近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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平成30年7月16日泉鏡花「化銀杏」研究発表

2018-07-17 15:53:35 | Weblog
こんにちは。7月16日に行われた泉鏡花「化銀杏」研究発表のご報告をさせていただきます。
発表者は2年佐々木さん、2年中島さん、1年石井さん、1年斎藤さんです。(今まで男性会員には「くん」、女性会員には「さん」と使い分けてきましたが、勝手ながら、男女・年齢問わず呼称を「さん」に統一させていただきます。)副題は―世間を打破する可能性―です。司会は3年望月です。

「化銀杏」は明治29年2月「文芸倶楽部」に掲載の後、明治44年3月『鏡花叢書』(博文館)に収録され、同時代人には賛否両論、それだけ明治の時代に"新しすぎる"気風をもつ作品であったといえると思われます。
本作はそれまでの鏡花文学におけるいわゆる観念小説から、年上の女性と少年の悲恋という主題に代表される幻想小説へと移行していく時期の作品となっております。本来、夫婦の愛を保証するはずの婚姻制度が、かえって人に対する愛の強要となるというモチーフは、当時の社会に対する痛烈なアンチテーゼとなります。作品発表の明治29年を婚姻制度の黎明期、あるいは浸透期と過程するならば、その嘆きはより強烈な社会批判となるかと思われます。鏡花の嘆きは、「愛と婚姻」(「太陽」明治28年5月)に表れています。
研究史では、本作の大半を占めるお貞の語りに焦点が置かれ、またその語りを芳之助が引き出していくところに悲劇の予兆が含まれている、とする論が基軸となっているようです。また、本作の批判対象となる「世間」の倫理観については、今回の発表者も着目していました。

〈概略:発表者の主張〉
お貞と時彦との関係は「世間」を媒介として悪化していく。お貞にとっても時彦は決して全的な悪ではなく、特定の倫理観・制度を押しつける「世間」にその悪因が求められていた。お貞は、「世間」を背景とした時彦の好意に対して過剰なまでの嫌悪感を募らせていく。それまでのお貞の時彦に対する嫌悪感は漠然としたものであったが、「環」「芳之助」「時彦の評判」などとの交流がお貞の内面を外的な言語として吐露させる。その結果独り歩きし始めた「死ねば可い」というお貞の言葉が「呪詛」となり、芳之助とのズレを決定的なものとしていく。芳之助はといえば、彼はあくまでも亡き姉のお蓮の面影をお貞に求めていたが、彼女との対話の中でお貞とお蓮とのズレを認識していく。時彦を殺したお貞は銀杏返しを結っているが、芳之助はお貞にお蓮の面影を見出すことは叶わない。「化銀杏」となったお貞を救いうのは、婚姻制度(「世間」)を打破しうる「諸君」である。

以上の主張をうけて、お貞を救いうる契機をどこに求めていくのかという疑問が投げ出されました。そのことについて岡崎先生の方から、お貞を救う物語として希望的観測を打ち立てるのではなく、お貞を救い得ないほどに絶望的な「世間」の重圧を描き得た点に注目したい、という御意見をいただきました。他にも、どこか幽玄な雰囲気をもつ本作において、お貞や時彦の半ば異常な心理を、生々しくかつリアルに描かれているのが魅力的だという意見も提示されました。

今回初めて発表会に臨まれた石井さん・斎藤さんからは、レジュメ作成における論文の整理・添削の困難なこと、明治期の男女関係のありかたが馴染まない等のご感想をいただきました。昔の人と今の人とでは物の見え方が当然違ってきます。意識が変われば現象も変わります。しかし、現代の社会や「世間」のなかで全体の尊重を要請され、なおかつ「個性」なる怪しげな影を主張することを求められる我々は、案外「化銀杏」の世界にも劣らぬ不条理を抱えているのかもしれません。
次回は7月23日(月)、川端康成「片腕」研究発表を行います。