叟(さんばんそう)は、屋台で演奏される謡曲「浦島」に合わせて童人形が機関樋(屋台からせり出すレール)を先端に進み、箱に顔を近づけると、一瞬に「翁」に変身するからくりである。
     

(関連記事:からくり屋台 神楽台 飛騨高山平成十六年秋 平成十九年春 二十年春Ⅰ 江名子

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犬山祭

2008-04-18 02:00:46 | 民俗・伝承

(針綱神社祭礼 愛知県犬山市 国指定重要無形民俗文化財)
 犬山城の守護神である針綱神社の祭礼として、寛永十二年(1635)に下本町、魚屋町でお練りを行うようになり、その後、車山(やま:山車)でからくりが奉納されるようになったのが始まりである。その後、中本町、熊野町等でも車山が曳かれるようになり、犬山城主成瀬正虎がこれを奨励し、十三町全てで車山が曳かれるようになった。また、始められた当時は、台車の上に飾り物を載せていた程度のものであったようだが、次第に二層、三層に発展していった。
 
      (本町から犬山駅前に到着した、名栗町車山「絳英:ほうえい」)


  (鍛冶屋町車山「寿老臺」)

  (枝町車山「遊魚神」)

 (新町車山「浦島」)

   (本町角を曲がる、下本町車山「應合子」)

   (中本町車山「西王母」)

 (余坂車山「宝袋」)

 この日は、初日の試楽(しんがく)と呼ばれる日で、針綱神社へからくりの奉納が行われた後、車山を曳き回し、犬山駅前へは十三台中、七台が集結した。私は、犬山駅から本町を曲がり、残りの六台がある針綱神社前へと向かった。
 上の写真でも分かるように、電柱、電線が気にならないだろうか。犬山市では、地中化に向けた動きが始まってはいるようだったが、他の町並みを意識する観光地では、電線地中化は既に進んでおり、犬山市はやや遅い歩みといえる。他にも、町並みの景観対策や、街路での歩道の確保等、改善点は幾つかみられる。また、観光アピールに対しても、名古屋鉄道等に依存する傾向にあり、市の財政状況は厳しいと聞いているが、もう少し力を入れて欲しいと感じるところである。
 更に発展した観光推進策として、木曽川を跨いだ岐阜県各務原市との提携による相乗効果をねらいたい。犬山城の対岸には、犬山橋のたもとに存在する「鵜沼城跡」と、ライン大橋側対岸に位置する「伊木山城跡」があり、更に中山道鵜沼宿がある。これを活かさない手はない。
 また、市内でありながら、中心市街地からみて遠い位置に存在するため、来訪者が右肩下がりの「明治村」や「リトルワールド」は、それを補う交通手段の拡充(駅からの直通バスではなく、市街地を経由するタウンバスや、既存モノレールの改良等)や、越県を視野に入れた、相互観光対策が必要であろう。
 (外町「梅梢戯」と寺内町「老松」) 
(魚屋町「眞先」、本町「咸英」、練屋町「国香欄」、熊野町「住吉臺」)

(関連記事:犬山平成二十年 善師野 継鹿尾浣華渓 桃太郎神社

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美濃 流し仁輪加

2008-04-15 23:30:47 | 民俗・伝承
(美濃まつり にわか 岐阜県美濃市 国選択無形民俗文化財)
 花みこし が終わり、町並みの喫茶店で一息つくことにした。やがて、通りからお囃子の音が聞こえ始めた。松の木に赤丸提灯を付けた仁輪加車を押し、お囃子をしながら十五の組が十五の町内を廻る。そして、各町内の辻において、仁輪加が始まるのである。
       
 美濃流し仁輪加は、江戸時代後期に始まった庶民芸能をルーツとし、その年の世相や時事、風刺として演じる即興劇である。
 美濃流し仁輪加を始めるときには口上があり、最後に落とし(オチ)を入れ、演者全員が「エッキョー」と掛け声をかけて締めくくる。そして、現代ではあまり使われなくなった、純粋な「美濃ことば」を聞くことができる。今年のお題には、北京オリンピック、冷凍ぎょうざ、温暖化問題、まちの財政問題や過疎化、合併に関するお題もあった。
   
  仁輪加には老若男女が参加し、コンクールも開かれるが、若人が一人前になるための通過儀礼的な要素があり、町内の結束と個人の度量、学習を高める役割も持っている。故に、笑いが起こる中にも、審査する耳と目がそこかしこで光っている。然し近年は、個人主義の波が押し寄せ始め、伝統の強い美濃町から去る者の数に対し、転入する者は少なく、過疎化が進んでいる。

 昼間は花みこし渡御のためしまわれていた提灯が現れ、町並みをより美しく引き立てていた。美濃の夜はまだ長いが、私は列車の時刻があるため早々に後にした。
  

(関連記事:哀愁のrailway 上有知宿 牧谷街道 長良川上有知湊 美濃橋 美濃小倉山城 美濃町平成十九年 美濃町線 港町岩陰遺跡
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花みこし

2008-04-13 13:00:34 | 民俗・伝承

(美濃まつり 岐阜県美濃市 市指定無形文化財)
 「上有知:こうずち」へは、半年振りに訪れる。今回は当日になって訪れることを決めた。それは最近、前もって予定を立ててしまうと、天候やタイミングに恵まれないことが多いからであった。
 今回は家を出るのが少々遅く、9時過ぎであった。そして日中の列車本数の少ない時間にかかり、美濃市へは午後1時半の到着となったが、先日の沖縄の方が所要時間が少ないくらいであった。
 駅を下りると、遠くから掛け声が聞こえ始めた。そして視界に「花みこし」が入り、動く花みこしを初めて目にした。
 「花みこし」は、上有知八幡神社祭礼行事の一つである。江戸時代に起きた旱魃(かんばつ)の際に、雨乞いの飾り付けを特産の和紙で行ったのが始まりという。
     
(広岡町付近)

  (相生町付近)

 

 
 (泉町付近)

  

 (終りの近づく、花みこし)

(八幡神社)     (片付けの始まった花みこし)

(関連記事:哀愁のrailway 上有知宿 牧谷街道 長良川上有知湊 美濃橋 美濃小倉山城 美濃町平成十九年 美濃町線 流し仁輪加 港町岩陰遺跡
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火おんどり

2007-08-22 00:00:10 | 民俗・伝承
 
(信玄原火踊 愛知県新城市竹広 県指定無形民俗文化財)
 山県昌景墓所前方で“タイ”と呼ばれる(大松明)に点火された道行は、信玄塚に差し掛かる。

 天正三年(1575)五月、設楽原で繰り広げられた合戦は、多くの戦死者を出した。
亡骸を大塚、小塚の二つの場所に埋葬し、霊を弔ったが、その年の夏、塚の辺りから群蜂が発生し、近くを通る信濃往還の往来も妨げられる程の状態になったという。
住民は、武田軍の亡霊が現れたのだと思い、川路勝楽寺の和尚が読経をして松明を焚いて供養したところ、群蜂の姿は無くなったという。これが、火おんどりの始まりとされる。その後、次第に松明も大きくなり、また囃子も合わせて行われるようになったという。

 信玄塚に差し掛かると、左回りに道行し、回り終わると、大塚、小塚の間に用意された松明にも点火、火踊が始まる。開始早々はまだ火が小さいが、次第に燃え広がり大きくなっていく。そして “タイ”を戦場の光景を再現するかのように、十文字斬りを模り振り回す。辺りに灼熱の空気が流れ、踊者も見物人も、その勇ましさに酔いしれていく。
  
 踊場周囲には大量の撮影者がいる。踊者の気持ちも盛り上げ、プラスになる部分もあるが、なかには流れを乱し、場内を動き回って邪魔をするようなマナーの悪い撮影者もいる。私は人々の大勢集まる行事に訪れた際、撮影は数枚にしておき、五感で感じる見物を大切にしたいと思っている。よって、これら催事の写真枚数は非常に少ない。
    
 火おんどりが終わる頃、燃え上がった大松明を見ていると、落城を思わすような瞬間を感じるときがある。この熱い行事が終わると、間もなくして秋がやってくる。
 

(関連記事:火おんどり採火式 設楽原決戦場まつり 鍋づる万灯 乗本万灯
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火おんどり 採火式

2007-08-20 00:00:45 | 民俗・伝承
 8月15日の夜、旧竹広村の庄屋峯田家では、採火の儀式が行われる。
当主により火が熾され、松明に点火する。
そして鉦、太鼓、笛を伴い、道行が始まる。
火おんどりの坂を上り、山県昌景墓所の前方で”お種”と呼ばれる松明から”タイ”と呼ばれる大松明に点火され、信玄塚での回向が始まる。
       
(関連記事:火おんどり
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乗本万灯

2007-08-18 00:00:40 | 民俗・伝承



(愛知県新城市乗本 県指定無形民俗文化財)
 8月15日に行われる旧乗本村の送り火行事。
 村内秋葉神社で熾された聖火を、山腹の大日堂(大日山安居院)に運び、六本の松明に移されて道行が始まる。鉦、太鼓、笛を伴った道行は、一旦山を下り、本久集会所を横切って山道に入り、鳶ヶ巣山途中の万灯山に差し掛かると、麦藁で作られた万灯に火が移され、縄のついた万灯を頭上で振り回す。
 長篠の戦いの際、乗本では多くの戦死者を出し、その霊を弔うものとして起こったという。後に村人男子の通過儀礼を含むようになり、今に続いている。
  元火(聖火)
        
この日隣接する地区では、大海の放下市川鍋づる万灯信玄原火踊等が行われる。

(関連記事:乗本万灯平成二十年

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大海の放下

2007-08-16 02:00:12 | 民俗・伝承
(愛知県新城市大海)
 8月14、15日夕方に行われる新盆供養、送り火行事。
 私は、毎年送り火の日には他方へ出かけることがなかったが、今年は予定を調整し、大海集落へと向かった。二日目のこの日は、旧村の由縁のある場所を周り、泉昌寺で上げ放下が行われる。ちょうど、地区南端の墓地から道行の列が出てきたところを遭遇し、続いて暫しの休息の後、秋葉灯篭前で踊り、念仏が唱えられた。私の知人がこの地に住んでいるため、詳しいことを聞きながら周った。
 道行は、精霊のよりしろとされる灯篭が先頭で露払いをし、年寄役、笛、鉦、うちわ(前楽、大拍子、後楽)、ささら、提灯の順に並び、移動する。
 大海の放下は、鎌倉時代初期、遊行僧或いは放下僧と呼ばれる僧侶が各地に念仏の教えを広めたところから伝り、発展したのが大海の放下と伝えられている。
長い歴史の中で、何度となく行事が途切れたが、現在は愛知県の無形民俗文化財として、後世に伝えられている。

この日、隣接する地区では、市川鍋づる万灯乗本万灯信玄原火踊が行われる。      
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御油 平成十二年夏

2007-08-05 02:00:15 | 民俗・伝承
(ごゆなつまつり 愛知県豊川市御油町 2000年8月5日)
 先週の大社神社祭礼国府祭りに引き続き、御油町の西方に鎮座する御油神社の祭礼として行われる行事であり、主に厄年の男子氏子が主体となって神輿を担ぎ、花火等が奉納される。
 

(関連記事:御油平成十七年 十八年 十九年 二十年 御油宿
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