近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成二十八年度四月十八日 井伏鱒二「山椒魚」 読書会

2016-04-19 16:12:16 | Weblog

四月十八日より、平成二十八年度の活動が本格的にスタートしました。
心がけも新たに、研究会の活動にいそしんでいきたいと思います。

さて、今回は井伏鱒二「山椒魚」の読書会を行いましたので、ご報告させていただきます。
司会を務めさせていただいたのは、わたくし、三年の小玉です。

先ず、「山椒魚」という作品について、僭越ながら、簡単にご紹介させていただきます。
「山椒魚」は、井伏の習作期の作である「幽閉」を改題、改作したもので、昭和四年五月「文芸都市」に掲載され、世に広まることになりました。その後、井伏は生涯に渡りこの作品に向かい続け、昭和六十年十月、米寿の記念に新潮社より発刊された『井伏鱒二自選全集』では末尾の数十行を削除するという大改訂を行いました。この場面は従来〈和解〉の場面としてとらえられており、学校教育においてもこれに倣った指導がなされてきました。このことから、この場面を削除するということは、当時にあって大きな反響を呼ぶことになりました。この問題は、生成論という観点が広まってきている現在にあって、今一度、見直されるべき問題であると考えられます。

前置きが長くなりましたが、このような問題をはらむ「山椒魚」はいかようにして読むことができるのか。今回の読書会の論点になったのは大別して二つあります。一つは、語り手の問題。もう一つは、前述の「山椒魚改訂問題」についてです。
まず議論の対象になったのは、語り手についてでした。会員からは、作品が後半になるにつれて会話文が多くなり、地の文が影を潜めることから、語り手に何らかの変容が起こっているのではないかという発言がありました。これを発端に、山椒魚に自我が芽生えたため、語り手の統御を離れてしまったのではないか、という意見や、「山椒魚」というテクストを一つの劇であるととらえ、蛙という飛び入り役者のために脚本家たる語り手の世界が崩壊していったのではないか、というユニークな意見も登場しました。ただし、岡崎先生をはじめ、他の会員からも、事態のあらましを先取りして語ってしまうこと、山椒魚の推測を代弁してしまうことなどの一貫した語り手の語り口から、語り手の変容は読み取りづらいのではないかというご指摘がありました。このことから、むしろ、斎藤知也氏の論文(「「嘲笑」めぐって‐井伏鱒二『山椒魚』を読む」 「日本文学」二〇〇五年七月)を援用して、「外界を嘲笑してしまう山椒魚と、山椒魚を嘲笑してしまう読者とをだぶらせて語る語り手」という構造を読んでいくのが生産的であろうという意見も出されました。

後半に話題にあがったのが、末尾の削除された部分についてでした。この話題は、場面の大半を占める会話劇の解釈を通じて進行しました。
まず、蛙を閉じ込めることにより発生するこの場面に、「よほど暫くしてから」という山椒魚にとって初となる他者へ向けられた思索の時間が書き込まれることや、蛙の「今でも~怒っていないんだ」という以前より「怒っていない」事が明らかにされることによって、山椒魚の協調性の回復と蛙の許しが読まれることになるとの指摘がありました。ここから、明確に〈和解〉と読めてしまう文脈を削除することによって、いわゆる「開かれた終わり」になるのではないかという意見が出されました。ただし、この意見には、読みの限定されない文章をどのように扱えばよいのか判断に困る、という素直な意見も寄せられ、今後の課題として残されることになりました。
またこのほかにも、前出の語り手の話と絡めた意見も出されました。語り手はもともと山椒魚を「嘲笑してはいけない」ということで「諸君」を山椒魚を嘲笑するステージに立たせていたが、蛙の登場によって話し相手を得た山椒魚の溌剌とする様子には「嘲笑」という言葉を用いず、「嘲笑という話題に触れない次元」にシフトしているというものでしたが、司会として興味深く聞いておりました。

また、岡崎先生からは「身体性の発見の物語」として読むことができるという新たなご指摘をいただきました。
短く、ほのぼのとした文章ながら、難解であり、かつ未だに多くの可能性を秘めている文章だと痛感いたしました。

今回の読書会は、多数の新入生にも参加していただきました。また新入生の方からも活発な意見活動が見られました。近研の新しい力になってくれるであろう新入生に対して心強く感じるとともに、こちらも負けてはいられないと奮起することのできるよい会になったと思います。