近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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10/3志賀直哉「城の崎にて」研究発表

2016-10-03 23:33:11 | Weblog
こんにちは。
10月3日に行われた志賀直哉「城の崎にて」の研究発表のご報告です。
発表者は、三年今泉さん、一年浦野さん、一年柳谷さんでした。司会はわたくし、一年望月が務めさせていただきました。

今回の発表は「〈三つの死〉、彼岸から此岸への帰還」という副題のもと、様々な観点から本文の検討が行われました。「様々」と申しましたのは「城の崎にて」という作品自体、先行論においても既に一言一句仔細に吟味されているからです。主な論点としては「蜂」、「鼠」、「蠑螈」の死ですが、それらを描く志賀直哉の精巧な文体及び、物語の構成も大きな論点でした。また草稿の「いのち」を含む執筆背景も「城の崎にて」に関わっており、読解が難航していた要因の一つであったかと思われます。加えて物語末尾において、語りが三年以上の月日を跳躍しており、複雑さを助長していることは明らかです。このような作品ですから、事物を何かの象徴として論を述べることは必然ですが、憶測の域に深入りせぬよう用心せねばなりません。

作品において特徴的な、「静か」や「淋しい」というの言葉の連続に目を向けられ、これは「自分」の静寂への親しみではないかということが挙げられました。しかし、「淋しい」の前後に明らかな逆説が用いられている箇所が見受けられ、死への共感、とだけ一方的に受け取るのは性急ではないかという論も交わされました。この点においても先行論がありますので、比較及び検討を要するかと思われます。

非常に難解な論点となったのは、作中における「流れ」でした。この「流れ」とは物質的な、又は空間的な「流れ」であり、簡潔に申せば「川の流れ」と「物語構造としての流れ」となります。二つは全くの別物としても捉えることが可能ですが、今回においてはその関連性に焦点があてられました。「自分」が物語の進行に合わせて川の上流へと向かうとそれぞれ意味の異なった生物の死を感じ、生と死が両極でないように感じます。「自分」はそこで「蜂」も「鼠」も水に流されていることを思います。疑問点として挙がったのは、それより前の「桑」の葉の場面における「流れ」でした。とても象徴的な意味合いの強い表現だと思われるので、全体の構造を考慮しての意見が多くありました。

最後に岡崎先生が締めくくりとして、文章自体は散らばっているものの、やはりそこには志賀直哉の計算と技巧があることや、「桑」の葉の非現実的な様相の描出及び、動く葉の原因を書かなかったことによる表現などについて、また語り手の位置の不明などについても、まとめていただきました。先行論を読んでもなお参考になるお話でした。

以上までが今回の「城の崎にて」研究発表のご報告でした。「城の崎にて」は様々な論があり、現在においても研究され続けていますが、心境小説と呼ばれることもある通り、非常に複雑な作品です。相変わらず解明できない点は多いですが、それがこの作品の評価すべき点だと、わたくし個人として信じています。
今更ながら初めての司会でした。一言、単純に司会は難しいと思いました。普段は独り作品の世界に入り込んでいたので、今回の務めは手が震えるような心持でした。全く本文解釈の方に気を取られ、職務を忘れそうにもなりました。会全体としては非常に話しやすい雰囲気でありましたが、司会としてのわたくしに反省点がいくつもあることは事実です。報告も長々と綴ってしまいましたので、こうご期待という形で円満に締めくくらせていただきます。

次週は芥川龍之介「馬の脚」の研究発表となります。