近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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10/17萩原朔太郎「猫町」研究発表

2016-10-19 12:45:38 | Weblog
こんにちは。
10月17日に行われた萩原朔太郎「猫町」研究発表のご報告です。
発表者は三年渡部さん、二年吉野さん、一年武田さん、司会は一年野口が務めさせていただきました。


今回の発表は『獲得される「詩人の直覚」』という副題でした。本文検討ではテクスト内の時系列に注目しながら、「私」が「詩人の直覚」を獲得し、また自らがそれを持っていることを自覚することで猫町の実在を信じ主張できるようになったものの、「詩人の直覚」はあくまで個人的なものであるために「私」の体験や主張は他人に伝わるのは困難であるという読みを提示していただきました。

発表では、景色の裏側とは物理的に景色の裏側があるということではなく、実際の光景を「私」の直覚によってとらえたものであるとの解釈を提示していただきました。まだ「詩人の直覚」を得られず現実の旅に飽き、薬によって主観の構成する世界に遊んでいた「私」が、方位の錯覚によって美しい町を発見するという体験から景色の裏側を見ることを経験し、二章では視点が移動するという外界の変化によるプロセスを経ることなく「詩人の直覚」をもとにした内面の変化によって景色の裏側を見たとするのが発表者側の主張でした。

シヨウペンハウエルの言葉について、発表者側では「私」の主張と食い違いがあるため「私」によって付せられたものではないとしていましたが、観念することに価値があるという姿勢から「私」に近い立場の言葉なのではないかというご意見がありました。また、「私」の体験や主張そのものだけが大切なのではなく、「私」の体験を読者がどう受け取るかが重視されるのではないかというご意見があり、このご意見をシヨウペンハウエルの言葉と関連付けて考えるという視点も新たに見出されました。

また、「私」の語りに見られる時系列の混乱について意見が交わされました。発表者側では章番号の順番に語られたとしていましたが、「私」の言葉からその順番だとは言い切れないのではないかというご意見がありました。こうした時系列の混乱も含めて、語り手である「私」への不審感について意見が集まりました。これについては岡崎先生から、「猫町」は語り手である「私」を疑う読みが有効な作品であるというご指摘をいただき、私語りだからといって「私」の価値観が反映されているとは限らないというお話をいただきました。


以上、纏まりのないものとなってしまいましたが、今回の活動のご報告でした。司会の技量不足から全てのご意見、ご指摘をご紹介することができませんでしたが、学年を問わず鋭いご意見が交わされた研究会となったように思います。


次回、10月24日は井伏鱒二「へんろう宿」の研究発表となります。